第24話 ティーンエイジャー

 分身したジョーとリンダは、「ハルト」という名の13歳の少年の居るTWに向かった。


 最初に接触したジョーの分身の記憶と、自身の感覚とを頼りに、ジョーはその世界の場所に関する場面をどんどん切り替えていった。


「ちょっと何これ? 気分悪くなってきた」


「すみませんリンダさん、もうすこし我慢して下さい」


 結局、百回くらい場面を切り替えたあと、ジョーたちはハルトの家の前に到着した。


「えっ、ここ!? 本当にここに住んでいるの? すごいわね」


 リンダが目を丸くするのも無理はなかった。

 そこには、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせるような荘厳たる石づくりの建物が、おそらく野球場が一つ楽々と収まるくらいの広い敷地の中に、白く凛と聳えていた。


 ジョーはリンダとともにその建物の壁をすり抜けていった。


「あらあら、あらら、あんたって人は次から次ぎへと、ほんと変なことができるのねえ」


「僕とリンダさんが今いる時間軸と、この世界の時間軸との間には少しだけズレがあるんです。つまり、我々の時間軸が支配する世界には、これらの建物が存在しないから、すりぬけているようにみえるんです」


「はあ、何だかよく分からないけど、まあいいわ。これはこれで面白いし」


 壁を突き抜けて行くと、吹き抜けで光が存分に差し込む広いホールに出た。そのホールから廊下が十字に分かれており、いずれの廊下にもペルシャ調の絨毯が敷かれていた。


「こっちだな」


 ジョーは時間軸を調節しながら、ハルトの力を感じる方向に歩き出した。リンダはジョーの後について行き、廊下の壁に飾られているいくつもの絵画や、天井に描かれているみごとな宗教芸術に目を凝らした。


「へえー、ここはまるで貴族の住むお城みたいね」


「そうです。彼はこのあたりの土地を長年にわたって修めてきた伝統ある貴族の一人息子らしいですよ」


「貴族のおぼっちゃんか、私とはえらい違いね」


「あれ? リンダさん、自分を卑下しているんですか?」


「違うわよ、失礼ね。まだ子供なのに大変だろうなっていう意味よ」


「何が大変なんです?」


「こういう暮らしを持続させていくためには、つまりこの資産を維持・管理していくためには、子供には少なくともその親と同じくらいのレベルまで成長してもらう必要があるわ。だから、その子供には略例外なく英才教育が施されていくっていうのが世の習いよ」


「彼もそうだと?」


「だって跡取りなんでしょ? しかもこんな大きなお屋敷ですもの、さぞかし名のある貴族なんだわ。そんな親から受け継ぐ富と名声にはかなりの責任と重圧が伴うはずよ」


 なぜかリンダは少し興奮しているようだった。


「それに比べれば私なんか、ほんと気楽なもんよ」


 リンダ自身も自分がいつもと違う状態にあることを悟ったのか、なにかを覆いかくすように急に語気を弱めた。


 そんなリンダに何気なく気をとめながらも、ジョーは廊下を足速やに歩いた。そして廊下の半分くらいにさしかかったとき、 


「Ave Maria Jungfrau mild, Erhore einer Jungfrau Flehen♪」


 廊下の奥の方から、琴とした歌声が聞こえてきた。


「Aus diesem Felsen starr und wild Soll mein Gebet zu dir hinwehen♪」


 ふとジョーがリンダを見ると、どこか人懐っこい瞳をして、ほのかな笑みを浮かべていた。


「私の好きな『Ave Maria』の歌だわ。それにしても、なんて伸びのある綺麗な声なの!? 鮮やかな色彩と模様のイメージが次々と湧き生まれてくる、まるで『マリア・カラス』の歌声が蘇ったようだわ!」


 リンダの言うとおり、その歌声には、耳を澄まそうものなら、もうその声糸からは逃れない。そうした強く柔軟な力があった。


 その声の主はすぐにわかった。廊下の終わりに近づくと、白いブラウスをきた金髪の少年が、天井までもある大きな出窓ガラスの前で歌っているのが見えた。それがハルトだった。


 透き通るような光を放つ紅顔の彼は、全身全霊を常にその声に託すことが当たり前であるかのように、何人も、いや神ですら文句のつけようのない自然な姿勢で、その歌声を全方位に織放っていた。


「!?」


 突然、ハルトの歌声が止まった。


「どうしたのハルト?」


 部屋の隅から若い女性の声がした。ジョーがその声の方に向くと、赤いロングドレスを着たおそらくまだ二十歳そこらの一人の女性が、そのはっきりとした丸い目をくりっとさせたまま、右手の甲に左手を添えて立っていた。ジョーとリンダは、ハルトから発せられるあまりの迫力と存在感に気圧されて、この女性の存在に全く気付くことができなかった。


「先生、すみません」


「歌を途中で止めるなんて、あなたらしくもない。どこか体の具合でも?」


「いいえ、大丈夫です。ただちょっと……」


「ただ、ちょっと?」


 しかしハルトは、目を伏せたままで、なにもしゃべろうとしなかった。その女性もそれ以上の追求はせず、ただひたらすらハルトの顔を見つめていた。


 しんとした沈黙が、ふたりの間を埋めようとしたとき、


「ああ! ランペルツ!」

 女性は何か思い立ったように、ハルトを両手で抱きしめると、右手でハルトの前髪を上にかき上げてその額に接吻をした。


「私のランペルツ、愛しい人!」

 女性はそのまま両手をハルトの首にまわし、その愛くるしい瞳をハルトの視線に重ねようとした。ランペルツとは、この女性だけが使うハルトの別称だった。


「先生、あの、今は、違うんです」


「え!? 違う?」


 女性ははっとしてハルトから素早く離れ、背中を向けた。


「ごめんなさい、わたし……」


「いいえ、先生。僕、なんだか集中できなくて、すみませんが今日はもう……」


「そう……最近、学校の方も忙しそうね? 新しいガールフレンドでもできたのかしら?」


「ガールフレンドって、僕の学校は男子校ですよ!」


「そ、そうだったわね。バカね私」


 ハルトは何かを察しているらしく、少しもじもじするようなそぶりを見せていた。しかし、我慢に限界がきたのか、意を決したように顔を上げた。


「先生。僕も先生を愛しています。先生だけを……」


 その瞬間、女性の顔に明るい光がぱっと宿り、再びハルトの方に振り返ると、不意を突くように彼の唇を奪った。そして女性は、持っていたハンカチで口元を隠し、その部屋に続く三つの廊下と窓際の方にすばやく目を配って誰もいないことを確認すると、ジョーたちがやってきた廊下の方に小走りしてその部屋を出て行ってしまった。


 ジョーは、あっけに取られていた。まさかこのような情事に出くわすとも思いもよらなかった。


「ジョー・キリイ!」


 女性の姿が見えなくなったことを確認したハルトは、突然厳しい目つきで言った。


「いるんでしょ? 僕以外ここにはもう誰もいません。さっさと出てきたらどうです!」


 あきらかな怒気を含むハルトの言葉で、ジョーは我に帰った。


「えっ? あっ? えーっと、そうだ、時間軸を調節しなくちゃ、いやー、参りましたねえリンダさん、ん?」


 ジョーがリンダの方を向くと、なぜかリンダは青ざめたような顔をしていた。


「どうかしましたか? リンダさん」


「見えないのよ……」


「見えないって、何がです?」


「そのハルトって子の姿がよ! 姿だけじゃない、声も聞こえないわ。さっきまで歌声はちゃんと聞こえていたのに! 一体どういうことよ?!」


 リンダはジョーの首をほとんど本気で締めて言った。


「ぐえっ、く、くるしい、リンダさん、お、おちついて下さい」


「落ち着いてなんかいられるもんですか! 何今の? 私には、女が一人で勝手におかしなことをいろいろやっているようにしか見えなかったわ。気持ち悪いったらありゃしない!」


 ジョーは両肩をリンダにがくがく揺らされながら、答えの在処にさまよっていた。


(えーっ!? なんで? 俺にはちゃんと見えているのに?)


 揺さぶられている脳であれこれ考えつつも、ジョーは、時間軸をハルトの世界のそれに合わせていった。


 ジョーは、ハルトの前に再び現れた。


 「なっ!? 何なんですか、その顔は?」


 ジョーの顔を見たハルトは、思わず声を上げた。


(あっそうか。俺、今、化粧していたんだっけ)


「えーと、これにはいろいろと事情があってね。決してふざけているわけじゃないんだ。それと実は今、私の隣にもう一人いるんだけど、見えるかい?」


「もう一人いるですって?」


 ハルトはあたりを見回したが、ジョー以外にそこには誰もいなかった。


「今度は僕をからかいに来たのですか?」


 ジョーとリンダ、そしてハルトは、全員同じ時間軸に存在していた。しかしどういう訳か、リンダとハルトに見えるのはジョーだけで、お互いの姿を確認することができなかった。


「そうじゃない。信じられないかもしれないど、今私の隣には一人の男性がいるんだ。名前はリンダさんといって、私とは会話もできる。だけど、君と同じように、リンダさんも君の姿は見えないし声も聞こえないようだ。ただ……」


「ただ、なんです?」


「さっきの君の歌声はちゃんと聞こえていたんだ」


「歌?」


「うん、君の歌声は本当にすばらしかった。まるで、えーと確か、阿部マリアさん?の『カラスの歌』が蘇ったようだって、リンダさんが言っていたよ」


「はあ? 僕がさっき歌っていたのは『Ave Maria』です。それと、もしかしてそれは『マリア・カラス』のことですか?」


「あっ、それ、その人! ごめん、俺、そういうの全然知らないんだ」


 さっき知り合ったときにその知的レベルをある程度把握した男の口から、決して発せられ得ない言葉が飛び出したことで、ジョーが嘘をついているのではないことをハルトは感覚的に理解した。


「僕の歌は、そんな大したものじゃないです。あくまで自分のために歌っているだけですから」


 ハルトは、はにかみながらそう言うと、ジョーの方に歩いてその距離を少しだけつめた。


「それにしても、あなたは今度もそうやって人の言動を盗み見るんですね!止めるよう前にお願いしたのに!」


 ハルトは、自身のプライベート、すなわち女性教師との関係を他人に知られたことが、たまらなく恥ずかしかった。


「え!? そうだったのかい。ごめん、謝るよ。でも、我々が来たことがよく分かったね」


「僕を甘くみないで下さい! ん? 何か匂いますね? これは、香水ですか?」


「香水?」


 その言葉を聞いたジョーは、リンダと初めて会ったときのことを思い出した。


「ああ、それはリンダさんの匂いだよ」


「そのリンダさんという方は、男性なのに香水を付けているのですか?」


「リンダさんは、体は男だけど、心は限りなく女性に近いというか、まあそういう方です」


 ハルトは、ジョーの話を怪訝な顔で聞いていた。


「それにしても不思議だなー。君が知覚できるのはリンダさんの匂いだけで、リンダさんが知覚できるのは君の歌声だけなんて」


 説明に困ったジョーは、その場の空気をとりつくろうように言葉を無理矢理並べたが、それはかえってあからさまで気まずさを助長するだけだった。


 ハルトはひとつ大きな溜息をついた。


「まあいいです。話を前にもどしますが、たとえ二人でやって来ても答えは同じですよ」


「我々に協力するつもりはないと?」


「そうです」


 直に聞くハルトの言葉には、何か明確な意志を感じさせるものがあった。それは、彼の遠い未来への約束でもあるかのように、責任と自信とを含む強い感情だった。


(何だろう、この子が纏う気迫は? あれ、待てよ、この子ひょっとして……)


 ジョーは突然、見えない何かに捕らわれてしまったかのように直立不動となり、さらにその表情を次第に強ばらせていった。


「ちょっと、どうしたのよ? 今、私のことも少しだけ話していたみたいだけど? 何を話したの?」


 何も話そうとしないジョーに対して、しびれを切らしたリンダが、興味津々で待ちきれないと様子で聞いてきた。


「ねえねえ、彼、どんなルックスしてるの? 説明してちょうだい!」


「え? ああ、ルックスですか? えーっと、肌は白く、髪の毛はキノコ頭の金髪で、青色の瞳をしてます。体つきは、今の私を十センチくらい小さくした感じかな。よくみると顔の輪郭とか僕の小さいころに似ていますが、雰囲気が全然違います。いわゆる美少年ですよ」


「美少年ですって!?」

 その言葉を聞いたとたん、リンダは全身を奮わせ、再びジョーにつかみかかった。


「ちょっと、早く何とかしなさいよ! 私も彼の顔を見たいのよ!」


「そんなこと言ったって、私もどうしたらいいのか」


「分身だとから、壁抜けだとか、そんな変なことはいろいろできるのに、肝心なときに役に立たないのね、あんたって人は!」


「はあ、すみません」


 あまりに素直に謝るジョーに、リンダは少し拍子抜けをするとともに、見えていないとはいえ、大人げない態度をハルトの前で晒している自分に気づいた。リンダはジョーから手を離した。


「で? 彼、なんて言っているの?」


「え? ああ、やはり協力するつもりはないと言っています」


「どうしてよ?」


「前に私の分身が聞いたところでは、何かやりたいことがあるそうです」


「やりたいことって何よ?」


「分かりません。そのときの彼は何も答えてくれませんでした」


「事情は話しているんでしょ? あんたの言うなんとかっていう計画を成功させないと、この世界そのものが無くなってしまうって」


「もちろんです。でも彼は、他を当たってくれの一点張りで」


「もう、わがままな坊やね、人がこんなにお願いしているのに」


「いや、リンダさん、問題はむしろ私の方にあるのかも……」


「は?」


 ジョーは、窓際に立って外を見ているハルトの方に近づいていった。

 考えごとをしていたハルトは、いつの間にかすぐ後ろにいたジョーに少しだけ驚いた。


「ハルト、そしてリンダさんも聞いて下さい。これから私が話すことを」


 さっきまでとちがう語調で話すジョーに、ハルトとリンダは何か真摯なものを感じ取った。


「ハルト、私は今、君の力がどんどん高まっているのを感じるよ。こうしている間も君は確実に成長している。おそらく君は、現在私の知るALの中でもっとも大きな力を持っているALだ。今のレベルを越えてしまうのもそう長くはかからないだろう」


「レベル? 一体なんの話です?」


「君のその力には何か意味があるんだ。その力を必要とする何かが。そう、君には少なくとも未来がある。いや君だけじゃない、ここにいるリンダさんにも、何人も不可侵で、かつ不可知な未来が」


「はっきり言って下さい! 何が言いたいのですか?」


「無いんだ、私には。君たちのような未来が」


 ハルト「は?」


 リンダ「え? 突然なにを言い出すのよ、あんた」


 目を閉じて一呼吸置いたあと、ジョーは話を続けた。


「私の人生は、オー・プロジェクトでおそらく終わります。そういう運命をずっと予感してきたし、いまではそれを確信しています」


 ジョーは伏し目がちになり視線を一旦落したが、顔を上げて再び視線を戻した。


「問題は、そうした私の運命にあなたたちを巻き込んでしまうかもしれないということなんです。こんな大事なことに今まで気付かなかったなんて……」


 きっかけは異なるが、ここにいるジョーもまた、ホームレスのマッキンリーと会っているジョーと同じ思いを告白することとなった。


 ハルトの運命が担う未来、その未来が放つ眩い光が、ジョーの中で芽吹き始めた運命の輪郭を明確にした。


「あなたが何を思っているのか、よく理解できないところもあるけど、私の思いは変わらないわ。だって自分で決めたことですもの」


 リンダはジョーの左手を両手でぎゅっと握り締めて言った。


 一方、ハルトは半ばいらだつようにして言った。


「ははは、何ですかいきなり? それがどうしたというのです? そんなことを言うためにわさわざまたやって来たんですか?」


 ジョーはハルトの方に静かに向き直った。


「君たちの人生の邪魔をしてはならない。そのことにやっと気がついたんだ。無理を言ってすまなかった。君の言うとおり、他のALを探すことにするよ。ただ最後に一つだけ。もしよければ君が何をするつもりなのか聞かせてくれないか?」


 謙虚なジョーの言葉に、ハルトは、素直さという余韻を残す刹那の沈黙をもって答え、窓の外をすっと指さした。


「あの丘の向こうに、ピアンカと呼ばれる修道院があります。学校を卒業したら、僕はそこで修道士になるつもりです」


「ええ!?」

 思わず声を上げたジョーにリンダも驚いた。


「なに? どうしたの?」


「彼、修道士になるそうです」


「えっ!? だって、その子、ここの跡取りなんでしょ?」


 ジョーは急に不安になってハルトに質問した。


「君、この家の跡取りなんだよね?」


「そうですよ。だからなんです。あなたには関係のないことです」


「確かにそうだけど。でも、この家や、地位も、財産も全て捨てるってことだろ?」


「そうだよ!」


 ハルトは吐き捨てるように言った。それはおそらく、これまで何度もハルトの中に現れ、そのたびに迷い憂いてきた問題だったのだろう。議論につながるものすべてを絶ち切ろうとする鋭利な光が、ハルトの瞳に込められていた。


「誰にも僕の邪魔はさせない。僕には僕の人生を生きる権利がある。この環境は、これからの僕にはまったく不要なものです!」


「ご両親は? 君のご両親はそのことを知っているの?」


「言いましたよ、ちゃんと。でも全く相手にしてくれませんでした。そんなことできるはずがないとたかをくくっているのです。でもいざ僕が居なくなれば、それこそ血眼になって探すでしょうね」


「そんな……」

 いっそう不安の色を濃くしたジョーをみて、リンダは眉を潜めた。


「ジョー、彼は何て言っているの?」


 ジョーは、ハルトが両親の承諾を得ずにこの家を出て行こうとしていることを話した。


「ふーん、いわゆる反抗期かしら? でも確かに、人にはそれぞれ自分の人生を選ぶ権利があるわ。ねえ彼に聞いてみて、さっきの女の人はどうするのかって」


 ジョーはハルトにリンダの質問を伝えた。


「彼女に一体何の関係があるのです?」


「じゃ、彼女は知らないんですか?」


「当たり前じゃないですか!」


 ジョーはすぐにそのことをリンダに伝えた。


「そう、やっぱりね。彼に伝えて、彼女はあなたのことを真剣に愛していると。それは、自己犠牲を本質とする、純真で無垢な感情だって」


「え? リンダさん、どうしてそんなことが分かるんです?」


「実は私、彼の姿が見えなかったから、代わりに彼女と、彼女のオルトをずっと見ていたの。間接的にでも彼のことが何か分かるかもと思って。彼女のオルトはまさに真愛よ、しかも炎のような。あんなに強くて美しいオルトみたことないわ。さっきは気持ち悪いなんて言っちゃったけど」


 リンダの言うことを完全には理解できていないジョーだったが、それでも何とかリンダの言葉をハルトに伝えた。


「先生が僕のことを心から愛しているですって? そんな訳はありません。彼女はきっと、僕がここを出たらなんの興味も示めさなくなるでしょう。地位も名誉ない無一文の僕になんか。でもそれでいいのです。だからこそ、ここにとどまる理由などないのです。もしここにいたら僕は、カエルや野獣にも劣る醜悪な存在と、薄い人間の皮を被った束の間の存在との間を延々と行き来するだけです」


 カエルと野獣という単語が出て来た瞬間、ジョーは思わず微笑みそうになった。


(やっぱり、この少年は俺のALだな)


 このときもジョーは、ハルトの言わんとすることをできるだけ忠実にリンダに伝えた。ただ、話をややこしくしそうなカエルと野獣の部分については省いた。


「違うわ。彼女のオルトには、たとえその身を犠牲にしてもあなたを守ろうとする、そういう危うさがある。きっと彼のご両親もそうじゃないかしら。おそらく彼の周りにいる人たちみんな、彼が考えている以上に彼を愛している。それがまさしく彼の力の源よ。それをみすみす捨てるつもりなの? 馬鹿げているわ。結局、彼は、そういう大事なものから逃げているだけのただの子供、そして臆病者よ!」


「えーっ! それを俺が彼に伝えるんですか?」


「他に誰がいるのよ? 早く言いなさいよ」


 ジョーはほんとうにかなり嫌だったが、リンダの言葉をそのまま伝えた。


「僕が臆病者!?」


 ジョーの言葉を聞いたハルトは両目をいっぱいに見開き、両方の拳を震えながら握り締め、極端に低いトーンで話し出した。


「……あなたちに何が分かるというのです」


「いや、リンダさんはただその、君の周りにいる人たちのことも少しは考えなくてはならないと……」


 ハルトは、突如激昂した。


「地位、名誉、財産、あなたたちはここでの生活をそんな単純な言葉で置き換えてしまうけど、知っていますか? 生まれた瞬間につながれる頑丈な鎖を、年を重ねるごとに容赦なく打ち込まれる楔を、その重みと痛みを。愛!? 愛とはなんです? この僕が享受しているという愛とは? それがそうだとでもと言うのですか!?」


 しかし、ハルトの目には、怒りというよりも、哀しみに近い感情が渦巻いているようにみえた。


「それなら僕にも言わせてもらいましょう。リンダさんと言いましたね。あなたは、俗にいう『オネエ』と言われている人ですか? 確かに世の中には、身体的な性と心の性とが一致せずに苦しんでいる人もいますし、さらにそうした場合だけじゃなく、敢えてそうした生き方を選択した人もいるってことも分かっています。僕はそういう人たちの人生を否定するつもりなど全くありません。だけど、初めに会ったジョー・キリイの話が全て事実だとすれば、僕は〈あなた〉であり、あなたは〈僕〉だ。その僕から言わせれば、あなたの場合はちがう。あなたは、世間で認められている『オネエ』という殻が、あなたの心の形にたまたま似ていたから、そこが自分居場所だと思いこんでいる、いや、そう思いたいだけだ。違いますか? あなたこそ、本来の自分を偽りながら人を非難する、卑怯者で臆病者ですよ!」


 言い終わったハルトは、くるりとジョーに背中を向けて再び窓の外を見つめた。


(げっ!? 嘘だろ? それをまた俺が伝えるの? もう勘弁してくれよー)


 今度はリンダの激昂を畏れながらも、ジョーはハルトが言ったことをリンダに伝えた。


 しかし、予想に反してリンダは静かだった。少しすると、うなだれるように顔を下に向けて、小刻みに体を震わせ始めた。リンダは泣いていた。


「ええっ? リンダさん、一体どうしたんですか?」


 ジョーが声をかけても、嗚咽の止まらないリンダは、まともに答えることができなかった。


「うっ、う、えええ、えっく、えっく」


 ジョーは心配になり、リンダのすぐそばによって、その背中に静かに手を当てた。


「えっく、えっく、ありがとう。もう大丈夫よ」


「急にどうしたんですか?」


「……彼の言うとおり、私は卑怯で臆病な人間よ」


「そんなことないですって」


「いいえ、ジョー、白状するわ。私の名前はリンダじゃないの」


「は?」


「私の本当の名前は〈タケオ〉っていうのよ」


「えっ!?」


「タケオ、それが私の本名よ」


「ええっ!? タ、タケオ……さん?」


 リンダの突然のカミングアウトに、ジョーは何と答えたらいいのか分からなかった。


「彼の言うとおり、このキャラは私にとって都合がよかったの。普通の男性には許されなくても、このキャラならほとんど怪しまれずにいろいろな人たち、特に、悩みを抱えた女性に簡単に接することができた。だからこれでいいんだって、これは人のためだって」


 タケオは、それまでため込んでいた思いを一気に吐き出し、贖罪を求めるかのように、ある種のどん欲さをその言葉に込めていた。


「でも、本当は気付いていた。こんな女物の服なんか着て、しかも化粧までして。自分の気を逸らして誤魔化していた。本当の私は、本当の自分を晒すことに怯えているただの中年男よ。偉そうに他人を非難する資格なんかないわ」


 そう言い終えたリンダは、激しい体力の消耗をやっと知覚したときのように、そばにあったソファーにだらりと横たわった。


 状況は最悪だった。もはやどうにも収拾のつかない空気がジョーの周りを厚く取り囲んでいるようだった。ハルトはもちろんだが、今のままではタケオもまた、オクテットをするには力が足りないように思えた。


(失敗……か?)


 タケオによってもたらされ、そしてジョー自身をも支持した動機が、あとかたもなく消え去ったように思えた。


 しかしこのとき、ジョーの脳裏に一瞬のひらめきが走った。それはもちろん予定していたことではなく、自然とジョーの口をついてでた言葉であった。


「なあハルト、そこまで修道士にこだわる理由はなんだい? 本当に、この家の柵から逃れたいだけなのか?」


 ジョーの言葉を聞いたハルトは、一瞬だけ顔をジョーに向けた後、ふたたび窓の方を向いた。


「あなたたちに説明しても分かってもらえないかもしれませんが、僕は感じるんです」


「感じるって何をだい?」


「神の存在をです。この世界にはわれわれの想像をはるかに越えた強大な力が存在します」


「えっ?」


 その瞬間、なにかがパチリとつながるような感触がジョーの中に生まれた。


「そうか、君も感じるのか……」


「は?」


「君の言う通り、この世界には何かとんでもない奴らがいるよな? それは俺にも分かる。うん、うん」


 ジョーが妙に納得している様子をみたハルトは、いぶかしい視線をジョーに向けた。


「まさか、あなたもあの力の存在を感じるのですか?」


「うん、たぶん同じものだと思うよ。この世界とは違う別の次元じゃ、もっと強く、そしてはっきりと感じことができる」


「そんな、それは本当ですか?」


「ああ、奴ら、一体何者なんだろうな?」


「奴ら? さっきも言っていましたが、一人じゃないのですか?」


「違うね。一人や二人じゃない。まあ、大勢ってわけじゃないけど、それでも結構いるよ」


「ちょっと待って下さい」

 ハルトは、目を閉じて意識を集中させた。


「……た、確かに。改めてよく探ると、力の源は一つじゃない。こんなことって!?」


 ハルトは目を丸くしながら半ば放心したような状態となっていた。


 ジョーは、ハルトのそうした変化に気付くことなく、ソファで項垂れているタケオのすぐ隣に座ると、ハルトの方にも目を配り、二人に向けて話を始めた。


「なあ、俺、思うんだけどさ、二人とも別にそのままでいいんじゃないのかな? 自分の弱さとか、柵とか、そういうの持っていたって。全部をひっくるめて自分、みたいな」


 タケオはゆっくりと顔を上げた。ハルトは何か考えごとをしている風だったが、ジョーの言うことを無視してはいなかった。


「オクテットになることはものすごく怖い。逃げ出したいって何度も思ったし、今もときどきそう思う。でもそうしないのは、決して勇気があるからじゃない。それとは逆で、勇気がないからだと思う。自分の運命に逆らう勇気が。ただね、信じてもらえないかもしれないけど、決して誰かに強要されているからやっている訳じゃないんだ。もちろん望んではいないよ、だけどそれでも、全て自分の意志でここまでやってきたんだ。だからその、うまく言えないけど、これからも俺は、このままで、たとえ何かに怯えながらでも、前に進んで行こうと思う」


 ジョーは、タケオに自分の肩に掴まるように促すと、二人で一緒に立ち上がった。


「リンダさん、行きましょう。やっぱりあなたは『リンダさん』です。少なくとも俺にとってはね」


 ジョーはできるかぎりの笑顔をリンダに見せて言った。


「それじゃ、俺たちは行くよ。ハルト、元気でな!」


 ジョーとリンダがその場から立ち去ろうとしたとき、ハルトは、その目をかっと見開いた。


「待って下さい! ジョーさん」


(あれ? 敬語?)


 ハルトの雰囲気が少し変わった。声の響きが、子供らしいどこか素直なトーンを含んでいた。


「あの……もしかして、ジョーさんはあの力を持つ存在に会うことができるのですか?」


「奴らに会うだって? そんなこと考えたこともないけど……でも、できないと思う。今の俺じゃだめだ」


「今の、というと?」


「今のレベルじゃたどり着けない。やつら、かなり高い次元にいるからな。会いに行くには、俺自身のレベルをもっと上げないと。っていうか、そもそもどうしたらレベルを上げられるのかも分からないし。悪いな、答えになっていなくて」


 ジョーの答えに、ハルトは独り言をつぶやくようにいった。


「レベルを上げれば会える……」


 ハルトは、きっとして顔を上げると、部屋の隅の机に向かい、その引き出しをあけて白い便せん一枚とりだした。そして、机の上にあったペンをとって何かを書き始めた。


「……これでよし!」


 素速く書き終えたハルトは、机の引き出しから封筒を取り出し、その便せんを入れて丁寧に封をした。封筒の宛名には、「私の愛する人たちへ」と書かれていた。ハルトはその手紙を、その部屋の中央のテーブルに静かに置いた。


「ジョーさん、僕も一緒に連れて行って下さい!」


「えっ? どうしたんだ? 急に?」


「その前に、すみませんが、リンダさんに謝っておいていただけませんか? さっきは生意気なことを言ってすまなかったと」


「え?」


 ジョーはハルトの謝罪の言葉をリンダに伝えた。リンダは、まだ元気を無くしていたが、少し落ち着いたようだった。


「私の方こそ悪かったって、伝えておいてね」


「ええ、分かりました」


 ほっとする感じが生まれた。ひさしぶりの仲間に会うような、懐かしくも暖かな感覚だった。ジョーは、喜んでリンダの謝意をハルトに伝えた。


「そうですか。よかった」


 ハルトは子供らしい笑顔で笑った。


「僕はずっと前から彼らのことを知りたいと願っていました。そして、そのためには何か行動を起こす必要があることも分かっていたのです。僕がやるべきこと、それは、神にではなく、あなたに仕えることなのかもしれません」


「俺に仕える?」


 このときジョーは、リンダのときと同じことを思った。ハルトの運命もまた、ジョーの運命と今まさに交差しようとしていることを。


「それと、僕もこのままでいいです。このままで。どんなに偉そうなことを言ったって、もしこの環境に生まれていなかったら、こういう環境を得るために生きていく、そういう人生を送っていたかもしれませんからね」


「でも、本当に、いいのか?」


「ジョーさんは、自ら死のうと思っているわけじゃないんでしょ?」


「もちろんだよ」


「それで十分です。僕は必ずここに戻ってきます。必ず。愛する人たちが待っていますから」


 その瞬間、ハルトの体から眩い光が発せられたように見えた。それは、ジョーの運命とは全く別の、確固たる自己の運命を背負う者の光だった。


「愛する人か……」


 反射的に、マリアの顔がジョーの脳裏によぎった。それは、清楚で温かな心地よい印象だった。


「よし、それじゃ、三人で行きますか!」


 ジョーとリンダ、そしてハルトは、アルバトロスの待つTWに向かった。

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