第4話 漣

 僕と彼女は暑い夏の残りの夜の大半を、僕のテリトリーである下町で過ごした。賑やかな飲み屋のこともあれば、川風の吹きよせるバルだったり、バーなのに食事の種類が多い老舗や、大衆食堂もあった。

 帰りにはいつも、夜の中にそびえるスカイツリーの色を彼女が気にしていた。駅に着く直前、彼女は立ち止まり、名残を惜しむように、紺碧の空を従える白い塔を振り仰いだ。僕はといえば、あまりに近くにありすぎて、スカイツリーが毎日色を変えようとも、気にしたこともなかった。

 そう告げると、彼女は驚いて目を丸くした。

「あんなに大きいのに、存在を忘れるとかある?」

「大きすぎるからじゃないかな。気に留めないよ。でも」

「でも?」

「曇っていてスカイツリーが消滅している日は気が付く」

「なにそれ」

 その日も、スカイツリーは上の展望室の辺りから白い雲に飲み込まれていた。

 彼女は不思議な笑みを浮かべて、繋いでいた僕の指をぎゅっと握る。その意味が分からずに、僕はただ、優しい手を握り返した。


 夜風に涼しさが混じり始めた頃、僕らは久しぶりに、下町ではなく華やかな町の中を歩いていた。彼女の耳には、似合わないピアスが煌めいている。それを見つけて、僕の身体の海はさざ波を立てて暴れていた。

 時折彼女は、小さく震えるスマホを取り出しては、嬉しさを隠しきれずに微笑んでいる。ここにいない誰かに向けた笑顔から意識を反らしたくてそっぽを向いた僕の服の袖を、彼女の指先が掴んではぐれないようにする。僕はそれをも、必死で見ない振りをした。

 その日の彼女は、地下鉄の入り口で手を差し伸べても、そっと手を振ってJRに続く人の群れに溶けていく。踊るような足取りが、その先に待つ人を思い起こさせ、僕はひとり、深い海の底に沈むように地下鉄の階段を降りていった。

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