序章 第四話

「大丈夫……大丈夫、だからな……俺が……」


真っ赤に染まった冬樹の服と春樹の服は境目が無くなるほど紅の色へと変色していく。ポタリ、ポタリと地面に垂れていくのは冬樹の血。一歩、また一歩と地面を踏み締めるようにして前に進む春樹は今にも崩れ落ちそうだ。


虫の息になっている冬樹を抱えて、彼に話しかけるようにして進んで行く春樹。どこに向かおうとしているかなんて、全く想像もつかない。そもそも、奴隷の彼らを診てくれる医者なんてこの世には存在しないのだ。


「死ぬな……絶対に死ぬなよ……!」


彼の願いとは裏腹に止まらない血。徐々に小さくなっていく冬樹の呼吸音。その全てがこの世が理不尽だと表しているようだ。重たい足を動かして、前へ前へと進む春樹は絶望感以外には何も持っていなかった。


「はる……き……?」


「冬樹!?目を、覚ましたのか!?」


微かに聞こえた大好きな友の、兄弟の声。その声は、数時間前まで一緒に話していたとは考えられない程小さく、か弱い物になっていた。彼の声に反応した春樹は足を止め、ゆっくりと彼を地面に下ろした。


春に相応しい薄紅の花びらが絨毯のようになっている地面の上は、溢れ出てくる冬樹の血によって濃く深い原色へと変わっていく。


「ご、めん……な……」


「謝るなよ!!俺が、あの時俺が代わりに受け止めていれば……!」


「もう、いいんだ……短い間、お前と、いられて……幸せ、だった……」


「何でだよ……これからも、一緒にいるだろう!?なぁ!!」


外に流れるように出てくる彼の液体を必死に掻き集め、溢れてくる所へと戻すことを必死になっている。医療の知識なんて欠片も持ち合わせていない春樹にとっては、これくらいしか出来ないと思ったのだ。春樹が冬樹に話しかけるも、か細い息しかしていない冬樹は微笑むようにして春樹を見つめるだけだった。


最後の力を振り絞り、震える手をゆっくりと挙げて春樹の頬を撫でた。その目は、愛おしい人を見るような目だった。齢いくつも行かない少年が出来るような表情ではなかった。


「生きろ……春、樹……お前は……幸せに……」


「あぁ、もちろんだ。お前も一緒に生きるんだ。だから、もう……!」


「……死ぬ、な……」


ゆっくりと落ちていった彼の手。それを掴むことすら出来なかった春樹は何度も繰り返し彼の名前を呼んだ。真っ白になった彼の肌は血の気が引いているようで。微かに聞こえていた呼吸音も聞こえなくなり。静かに動いていた心臓の音、脈の音も感じなくなった。


「なぁ、冬樹?死んでないよなぁ?だって、俺らは一緒に幸せになるって約束したもんなぁ?」


返事の返ってこない人を強く強く抱き締めている春樹。冷たくなっていく体温は彼に現実を突きつけるには十分過ぎた。


彼は、憎んだ。


この世の全てを。


弱いから、他人に虐げられる。


弱いから、幸せになれない。


弱いから、大切な人を守れない。


「ああ……あ“あ”あ“あ”あ“……!!!」


誰が自分を幸せにするのか。誰が大切な人をこんな目に遭わせるのか。憎い、全てが憎い。奴隷だから、弱いから、力がないから、権力がないから。それだから、俺たちは幸せになれないのか。


それがこの世界だと言うのならば、どうやって生き延びるのだ。


「うぅっ……くそっ……くそっ……!!」


溢れる涙は動かない春樹の服の上に落ちていく。ポタポタと服の上に落ちる涙は水玉模様のように染みが付いては消え、付いては消えを繰り返していた。叫び、咽び泣き、絶望しか与えてもらえない現状を、彼はどう思っているのか。


ゆらりと光った紺碧の眼球は、波のように揺れている。穏やかではなく、激しく、荒く揺れている。揺れた瞳は少しの間の後、ゆっくりと瞬きをした。その後、眼の中にあった揺れは止まり、何かを決めたことを示していた。


「……しばらくの、別れだ。冬樹」


彼の声は微かに震えていた。近くでしか聞き取れないようなその声に反応する者は誰もいない。絞り出すように出た言葉は暖かい風の中へと消えて行く。その風に乗って吹き付けて来る桜の花びら達が綺麗な金色の髪の毛に乗っている。


抱き締めていた冬樹の体をゆっくり持ち上げ、一際大きな桜の木に向かってゆっくりと歩いて行く。彼の体を大切にするように、腫れ物に触るようにして抱きかかえている。木の真下に来ると、彼は桜の木に冬樹をもたれさせて、自分の手で土の地面を掘り出した。


深く、深く掘って行くと、ある程度の深さと広さになってからその手を止めた。軽く手についた土を払ってから冬樹を抱える。立ち膝のままだが、一桁の年齢では考えられない程の力で彼を持ち上げた。そして、深く掘った土の中に彼をゆっくりと寝かせた。


もう目を開けることのない彼を見つめて、ひんやりと冷たくなった頬を撫でた。


「……またな、冬樹」


冬樹の頬を撫でた後、ゆっくりと手を戻して掘り起こした土を戻した。目印なんて何もないが、この山でも巨木の部類であるこの桜の木なら覚えていられると思ったのだろう。そして、近くにあった桜の花びらに息を吹きかけ、呟いた。


「冬樹を、俺の兄弟を、守ってくれ」


春樹の吹きかけた息によってヒラヒラと舞った薄紅の花びらは、ゆっくりと土の中にいる冬樹の上に落ちた。それを少しの間見続けて、自身の足に力を込めて立ち上がった。こうして、誰もいない、誰も見ていない彼らの別れは2人きりの、2人だけの忘れられない記憶になったのだ。

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