第70話 私の捕球 その2
次の瞬間、私のグラブが、バンッ、という今まで聞いたことのない音を鳴らした。
身体中に衝撃が広がったような感覚があった。
「ストライーク!」
ホワイトさんの声が聞こえる。
私はほっと息を吐いた。
すごい。
グラブの中で、ボールが暴れていた。シュウシュウと音を立てて煙を上げているんじゃないかという気がして、グラブをこちらに向けて中を見る。
しかしそんなことはなく、白球は静かにグラブの中に収まっていた。
「よし、よく捕った!」
「いけるよー!」
そんな声援が飛んできて、私は顔を上げる。ラルフ兄さまと、キャンディだ。
「よく捕ったね」
そう言われてマウンドのほうに顔を向けると、投げ終わった体勢のまま、ウォルター殿下がこちらを見て微笑んでいた。
なんだか現実感がない。
一枚、薄いガラスが私の周りにあって、その外に私以外の人がいるような感覚がしている。
けれど地に足は付いている。これは現実だと私の頭はちゃんと把握できている。
ただ、どこまでも静かだ。
興奮も、緊張も、そこにはない。
私は嬉しかった。殿下が私に、最高のボールを投げてくれたことが。
さっきキャンディが、面白かった、と言った意味がわかる気がした。
とても楽しい。もしこれが手を抜いた球だったなら、そうは思わなかっただろう。
あのとき、あんなに速い球を投げるだなんてひどい、と思ったけれど、そうではなかった。
これは殿下の、最大限の敬意なのだと感じられた。
そして挑戦状でもあった。
お前は本気か? と問われているのだ。本気ならば捕ってみせろ、と。
ふと後ろで、ガラガラという音が聞こえて振り返る。
ホワイトさんが防球用ネットを押して脇に避けていた。そして近くに置くと、また元の位置へ戻ってきた。
ネットはもう必要ないということだろう。
「大丈夫、落ち着いてー!」
ジミーの声が聞こえる。
大丈夫、落ち着けている。きっと今までで一番、神経が研ぎ澄まされているのだ。
今日の私は、最高のパフォーマンスを見せることができるだろう。
ふとマウンドに目を向ける。
殿下が足元を確認するように、ザクザクとマウンド上を均している。
それを見て私は思う。
一人だ。
投手は、孤独なんだ。
たった一人、マウンドに立って、立ち向かわなければならない。
私はどうするべきかしら。
そうよ、声を掛けなきゃ。
一人で投げさせるなんて、そんなのよくない。
だって、捕手は投手の女房役なんでしょう?
ええと、なんて言うのだったかしら。
ラルフ兄さまが言っていたのよ。声を掛けたほうがいいって。
「いいボール来てますよー!」
返球しながら、そう叫ぶように呼び掛ける。
すると殿下は少し驚いたように動きを止め、やってきたボールをグラブで捕ってから、小さく笑った。
「うん、ありがとう」
殿下は受け取った球をグラブから取り出す。そして指先でくるっと回しながら上に軽く投げる。
それをパシッと受け取ると、こちらを向いた。
「続けよう」
「はい」
私はキャッチャーズボックス内にもう一度構える。
次はスプリット。落ちる球。
殿下は今度も振りかぶった。
そしてさきほどと寸分違わぬフォームで、球を繰り出す。
まさかストレートをもう一度?
一瞬だけ頭にそうよぎったけれど、同時に兄の言葉を思い出した。
『二球目を受けるときは、落ちるって頭に入れないとね』
そうだ。ストレートとほとんど同じ軌道だけれど、手前で落ちる。
あまりにも同じで騙されそうになるけれど、間違いない。
よく見て。どこまで落ちるか。身体で受け止めるような気持ちで。
ジミーに習ったことも、一つずつ確認する。
どうしてだろう。
確かに速い球なのに、ちゃんと見える。
思考がすごい勢いで動いているような気分だ。脳が、視覚から得たものを身体に正確に伝えようと処理している。
落ちた、と思った瞬間に足裏で地面を蹴って一歩前に出ると、膝を地面に落とす。
身体全体で球の動きを追い、グラブを差し出す。
落ちた球は、まるで吸い込まれるように、グラブの中に収まっていく。
「ストライーク!」
ホワイトさんの声がして、私はそれで、二球目の捕球成功を知った。
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