16

 リーデルと喧嘩をしてしまった。リーデルが他人を優先するのは、いつものことだ。でも、こんなときまで他人を優先していたら、いつかリーデルが死んでしまう、と常々思っていた、その、『いつか』が今になってしまうような気がして、どうしようもなかった。

 でも、リーデルとだって長い付き合いだ。彼がどうして人助けに固執しているのか、知っている。


「あれはちょっと、悪手だった、かも……」


 言いたいことを言いたいまま叫んでしまったが、もっと言い方はなかっただろうか、とキキョウは考える。ビャクダンがあんな風に突き放すように言い捨てたのだから、わたしまで同じように言ってどうするんだ、と内心で頭を抱えながら、キキョウはヴァンカリアが寝ているはずの部屋の扉を開けた。


「ヴァンカリア! もう大丈夫なの?」


 扉を開くと、ベッドに腰かけて髪を結っているヴァンカリアがキキョウの目に入った。先ほどまで今にも死にそうだったのに、今はぴんぴんしている。服も着替えたのか、新しいものになっていて、つい先ほどまで大怪我を負っていた、なんて様子はどこにも見られない。


「ん、大丈夫! リーデルに怪我がなくてよかったよ~」


 へらり、と笑いながら軽々しく言うヴァンカリアに、キキョウはカッとなる。


 ――どいつもこいつも!


 どうして自分の周りには、こうも自らを大切にできないやつばかりなのか、とキキョウは怒鳴りたくなったが、ぎりぎりのところで堪える。

 相手は仮にも史上最強の種族。キキョウ自身、魔法の腕に自信がないわけではないが、やはり無傷でことを済ますのは無理だろう。リーデルだったら人間だからと許してもらえるかもしれないが、エルフの身ではそうもいかない。機嫌を損ねたら、なにかされるかもしれない、と、キキョウはいまだにヴァンカリアとの距離を決めあぐねていた。

 花瓶でぶん殴ったときみたいに、一瞬にして理性がぶっ飛んだときはともかく、基本的にはあまり下手な接し方はしないように気を付けているつもりだ。


「ああ、戻ったのか」


 キキョウが深呼吸しながら怒りを収めていると、ビャクダンが部屋に入ってくる。その足元には、しがみつくようにしてカスミが引っ付いていた。ビャクダン自身、少し歩きにくそうにしているが、何も言わない。


「ヴァンカリアの傷、大丈夫だった?」


「ああ、どうやらナイフの彫りは黄魔法の魔法陣だったらしい。……ほら」


 キキョウは、ビャクダンからナイフの一本を受け取る。銀色のナイフの刃先は、軽く血がぬぐわれているものの、綺麗に拭かれたわけではないようで、まだ赤黒い汚れがついていた。カトラリーナイフにも似たつなぎ目のないナイフは、確かにの部分を中心に、刃先に向かって魔法陣が彫り込まれている。

 黄魔法は、怪我や病気を操る魔法だ。怪我や病気を癒す白魔法の正反対にある魔法と言ってもいい。下級魔法では、風邪をひかせる程度のことしかできないが、上級魔法を自在に使う者ともなれば、新たに病気を作り出したり、死体をいじくって死因を捏造したりもできる。

 この魔法陣の複雑さでは、おそらく上級魔法に分類されるはずだ。このナイフが、黄魔法の力で吸血鬼の回復速度を上回るスピードで、新たな傷を作っていたのだろうか。


「ナイフを抜いて、黄魔法を無効化したら瞬時に治ったぞ。しかし……」


 ビャクダンは言葉を濁したが、キキョウには分かってしまった。

 黄魔法を使えるのは、本当にごく一部。魔法に精通したエルフか、そうでなければ王宮に抱えられる秘匿の『魔法の使い手』だけだ。

 学ぶ機会が少ないだけで、違法な手を使えば魔法書が手に入ったり、さわりだけなら魔法を教える学校で扱われる灰魔法とは違う。黄魔法は、存在自体がそうそう知られていない。


 そんな魔法を知る、クルクスという少年は一体何者なのか。

 まだ、エルフに裏切り者が――? と嫌な思考を巡らせてしまうキキョウに、ヴァンカリアが声をかけた。


「……ところで、リーデル君は戻ってきてないの?」


「――え? いや、え、先に、帰った、と思う、んだけど……。いない、の?」


 キキョウの声がかすれる。嫌な予感がしてばくばくと、キキョウの心臓が暴れた。

 先に帰るように言ったのに。おとなしく帰る、その後ろ姿をキキョウは見たはずなのに。


 リーデルが戻っていない、という事実に、キキョウは頭が真っ白になった。

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