第16話 決意と始まり
二人であふれるほどに泣いて、二人で零れるほどに泣いた。
そしていつしか波が収まるみたいに涙は止まっていた。
きっとまだ泣き足りないけれど、今日はきっとここまでだろう。
涙が流れ尽くした疲労感を抱えて、最後に亜衣の頭を数度撫でて僕は前を向いた。
心も身体も一緒に前を向く。心は幸せに向かって、身体は顔なじみに向き直る。
「お前ら俺がいること完全に忘れてただろ」
顔なじみは少し呆れたような、でもどこか嬉しそうに僕に向かって笑いかけた。幸い、無視されて怒ってるわけじゃないらしい。まあ、そんなつまらないやつじゃない。そんなこと、ずっと前から知っている。
「ごめん、ごめん。ところでさ、前言ってた
僕が軽く笑って、そう言うと腕の中の亜衣がびくりと反応する。仕事の意味するところを亜衣に教えたことはない、でも察してしまったのかな。
数日前、顔なじみから連絡が来ていた。それは仕事の依頼、つまり殺しの依頼のメールだった。そしてそれに対する返答を僕は今日まで先延ばしにしていたのだ。これから、自分がどうしたいか、どうするのか。
「そーかい、選ぶ覚悟は決まったのか?」
「ああ、決まった」
「クライアントの連絡先は?」
「いる」
僕が頷くと、顔なじみは少し寂しそうにした。それから、メモ帳に電話番号と名前を書いて僕に手渡してくる。
「今度のクライアントだ。夫がアルコール中毒で苦しんでる。日常的に暴力を受けているそうだ」
「それはまた、なんというか、おあつらえ向きだね」
「ああ、違いない」
僕は軽く目を閉じて、最初の依頼人を瀬田聡美さんを思い浮かべた。少しして、意識を現実に引き戻す。亜衣が僕を見上げる、おびえたような不安そうな眼。僕はもう一度、なぞるみたいに頭を撫でる。
「大丈夫、心配しないで」
それでもまだ亜衣の顔から不安はなくなってくれなくて。
ああ、君が不安そうな顔をしているのは嫌だなあ。僕まで不安になってくる。
そう思った。
だから、亜衣の頭を抱きしめた。
それから、顔なじみに見えないように背中で体を隠して、額に口づけをした。
亜衣は一瞬、何をされたのか分からない顔をして、数瞬遅れて、顔を焼けたみたいに真っ赤にする。
僕はそれを見てにやりと笑う。
うん、そっちの顔の方がいいね。
不安な顔より、真っ赤に照れてる方が見ていてずっと気分がいい。
一息ついて僕はゆっくりと立ち上がった、善は急げ。
何より、それは僕の幸せのために。
いつかの教授の声がする。行動はその日のうちに、ですね。
ああ、その前に。
「そうだ、今までのクライアントにメール送っといてくれ」
顔なじみを振り返った。そっぽを向いている、見ないふりでもしてくれていたんだろうか。
「なんて?」
そっぽを向いているが、横顔でにやにやと笑っているのが分かる。僕はそれに苦笑をして、返答する。
「
「おう、了解」
あっけらかんとした、返事。まるで、分かっていたというでもいうみたいに。
「・・・反対しないのか?」
「してほしいのか?」
空き缶みたいな軽い言葉。
「いや、まったく」
「じゃあ、しねえよ。俺も面倒事が一つ減って万々歳だ」
手慣れたキャッチボールみたいな会話。
「違いない」
「で、その最後のクライアントはどうすんだ?」
何度も何度も繰り返しみたいなやり取り。
「ん?断ってくる」
「できるのかよ」
ほんの少し間を開ける。キャッチボールでボールの感触を確かめるみたいに。
「さあ?やってみないとわからないさ」
「それもそうだな」
ボールは綺麗にミットに収まった、何度も何度も繰り返した気兼ねないやり取り。
「ああ。あと、最後に」
「なんだよ、まだあんのか」
最後に一つ言葉を投げる。相手がちょっとびっくりするようなやつ。
「今までごめんな、一杯迷惑かけた。それと、こんな僕に付き合ってくれてありがとう」
顔なじみは表情を見せないまま無言で手を振った。わかったから、行ってこいって言ってるみたいに。
「じゃあ、亜衣。行ってくるよ。殺し屋、辞めてくる」
「はい、いってらっしゃい。待ってます!」
最後に一つ手を振って、僕は扉を閉めた。
事務所の階段を勢いよく、スタートラインを切るみたいに駆け下りる。
そう、ここからようやくスタートだ。
決意は終えた。
後は前に進むだけ。
殺し屋の仕事をしてきたことが間違いだったかはわからない。
人を殺したこと、それで誰かが幸せになったこと。
釣り合いが取れたかとか、それで許されたかとか、意味があったかとか、そんなことはわからない。
それでもそれなりにやってきた。
他人から後ろ指をさされることにおびえながら、続けてきた。そこで守った幸せも確かにあった。
でも、でもさ。
やっぱ、辛いから。僕が幸せになれないから。
辞めようと思う。
こんな僕の幸せを願ってくれる子がいるから、僕自身が幸せになりたいと思ってしまったから。
ともすれば、これも一つ、犠牲を産んでいるのだろうけど。
殺さないことで生まれる犠牲。
でも、例えそれがあったとしても、それでも僕は幸せになりたいから。
一瞬だけ立ち止まって、眼を閉じる。
ごめんなさい、ありがとう。
たくさんの命、犠牲にしてきた命。これから、救えない命。それは人であり、獣であり、魚であり、野菜であり、きっと数えきれないほどの誰かの幸せ。
あなたたちのおかげで僕は今日、笑おうと思えます。
スマホをとって電話をかけた。しばらくのコールの後、女の人の声が応答した弱弱しく、おびえたようなそんな声。本当に、最初の依頼そっくりだ。
「はい、仕事の件で依頼を受けたものです。一度、お話をしたいのですが」
さあ、ここからが僕の本当の闘いだ。
ぎゅっと拳を握りしめた。胃が少し、緊張に滲む。大丈夫、大丈夫、自分に言い聞かせる。
さあやろう、自分の幸せをつかみ取るために。
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私はこころさんの何かが触れた額を確かめるみたいにさすりながら、しばらく涙を拭いていた。
こころさんが事務所を出て少しした後、綿貫さんは自分のデスクをごそごそ漁ると、新品のタバコとライターを取り出した。包装紙を破って、中身を取り出して火をつける。くさくてごめんな、と私に軽く謝りを入れてから、長く長く煙を吸っていた。何年分もの一服を満たすみたいに、長く、長く。あまり顔を合わせた関係じゃないけれど、この人がタバコを吸うのは初めて見た。
綿貫さんはすこし、ため息をついた。煙が口からゆっくりと漏れた。それから、口を開く。何年分もの言葉をゆっくりと吐き出すみたいに。
「ほんっと、あいつは、色々とおせえよ。殺し屋なんて亜衣ちゃん保護した時点で辞めりゃあよかったんだ」
「ふふふ、ですね」
二人して、笑う。仕方ないなあって。本当に、人に何かを諭しているようで本人は迷ってばかり。自分もボロボロなのに、怪我した他人の世話を必死になってしてるみたい。綿貫さんはやれやれと肩をすくめた。でもどこか、嬉しそうだ。きっと、そうきっと綿貫さんもずっとこの時を待っていたんだろう。
「でも、そんなこころさんにずっと付き合ってた綿貫さんもね大概、変な人ですよ」
「はは、知ってる・・・が、亜衣ちゃんに言われるとこうぐさっと来るものがあるな」
煙が言葉と共にゆらゆらと揺れる。
「えー、二人して変だ変だって言い合ってるじゃないですか」
「ははは、だな」
「それにしても、綿貫さんはどうしてずっとこころさんに付き合っていたんですか?」
「んー?・・・ほっとけなかったらだよ、単純に。あいつほっとくと一人で地獄の底まで歩いて行っちまいそうだったから。首根っこ掴んで引っ張とく役回りがいるだろ?」
「あー、なるほど」
言われて、しっくりくる。確かにこころさんはそう言うところある。難しい顔して、周りも見ずに地の底まで歩いていきそうだ。
「あとな、最初の仕事の件は俺もしんどかったからな。あのままほっとくと、俺は俺で病みそうだったんだよ。で、俺より病みそうなやつの様子を見ることにした。少なくとも、あいつの面倒見てるうちは、ああ引っ張られて落ちちゃいけねえんだなって、忘れないでいられたからさ」
「わーお、りっこてきー」
私が茶化すと、綿貫さんはけらけらと軽く笑う。
「ははは、人間そんなもんだぜ?」
笑う綿貫さんに、私も笑い返す。
「いえ、素敵だと思いますよ?事実、そうやって支えあって今日まで歩いてきたんですから」
そう言うと、照れたような困ったようなそんな笑いを見せる。
「夫婦みたな言い方やめてくんねえ?あいつ、男でも女でもないぜ?」
「あー、そんな言い方したら傷つきますよー。こころさん」
わざと小学生が注意するみたいに言ってみる、綿貫さんは、はははと笑った。
「いや、これ一番ネタにしてくるのあいつだから」
「え、そうなんですか。私の前ではそんな冗談一言も・・・」
「へー、さてはまだ遠慮してんなあいつ。いや、違うか。亜衣ちゃんと俺じゃあ関係性のタイプがまた違うんだろうなあ」
「んー、どう違うっていうんですかー」
「亜衣ちゃんは幸せになってほしい、俺は・・・なんだろな。適当に扱えるとか思ってるんじゃねえか。困らせてもいいみたいな」
「むー、気心の知れた仲・・・」
「そんないいもんじゃねーぞ」
「私もそんな仲がいいー!でも今の仲も捨てがたいですー!」
「隣の芝は青いだけだって・・・、はは」
「だって、いいじゃないですか。こう、ザ・友達って感じで。愛してるってのも素敵ですけど、綿貫さんの時みたいに自然体でいれて。いかにも仲がいいって思ってる顔も見せてほしいです。だから、今度そういうふうに接しってみます」
「わがままだなー。しかも欲張りだ」
「ははは、人間そんなもんなんですよ?」
「違いねえや」
二人して、けらけらと笑う。軽く、軽く。
これからどうなるのか、こころさんはちゃんと殺し屋を辞めることができるのか。不安なことはあるのだけれど、軽く笑う。
だって、後はこころさんの問題なのだ。支えることはできても、背負うことはできない。
人の代わりに歩くことはできない、できるのは精々隣を歩くことだけ。
なぜって、私は私だから。そして、こころさんは他ならぬこころさんにしかなれない。
誰でもない誰かじゃなくなる。こころさんがずっと気にしてたこと。
でも他じゃない、誰かになんて最初の最初からなっていたのだ。ずっと見えていなかっただけ。それを受け入れられなかっただけ。
綿貫さんはしばらく息を吐いていて、ふと何かを思い出したような顔になると、カバンを漁りだした。
「そういや、見せるものがあるんだった。あいつの昔話ばっかりですっかり忘れてたよ」
私は首を傾げる。
「なんですか?」
綿貫さんはにやっと笑った。
「亜衣ちゃんの高校の転入先。どこにする?って話だ」
私は一瞬、呆ける。綿貫さんが高校のカタログらしきものを何冊か出しているのをぼーっと見守る。
高校、高校。
「そっか、私、高校生だった」
「おーう、非日常に絆されすぎだぞ」
「へへ、冗談です。いつか、そうですよね、いつかこういう時が来るんだろなってのはなんとなくわかってました」
「怖い?」
「うーん、やっぱりちょっと。というか、私ちゃんと進級できてないですよね?」
「そだな。だから、周りとは年齢ずれた形で入ることになる。あんまり比較されんのが嫌なら、通信制とか定時制もあるぞ?ちなみに亜衣ちゃんの元の学力的には行けそうなのはここらへんだ。まあ、就職とか大検とかうける選択肢もあるっちゃある。が、その話をしてたらこころは高校行った方がいいだろうってさ」
「そっか、こころさんが。でも私、勉強とかだいぶ忘れちゃいましたよー?数学とかもうさっぱり」
「ま、そこは要努力だな。新しい生活習慣に、人がたくさんいる環境にもなれないといけないし。君は君で結構、大変だぞ?」
「ですよねー。私、多分、ここ半年以上、三人くらいとしかまともに交流してないですよ。ははは、本当に大変そう」
「今すぐ決める必要はないが、早ければ早い方がいいな。最悪、二年ずれることになるし」
「ですよね、綿貫さんこれって見学とか行けます?」
「ああ、もちろん。扱い的には篠原のやつが保護者扱いだから、あいつについてってもらってくれ。ちなみに、どこがいい?」
「んー、この普通科の自由そうなとこと、あとは通信制のここですかねー」
「そっか、行けそうか?」
「・・・わかんないです。ちょっと怖い。本当に知らない人と喋るのもすごく久しぶりだし、年齢も違うってなったら、ちょっと・・・ううん、かなり怖い、かな」
「いじめられたら、頼れよ?自分でできることはなんとかしたらいいが、どうにもならないことは、な?」
「・・・・はい!その時は目一杯頼ります。というわけで、今日、早速頼りますね!したいことがあるので手伝ってください!」
「・・・いいけど、何すんだ?」
「誰かさんの退職記念パーティーです、もちろん、綿貫さんの分も一緒にですよ」
「・・・はは。いいな、やろう。久しぶりにあいつに酒でも飲ますか」
「あー、大人だー。こころさんお酒飲むとどうなるんですか?」
「普段思ってることがぼろぼろ出てくる。ため込んでることがぼろぼろぼろぼろ」
「・・・・・何それ、めちゃくちゃ気になるじゃないですか。飲ませましょう。早く飲ませましょう」
「はは。んじゃ、買い出しいくか。料理は任せていいんだよな?」
「はい、もちろん!」
戸締りするから先に出てなと言われて、私は綿貫さんの事務所を一足先に出た。胸に高校のカタログを抱いて。待っている間にそれを少し引っ張り出してもう一度、眺めてみる。不安だ。大丈夫かな。またいじめられたりしないだろうか。
息を吸った。長く。
息を吐いた。長く。
不安が少し、ましになる。
そのまま不安を活力に変えて身体の奥にじっと溜めこむ。
これは私の道だ。こころさんにこころさんの道があるように。これが私の道だ。
支えてもらうことはできても、代わってもらうことはできない。
私しか、私になれないのだから。
胃の奥にある痛みをじっと感じる。不安を恐怖を緊張を、あと少しの期待をぎゅっと心に、身体に流し込んだ。
準備はたくさんしよう。努力もたくさんしよう。まっすぐ感じて、自分らしくいよう。
つまずくことはいくらでもあるだろうけれど、それでも歩いていこう。
ふと、自分の道を振り返る。
愛の喪失を、虐待を、虐めを、暴力を、自殺を、他人の死を、たくさんの犠牲を乗り越えて、今、私はここにいる。
ははは、なかなか私、頑張ってきたんじゃない?
これくらいの緊張、なんてことないよ。きっと私なら越えていける。
そう自分を励ました。今日のパーティが終わったら、早速見学の予定を立てよう。
綿貫さんが事務所のカギを閉めて、外に出てきた。
「じゃ、行くか」
「はい!」
とりあえず、今日のパーティを目一杯楽しいものにしよう。
何はともあれ、話はそこからなのだから。
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