立場と役割

 リュディガーの会話がきっかけで、その後は当たり障りのない会話がいくつか続いた。


 しかし、夫婦の会話というよりは晩餐会で同席した者同士のそれと言っても良いものだった。


 それでも、昼間に彼が視察してきた地域の話を聞けたことは、こそばゆいような心地になった。


 この目で見ることはできないかもしれない景色。

彼の目で見てきた景色の話を聞き、想像するということは、帝都の大学でよくあったことだったと思い出す。


 職業柄帝都だけではないのだろうが、特に帝都は網羅していたと思えるほど、彼はよく知っていた。


 当時もお喋りという性格ではない彼だったが、だからといって寡黙でもない。 それほど多くの人と交流を持っていなかったマイャリスが言うのもなんだが、そんな彼は、人に聞かせる喋り方というのが上手だったように思う。興味を引く喋り方、とでもいえばいいのだろうか。


 その彼が話す景色に、興味を抱かないわけがなかった。


 彼が見た景色を見てみよう、とそれまではビルネンベルクのお使いでも無い限りしなかった外出をするきっかけになったのは言うまでもない。


 __そして、あの強姦未遂事件に遭ったけれど……。


 未遂で終わったからだろうが、出歩いた事自体を後悔しているということはない。ある意味事件も含め、いい経験になったと思っているからだ。


 あれほどの自由を謳歌できた時期はなかったのだから__。


 夕食後、部屋に戻り、湯浴みをして寝間着に着替え床につく__が、目が冴えて寝られなかった。


 ねやに彼が来るのでは__と、夕食の席で、彼と会話をしたことが少なからず影響しているのかもしれない。


 しかし、彼が来る気配はやはりなかった。


 冴えた頭を休めたほうが良さそうだ、と主寝室から出て眠気が来るまで私室にでも居よう、と思い立ったマイャリスは、明かりを片手に部屋を後にした。


 人気の感じられない廊下へ出、そこでふと耳にした音に足を止めて聞き耳を立てる。


 それは間違いなく、鍵盤楽器の大鍵琴の音色だった。


 明かりも落とされた屋敷で、そんなものを弾く者があるとすればそれは屋敷の主一家で、マイャリスの他にはリュディガーしか当てはまらない。


 まさか、と思いつつ息を潜めて気配を殺し、大鍵琴がある一階の広間へと向かった。


 広間は二階と一階をつなぐ場でもあるため、階段のところまで来れば全てを見渡すことができ、案の定、大鍵琴を弾くのはリュディガーだった。

 

 __昔、小姓みたいなことをしていたときに、教えてもらったんだ。


 いつだったか、大学にある大鍵琴を弾いている彼に出くわして、照れながらそう言っていたのを思い出す。


 彼の養父ローベルトは地方貴族の領地管理人で、利発なリュディガーはその貴族の当主に気に入られて小姓のようなことをしていたらしい。


 頭の巡りもよかっただろう彼は、当主の厚意で色々学んだことだろう。そのひとつが、大鍵琴。それに伴い、当たり前のように譜面を読む技術も教わったらしい。


 彼が弾く様__無骨な手が、繊細に動く様にマイャリスは驚かされていたが、今も当時と変わらず動いているのを見ると、やはり驚きから見入ってしまう。


 弾いているのは絶えず単調な音を背景にして、その上に儚く移ろう景色を表したような叙情的なものであるのが、さらに武人の彼の見た目との落差を生み出す。


 どっしりとした音を踏みしめるように弾く曲調に変わり、荒々しい空気にあふれる広間。鬱屈した思いを抱え、引きずるように進む音の連なりは、しばらく続き、マイャリスは息を呑んで、思わず柱の影に身を引いた。


 すると、やがて静かになって晴れ間が見えたように軽くなる__そこで、リュディガーは唐突に手を止めてしまった。


 明らかにまだ曲は途中だったので、怪訝に思ったマイャリスは広間を覗き込む。


 大鍵琴のそばに歩み寄る黒い法衣の男の姿があった。


 黒い長い髪も相まって、まるで影のようなその人物。


 __アンブラ。


 リュディガーの股肱、麾下の者。


 マイャリスはその姿をみて、気づかれぬよう主寝室へと足早に下がった。


 現れたのがフルゴルであったなら、そのままいたか、あるいは下へと降りて行ったかも知れない。だが、アンブラはフルゴルに比べ、リュディガー以上に近寄りがたい気配を常に纏い、放っているのだ。




 そして、どうにか主寝室で寝ることができた翌朝。


 身支度を整えていたところ、廊下がにわかに騒がしくなった。


 マーガレットと顔を見合わせ、手早く身支度を整えて部屋を出る。騒がしさの元は、階下のようで、廊下を進み階段を降りると、ちょうど広間の向こう__玄関ホールからリュディガーが屋敷の扉をくぐって出ていく姿が見えた。


 そちらへ歩み寄ると、彼は明らかに旅装束に身を包み、彼の愛馬の黒馬サリックス__これは龍騎士を退役する際、彼が引き取ったらしい__もまた、旅に耐えうるだろう装備をつけているではないか。


 それを見て、怪訝にしながらさらに近づいて外へでると、執事らはマイャリスへ道を譲るようにして下がり、リュディガーもまた気がついて手綱を持ったまま振り返った。


「……起きる前に出るつもりだったが」


「どちらへ」


「昨夜、州侯から文が届いて、招集された」


 州侯、と言う言葉に、マイャリスは息を詰めた。


「文……」


「鳥文だ」


「左様、でしたか。__昨夜、というのはどの段階で?」


「……夕食前だ」


 では、夕食時には承知だったということだ。


 執事も知っていたのだろうか__股肱のアンブラは。フルゴルは。


 ちらり、と隣の馬の手綱を手にするアンブラを見れば、黄昏色の双眸が、すぅっ、と細められた。


 その傍にいるフルゴルは、ひっそりと口元に弧を描く。


 __マイャリス様はこれから嫁ぐ。夫婦になる。今後は、対等の立場の方との交渉ができるわけです。


 ふいに過るのは、オーガスティンの言葉だ。


 そう、自分たちは夫婦で対等なはず。


 どうしてそんな大事な報せがあったのであれば、告げないで行くのだろう。


 __交渉のしようがある、ということです。


 交渉、とさらに思い出したオーガスティンの言葉を口の中で反芻し、マイャリスはひとつ呼吸を整えてからリュディガーを見る。


「昨夜にわかっていたのであれば、どうして告げてくれなかったのですか。私は一応、貴方の妻ではないのですか。行動の制約があるとは申せ、貴方の留守を預かるのは私ではないのですか」


 はっきりと、と婚姻してから初めて彼に対して強く言い放った。


 これには常に落ち着き払っている執事もわずかに目を見開き、主夫婦を見比べる。


「片道、急いでも5日はかかる道のりです。さらに急なお勤めがどれほどかかることかわかりません。お戻りもわからないというのに、知らされない私の身にもなってください。貴方に立場があるように、私にも立場というものがあるのです」


 リュディガーもまた、わずかに目を見開いた。


 本当に些細な表情の変化だったが、普段あまり表情を変えない彼にしては珍しいことで、マイャリスは見逃さない。


「……以後、気をつける」


「そうしてください」


 あっさり、と受け入れたリュディガーに、マイャリスは内心拍子抜けしてしまった。


 渋い顔をされ、出しゃばるな、と言われるかも知れないと思っていたのだ。


 それもなく、加えて、いくらか強く出たことで、心臓は早く強く打っていて、平静を装うことに難儀する。


 意見することがこれほど勇気がいるとは__忘れてかけていたことだ。


 そんなマイャリスをよそに、馬に跨るリュディガーとアンブラ。


 ただでさえ上背があるリュディガーが、巨躯の馬に跨ると一層迫力があって、思わず半歩下がった。


「__マイャリス、ホルトハウス。フルゴルを置いていくから、何かあれば彼女を頼ってくれ。一番早く私に連絡をよこす手段をもっている」


 執事とともにフルゴルを見れば、くすり、と小さく笑うフルゴルは頷く。


 呪い師として、何かしら手段を持っているのだろう。


 はい、と頷く2人を見てから、リュディガーは馬の手綱を緩めて進み始める。


 朝霧に包まれる中、進む2つの影。


 それが、朝霧にかき消されるのはすぐのことだったが、音が遠ざかり聞こえなくなるまで、マイャリスはその場で見送るのだった。


 それが、自分にある数少ない役目として__。

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