第1章 考慮


春樹の一日の予定は忙しい。


兎に角忙しいのだ。


朝日が登ると同時に目を覚まし、同室の海斗と陽斗を起こさないように寝床から出て、来た時に渡された装束に着替え直す。春の朝はまだ冷える。音を立てないように襖を開け、恐る恐る足を廊下の上に置いた。


「つっっっっめた!!」


足の先が凍ってしまう程の冷たさに大きな声を出してしまった春樹。急いで口を押さえて部屋の中にいる先輩達の様子を除くと、まだぐっすりと夢の中にいるようだった。


彼等の姿を見て一安心した春樹は再度襖を閉め、袖に付いている紐を引っ張った。


以前配られたこの装束は、陰陽師になるものなら誰でも着ているもの。今の季節、まだまだ寒い日が続くので中に重ねて単衣を着ている者が多い。一番外側には純白と言える程輝く装束で、手首にかけて袖が広がっている。その先にはつゆと呼ばれる唐紅からくれないの紐が縫われている。


袖の下で軽く結われており、その部分を露先と呼ぶ。この露先を引っ張り、袖先を結ぶ。引っ張った露を両方一緒に結んで一つにし、それを自分の首に掛けるようにして、動き回れるようにする。


これも陽斗に教えてもらって、そこから毎日のように括っている。慣れた手つきで準備を進めていく春樹。服に水が付かないように、ゆっくりと桶に入っている水を運ぶ。


「う〜……さっむいなぁ……」


千切れそうな程冷えて痛くなる手先を擦り合わせ、少しでも暖を取ろうとする。しかし、動かないと何も終わらないので一緒に持って来た布切れを濡らし、固く絞る。


莫大な九条邸の全ての廊下を雑巾掛けをしなければならないのだ。しゃがみ込んでから床に置いた布切れに手を乗せ、廊下を蹴るようにして走り始めた。


「これが終わったら食事の準備をして……洗濯もしないといけないし……あー!!やることありすぎだろ!!」


怒りに任せるようにして全力で終わらせようとする春樹。掃除が終わった後の事を考えているのが全て言葉に出ているようだった。怒っているように見えるが、実は小声で独り言のように呟いているだけだった。


彼の言った通り、炊事、洗濯も行い、その後にやっと海斗と陽斗による指導が始まる。数時間の勉強の後、今度は夕餉の準備をする為に他の弟子達と一緒に炊事場へと向かう。


全員で食事を摂った後、片付けをし、体を汚れを取るために布切れで体を拭く。就寝前に再度今日の復習として勉強するのを海斗に強く言われたので、1人で教本に向き合って羅列されている文字と睨めっこをしていた。


「これ、一体どういう意味なんだ……?」


「まーだ読んでいるのかい?」


「うわぁ!?ちょっと海斗さん……驚かせないでくださいよ……」


「ごめんごめん。あまりにも真剣な顔して教本と睨めっこしてたからさ」


後ろからひょっこり現れたのは海斗。既に寝間着を着ている彼は腕を組んでいる。いきなり声をかけられたので。肩を跳ねさせていた春樹は目を細くして軽く睨み、直ぐに質問へ移った。


「あの、この前話していた一般人には見えないってやつです。式神は確かに存在するし、俺達には見えています。でも、これは霊力があるから見えているだけで、“霊力が無い人間でも見る事が可能”……と書いてあるんです。これって、どういう意味なんですか?」


「あ〜これね!実は、この教本に書いてある通り、人間本体に霊力が無くても式神は見ることは可能なんだ。でもそれにはいくつか条件があってね」


思い出したかのように軽く握った拳をポンっと反対の手の平で叩き、近くにあった筆と帳面を手に取り、さらさらと軽やかに何かを書き始めた。


不思議そうな顔をして見ている春樹は、「よし、こんなものかな」と言って海斗を見つめていた。すると、春樹の目の前に出してきた帳面には図のような、絵のような物が書かれていた。


「例えばなんだけど、俺達の中にある霊力。これは体内に存在しているから式神を見ることが出来るんだ。もっと正確に言えば、体内で巡らせている、と言った方が正しいかもね。だから見ることが出来るんだけど、それ以外にも方法はあるんだ。それが、これね」


「これは……えっと、何ですか?」


「え?見て分からない?これが地面、木、人間、太陽、だよ?」


「は、はぁ……」


海斗が書いた物はどうやら絵だったらしい。それらを指差して説明をしていたのだが、春樹は全く頭の中に入って来なかったようだ。気を削ぐような絵は何やら恐ろしい何かのようにしか見えない。


眉間に皺を寄せて見ている春樹を見て一つ咳をすると、「で、これがね」と無理やり説明に入った。


「霊力の仕組みなんだ。春樹はどうやって霊力が出てくるか知ってる?」


「いや、まだ詳しくは分からなくて……」


「そっかそっか。それなら今軽く説明するよ。霊力って言うのは、“人が信じる力”なんだ。それらは僕達の身の回りにある自然、よくあるのだと森とか海が多いかな。自然の物達から出されているんだ。それが人間の体内に入り込んでいるってこと。更に詳しい事はまだ未解明のままなんだけどね!」


彼の絵を気にしながらも、説明に耳を傾けるように集中した。『霊力とは何か』と言う根本的な所を指導しているのだが、本来は今学ぶような事ではない。しかし、教本に書かれていたほんの一部の所から質問をして来た春樹を見て、海斗は嬉しくなっていた。


「で、本題なんだけど、何で霊力のない、少ない人間でも式神が見ることが出来るか。それは、今話した通りで自然から排出されている霊力があるからなんだ。」


「自然……って事は、地面からも出ているって事ですか?」


「御名答!まだ一週間しか経っていないのに、成長が早いね!春樹が気づいた通り、地面からも霊力は出ている。だから、霊力が無くても見ることが出来るんだよ。どう?分かったかい?」


「まぁ、なんとなく……」


あやふやに返事をしている春樹は首を傾げたままだ。それもそうだろう。まだ十くらいの年齢なのだから、霊力の仕組みを理解出来るのには時間がかかるだろう。海斗の言葉を繰り返し繰り返し呟いている春樹は何かに気づいたようにして、彼の方へ体ごと向き直った。


「海斗さん、夜遅くに付き合って頂きありがとうございました」


「いやいや、いいんだよ。俺も春樹の成長を楽しみにしているからさ!気長に頑張りなよ。俺はもう寝るね〜おやすみ〜」


「あ、はい!お休みなさい」


大きな欠伸をしている海斗は真剣な顔をして話していたのは何処へ行ったのか、目を擦りながら自身の布団の中へと入って行った。春樹は布団の中へ潜って行く先輩を最後まで見届け、再度机に向き直る。


「見えない人でも、見える、か……」


後ろから聞こえて来た微かないびき。先程まで話をしていた海斗は既に夢の中のようだ。彼のいびきを聞きながら、何もない所をずっと見つめている春樹。何か考えているように見えるが、その内容は全く見当もつかない。


肌寒く感じる風が少しだけ空いている襖から吹き抜けて行くのを感じているのだけは分かった。

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