第2話 地下鉄

 僕が彼女を好きだったのかと問われれば、判らない、としか答えられない。考えれば考えるほどに、あれは恋ではなかったのだと思う。ただ、僕にとって、彼女は地上を泳ぐ、遠くて不思議で、憧れに近い存在だったことは確かだ。その憧れを、恋だと名付けられたのならば、僕たちはきっと、違う結末に辿り着けていたはずだ。

 例えば、もう一度、あの日々に戻れるのだとしても、彼女に焦がれて人魚姫のように地上に這い出てきたりはしないだろう。僕は波間から彼女を見上げ、そうしてまた、水底に沈んでいくのだ。

 くだらない話を散々して、月が天空に登り切った頃、僕らは地上と地下に別れてさよならをした。彼女と彼は同じ電車に、僕はひとり地下鉄の入り口へと続く階段を降りていく。

「深海魚みたいね」

 蛍光灯で青白く照らされた古い階段に少しずつ消えていく僕を、そう言って彼女は笑っていた。僕は彼女がそんな風に笑う時の、唇の形が好きだった。

 蝉の声が煩いくらいに聞こえていた夏、彼の姿をあまり見かけなくなっていたことには気付いていた。彼の話を持ち出す度に、彼女がはぐらかすように話題を変えることにも。揃いで着けていたはずの、彼女の白く華奢な手には不似合いなシルバーの指輪が消えていたことにだって。だからといって、僕に何が出来ただろう。

 その日も僕らは、地下鉄の入り口とJRの改札との中間地点で、手を振った。いつもなら、直ぐに踵を返して、弾む足取りで人並みに飲み込まれていく彼女が、戸惑った顔で立ちすくんでいた。

 僕はちらりと時計を見下ろす。彼がいない分、話題があまり続かず、まだ空の色は藍色に染まりきれずにいた。

「こういう暑い日にはさ、ビールが飲みたいよな」

「ホッピーじゃなくて?」

 とん、と一歩、彼女が僕に近づく。茉莉花の香りが、僕の鼻腔に滑り込んだ。

「ホッピーでもいい。まあ、結局、酒なら何でもいいんだけどね」

「私も飲みたいな」

「オシャレな店なんて知らないけど」

「いつも行ってるお店でいいよ」

「じゃあ、行く?」

 その時いた駅の周辺にもビールが飲める店なら、幾らだってあったはずだ。でも僕は、騒がしく着飾ったテーブルの間で飲む気分ではなかったし、おそらく彼女だってそうだっただろう。人は誰でも、個人の顔を失い、その他大勢として雑踏に溶け込みたい気分の日があるのだ。

 だから、僕は彼女に手を差し出し、君は当たり前の顔で汗ばんだ僕の指を握った。

「私、久しぶりに地下に潜るかも」

「ウソだろ。地下鉄なんて、しょっちゅう乗るでしょ」

「乗らないよ。JRでどこにだって行けるし」

 浮かれるように、泳ぐみたいに、彼女は狭い階段を僕の左側に寄り添って着いてきた。

「ねえ、海の底には、目のない魚がいるんでしょ」

「あれってさ、退化じゃなくて進化らしいね」

「何で?」

「暗い海で僅かに入ってくる光をわざわざ見る労力よりも、それを見ないことで他の部分に機能を回した方が効率的だからだとか何とか、ってうろ覚えだからよく知らないんだけどね」

「へえ、面白い!」

 最後の一段を軽やかに飛び降りて、彼女は僕に微笑みかける。地下鉄がホームに滑り込んで、生温い突風が彼女の髪を舞い上げた。

「それに、君みたい」

「僕が事なかれ主義ってこと?」

「違う。余計なことを聞かずにいてくれるから、安心する」

 少しだけ寂しげに眉を寄せて、彼女は笑った。僕はもう一度手を伸ばして、所在なげにぶら下げられていた彼女の手を、強めに包み込む。締まりかけた地下鉄の扉に滑り込んで、僕らは暗いトンネルの中で並んで揺られていた。

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