第16話 水刃の柄杓

「くっ……こんな奴がいるなんて……」


 泡から脱出した霧子を睨み、湖畔は下唇を噛む。


「あっはっはっは、もう何年もこの体なもんでねぇ。芸の一つや二つ、覚えるぜ」

「達者な芸だわ。…それで、覚えた芸でやるのがこんなこと?」


 湖畔は痛みを堪えつつ両手を広げる。胸元には変わらず、痛い傷が残っていた。


「もっとましな生き方出来るでしょうに。こんな可愛い子を食べようだなんて、それでも元は人間ですの?」

「はっ」


 霧子は乾いた笑いを見せる。


「そんな言葉、言われるのなんてずいぶん久しぶりだよ。あいにく、ずーーっと、こんなところにいるもんでな!」


 霧子は声に怒気を含むと、辺りを柄杓で指した。

 見渡す限り、沈没船の限り。人間らしさなんてものもなく、変わらず墓地でしかなかった。


「……望んでいるわけじゃないの?」

「当たり前だろ? そりゃ、元は人間だから、ねぇ?」


 口角を下げ、霧子は湖畔を睨む。だが、湖畔も怯んではいられなかった。


「元人間なら、なおさら。食べさせはしないわ。さっきみたいに、本当に浄化されたくなかったらここを通して」

「…お断り。だっ!!」


 再び、霧子は湖畔目掛けて駆けてきた。湖畔も、防衛一方なんてしない。迎え撃つように霧子へ突撃する。


「てやぁっ!!」


 接近前、霧子は柄杓を振るい水を放つ。柄杓から溢れる水は、柄杓から激しい勢いで振り回される。


「!」


 しかし、その水は飛沫とは言えない。宙を飛ぶにつれ、まるで無数の針のように形を作り、湖畔に襲い掛かった。

 湖畔は、パンっと両手を合わせ、前方に巨大な泡を作り防ぐ。だが、幾らかの水はそのまま泡の膜を貫き、衝撃を和らげながらも湖畔の肌に刺さった。


「っうぐっあぁ!!」


 湖畔のつらい声があがる。それを見た霧子は、海中に落下したように見える勢いで潜る。海面にはうっすらと霧子の影が見えるが、それはあっという間に湖畔の足元を過ぎ去り、背後にたどり着いた。


「背中頂戴!!」


 湖畔の背後に霧子が飛び出す。そして、柄杓を構えると、湖畔の背中に大きく切り傷を付けた。


「っぐ!! きゃあぁあ!」


 つんざく程に、湖畔の悲鳴が響き渡る。真っ白な美しい羽衣は、湖畔の光る血液で滲み、より一層のきらめきを放った。


「まだ、だ。まだだぁ!!」


 湖畔は足を片足上げ、パシャっと海面を蹴った。足許を起点とし、大きなシャボンが湖畔と霧子を包み始める。


「! ちぃっ、うっ!?」


 逃げようと後ろに下がりかけた霧子だが、ぐるりと体を翻した湖畔が、その逃げる腕を掴み、抑え込んだ。

 そして、湖畔が霧子の両腕を掴んだところで泡が完成した。


「ぐぅ…! こいつ! 離せ、腕を、離せ!!」

「お断りよ!!」


 霧子は逃げようと、必死に暴れる。 足を片足上げては湖畔のお腹目掛けて何度も蹴りを入れる。湖畔は、そのたびにむせび続けるが、それでも逃がして溜まるかと、手首に更に力を入れた。


「いいぃたたたたたぁ!! 力が、力が強い!!」

「えほっ、ごほっ! ~~~! 教えて!! なんで貴女達、取りこぼし達はあの子を喰おうとするの!! イクチも、貴女も!!」

「はぁっ!?」


 目元に涙を浮かべながら叫ばれた湖畔の言葉に、霧子がぎょっとした顔を浮かべた。


「今、あんたなんて言ったんだ? イクチって言ったか!?」

「言ったわよ! …もう、私が、あの子の記憶を切り離して、成仏させたわ!」

「…まじかっ…!」


 霧子は、蹴る勢いを弱める。その表情は、信じられないものを見るように、湖畔を見ていた。


「あの、前陸の怪物、後海の怪物と名高い、後海のイクチを倒したなんて……はは、あっはっは。すげえなぁ、あんた。……やっぱ、入れない結界の中には、神様が居たってわけかい。すげえなぁ……」

「……ええ、そうよ。もっと言えば…貴女みたいに、怪物に生まれ変わっちゃった子達は、って呼んでるわ。……私が、貴女をちゃんと来世に送ってあげられなかった」

「…へぇ」


 その事を聞いたところで、霧子は蹴るのをやめた。湖畔はその隙に息を整え、落ち着きなおして霧子を見る。


「……そうか、あんたが、あたしをこんな姿にしたのか」

「……その通りよ。怪物に変えてしまって……ごめんなさい」

「…ごめんなさい?」


 霧子は首を傾げた。


「おいおい、ごめんなさいって言われる事は分からんぜ。あたしは、こんな風になった事自体は、気に入ってるぞ?」

「……え?」


 今度は、湖畔が面を喰らった。気に入ってる? 死んだ後に、生まれ変わる事も出来なくて、怪物になる事が、気に入ってると言ったのか?


「それって、どういうこと? 貴女は、そんな体で辛くないの?」

「ああ、身体自体は辛いぞー? 変にお腹もすかなくなったし、死にはしないのに、寒さはかなり答えるし、たまーにしか、他の連中と話すこともないしさぁ?」

「じゃあ、なぜ!?」


 他の連中。という言葉も気になったが、それ以上にこの霧子の事が気になった。なんで、身体自体が好きじゃないのに、何をもって気に入っていると彼女は言えるんだ?


「……決まってるわ」


 霧子はそう言って、水平線も見えない横手の霧を見た。


「……あっちが、陸の方なんだよね。 もう何十年も前にさぁ、家族と一緒に過ごしてて、それなりに普通の幸せ持ってたんだよね。それがさ……ある日、何でもない日にボートで海出たら……酷い雨と、突風にやられちゃってさ……」

「…………」

「帰りたいって、必死にボート漕いだのに、最後には転覆しちゃって……怖い、会いたいって思ってる中、肺の中に海水が入って、それで……それで……死んじまったんだ……」


 霧の方を、見ながら、ただ茫然と眺めていた霧子は、そう呟き終えると、再び湖畔に顔を向けた。


「だから…!」

「っ!」


 霧子のその目には、涙があふれていた。我慢し続けた子供のような、震えた顔に、歯を食いしばった口。霧子が、抑え続けていた願いが、その顔に浮かんでいた。


「あたしはっ……! 陸に帰りたいんだ! もう叶わないかもしれないチャンスをさ、まだ叶えられるって、この世に存在を残してくれる、この体が。まだチャンスを与えてくれる今この時が、あたしは大切で、大切で仕方が無いんだ……!!」


 その言葉には、記憶から来る重みがあった。

 ああ、この子は。記憶があるからまだこんなに苦しいんだ。……記憶があるから、取り戻したいものの事を、こんなにも熱望できるんだ。

 人を今喰おうとしているこの怪物が。自分なんかよりも圧倒的に人間臭く、そして輝いているように思えた。


「…………」


 湖畔は、片手を少し緩め、霧子の胸元に目を向けた。そこには、先刻のイクチのように、取りこぼしの記憶が詰まっている、魂の心臓部分が確かにあった。

 そこに手を翳せば、苦しみ続けている霧子から、記憶を切り離し、成仏させてあげられる。楽にしてあげられるはずなんだ。


「……」


 湖畔は、手を離せなかった。魂から記憶を切り離し、霧子を浄化させる事が、もうできなかった。


「……この先に、取りこぼし達の簡単な集落みたいなものが、海上に出来てる……」


 霧子は、まるで遠い昔を眺めているように、ぽつぽつと喋り続ける。


「それでよ、そこを過ぎたら、陸地までのそれなりに長い海路が広がってるんだ……だがな、イクチなんかより、多くて凶暴な連中が、かなり居てな。今の私じゃ、通る事も叶わなくて、今度こそ死んじまうんだ……」


 湖畔は、霧子の腕に力が入り始めたのを感じた。


「っ!」

「だがよ………あんたが連れてる子供は、かなりの神力を蓄えてるんだ。下手したら、あんたより多いかもしんないぐらいのよ……」

「…えっ」


 霧子の目に殺意が灯る。何が何でも、何人でも踏みにじってでも進もうとする、殺意が灯った。


「あんたが連れてる子を喰って力を付けて、海を越えてやる!! だから、死んでたまるかあぁぁあああ!!」


 霧子が腰を低く降ろすと、膝で勢いをつけて、湖畔のみぞおちを蹴り上げた。


「ッガハッ!!」


 重く貫くように入った一撃は、湖畔の目を揺らがせた。意識が揺らぎかけた。


「離せええぇぇえええ!!!」


 もう一度、霧子が膝蹴りを浴びせようとした。

 その時だった。湖畔は、一瞬影が被さったような気がした。なにか、小さいものが横切ったように見えた。


「…………!?」


 視界のピントも似合わない、ぼやけた景色の中で湖畔はその影を追った。そこには、海面から跳び上がり、霧子に覆いかぶさろうとする和泉ちゃんの姿があった。


「和泉ちゃん!?」

「たあぁぁああ!!」

「んがっ!?」


 和泉ちゃんは、霧子の右腕にしがみついた。足を霧子の肩に乗せ、無理やり立つと霧子の右手を掴む。そこには、霧子の武器である、穴の開いた柄杓が持たれていた。


「おいお前!!何をする! やめろ!!」

「ふぐぐぐぅ……! えいっ!!」


 柄杓を滑りぬけるようにして、和泉ちゃんは奪い取った。そのまま、柄杓を近くの沈没船の上目掛けて投げ捨てた。柄杓は無事、想定の通りに船の上に当たり、転がった。


「っていっ」


 それを見届けた和泉ちゃんは、海面に跳び下り膝をつく。


「な、なな、なんだお前!! あたしの武器をいきなり、何しやがる!!」

「落ち着いて!!」


 和泉ちゃんが、膝を着き、息を挙げながら叫んだ。幼い少女の叫びに、思わず湖畔も霧子もたじろぐ。


「一旦……落ち着いてください。私、あなたを怖がりません。これ以上こっちを襲わないって約束してくれたら、湖畔お姉ちゃんも、あなたを殺しません…!」


 和泉ちゃんは顔を上げ、霧子を見る。その顔は、訴えかけるような澄んだ目だった。


「私たち3人、お互いを倒す必要なんてないとおもいます。 一旦、話し合わせてください…!!」

「…………」


 その言葉に、霧子は声を失っていた。

 殺し合いに跳び込み、武器を取り上げる胆力の上に、争いをする必要を無い。そんな事、言われるとは思ってもみなかった。

 それに対し、湖畔もまた驚き。和泉ちゃんをじっと見ている。


「……湖畔お姉ちゃん」


 そんな呆然としている湖畔に、和泉は立ち上がると、そっと腕に手を置いた。


「……大丈夫。 霧子さんも、襲わない」

「……和泉、ちゃん」


 そんなまさか。湖畔はそう声をあげようとしたが、朦朧とする中でなかなか声に出せず、少しだけ、両手の力を緩めた。

 霧子が暴れれば、簡単に抜け出れそうな程の緩み。それでも、霧子は暴れて逃げようとしなかった。


「……」


 それを確認すると、湖畔は両手を離した。

 そしてそのまま、海面に倒れるように崩れ落ちた。


「!! 湖畔お姉ちゃん!!」


 ばしゃんと海面に崩れた湖畔は、海上に浮く力を失ったのか、そのまま少しずつ海に沈み始める。

 だが、完全に沈む前に、湖畔の腕は掴まれ、引き上げられた。

 引き上げたのは、今しがた湖畔を気絶させた霧子だった。


「………お、おまえ……」


 霧子は意識を失った湖畔と、その隣に立つ和泉を交互に見直す。

 信じられないものを見た、そう言いたいばかりの動揺の目だった。

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