窮地に
それは、伸し掛かる男で視えないが、扉の方から聞こえた轟音だった。
轟音に身体を弾ませるようにして、その伸し掛かる男が身体を起こす最中、ごっ、ごっ、と床や物を揺るがす重い音と同時に、狼狽える男たちの声があがる。
広がる視界__霞んだ視界に見えたのは、大きな影。
幾度か瞬きして見えてきたのは、扉の残骸。
外から内へ爆ぜたような扉の残骸を作り出した張本人は、その影らしい。
物怖じすることもなく、勇壮な大きな黒茶の馬が後ろ足で立ち、前足をばたつかせて威嚇していた。
__違う……馬じゃ、ない。
馬の首のところに、人の上体がある__人馬族の青年だった。
人馬族の青年は、雄々しく猛々しい堂々たる馬体を
後ろ蹴りされた男をちらり、と横目で確認しながら、キルシェの上に伸し掛かっていた体勢から立ち上がった男に迷うことなく突っ込み、男の太い首を捉えて投げ飛ばした。
キルシェは、咄嗟に身体を引きずるようにして起こし、部屋の隅へと這って向かう。しかし、痛む身体は思う通りに動かない。
それでも叱咤してどうにか辿り着いた壁。身を寄せ、自身を掻き抱いて身体を小さくする。
「アッシス!」
「君は、彼女の保護を!」
__アッシス……?
耳は音を濁らせて拾う。だが確かに、そう言っていた。
たしか、リュディガーの友人の人馬族の青年はその名だった。
確認しようと今一度顔を上げるが、目が留まったのは扉の方から馬体をすり抜けて駆け寄る影。
もはや身構える余力も気力もなくなっていたキルシェは、ただぼんやりとそれを見つめる。
駆け寄った影は、すぐそばで膝をつく。
それは先程の伸し掛かっていた男に劣らず、大柄な男で、彼は荒れた呼吸を整える為に、肩だけでなく全身を大きく膨らますように息をしていた。
人馬族の仲間らしいから、人馬族の足に追いつこうと必死に駆けて来たのだろうか。
__誰……?
ぼやける視界に映る、榛色の髪。
__見間違い……だわ。
いるわけがない。
__見間違いに違いない……。
彼が、こんなところに。
「もう、ご安心を。私は龍帝従__」
膝をついた彼は、首元に提げている何か鈍色の丸い物を取り出し示しつつ言葉を紡ぐのだが、そこで言葉を逸し、固まった。
まじまじ、と見つめてくる。その目は、蒼の深みに紫を差したような色。
「__キルシェ、か……?」
濁った音__声は戸惑いと驚愕に染まったものだったが、間違いない。
キルシェは涙が溢れてきた。
見間違いじゃないと確認したいのに、ただでさえぼやける視界がみるみる滲み、彼の顔が溶けたように見えなくなる。
「あっ__ぐっ」
突然、目の前の男が苦しげに呻き声を上げた。
何事か、と涙を拭い瞬けば、男__リュディガーの首に背後から太い腕が回されていて、彼が
リュディガーを背後から締め上げる男は、キルシェに伸し掛かっていた大柄な男。
男はリュディガーの抵抗を受けつつも、ともども後ろへ重心を移した。
抵抗して暴れる左右の脚の付け根あたりに自身の足をかけて、身体も固めて抜け出せないようにし、首を確実に締め上げようとしていた。
リュディガーは歯を食いしばり、回された腕を引き剥がそうと掴む。そして必死に顎を引き、窮地を脱しようと試みる。
しかしながら、彼の顔が徐々に赤くなっていくのを目の当たりにして、キルシェがたまらず叫ぶ。
「リュディガー!」
咄嗟に助けようと手を伸ばしたところで、大柄な男はリュディガーと一緒に大きく弾むように飛んで転げた。
長髪の男と渡り合っていたアッシスが、後ろ足で大柄な男の背を蹴り上げたのだ。
咳き込みながらも真っ先に起き上がったのはリュディガーで、まともに後ろ蹴りを背に受けた男は床に手をついて喘鳴の合間に咳き込んで動けずにいた。
リュディガーはその胸倉を掴んで、背負うように近くの木箱目掛けて投げつける。
「あぁアッッ!」
男が大きく叫び、あたりに濃い砂埃が舞い上がった。
身体を強かに打ち付けた男は、呻くばかりで動かない。肩で荒く息をし、時折咳払いをしながら、リュディガーは追い打ちを掛けるように、髪の毛を掴んで上体を強引に起こしたときだった。
「駄目だ! それ以上は、私刑になる!」
もうひとりの抑え込みに成功し、拘束しようとしていたアッシスの怒号に、ぴくり、とリュディガーの手が止まる。
ぼやけるキルシェの視界__彼の手にはきらり、と光るものがあった。
大きさは、さほど大きく無いもの。一指分ぐらいの長さしかないそれ。
__あれは……小刀……?
いつぞや、私服警備をしていた彼に付き合った際、彼が見せてくれたベルトの留め具を加工したような作りの仕込み。
それのように、キルシェには見えた。
「僕は、それを見過ごすことはできない。そこから先は、陛下が望むことではないはずだ」
動きを止めたリュディガーは、キルシェの位置からはどのような顔をしているのか見えない。
小刀を握り、突き立てるために腕を引いて構える体勢のままの大きな身体が、荒く息をしているのが見て取れるだけだ。
「……僕の蹴りをまともに喰らったんだ。
アッシスの諭すような物言いに逡巡したリュディガー。
それを好機と見たのか、大柄の男は唸るような呻き声をあげながら、髪の毛を掴むリュディガーの手首を掴んだ。
その動きに、リュディガーは掴んでいた男の頭部を床に叩きつける。まるで忌々しい、と言わんばかりに、怒りを叩きつけるように。
「っぐぁ……」
男はそれ以後、ぴくり、とも動かなくなった。
アッシスに紐を投げつけられたリュディガーは、それで男を後ろ手に拘束にかかる。
「駄目だ、足だ。言っただろう、肋骨をやってるって」
動きを止めたリュディガーは、ちらり、とアッシスを見てから、彼の指示通り男の足首を縛った。
そして、襟首を掴んで引きずるように、アッシスが拘束した男の横へと大柄な男を移動させる。
「__もう大丈夫ですよ」
その様子を呆然と見つめていると、アッシスが上体をやや屈めるようにして、キルシェへと声を掛けてきた。
弾かれるようにしてそちらへ顔を向ければ、アッシスの顔が痛々しげに歪められる__が、そう時間をおかず、その目が何かに気づいたように見開かれた。
「君は……キルシェ、さん?」
問われて、キルシェは身体を掻き抱きながら俯くような頷きを返した。
「……リュディガー、君は残ってくれ。僕の方が足が速いから、僕が連行の手はずを整えつつ、人を呼んでくる」
「……ああ」
静かに答えるリュディガーは、キルシェの方へと視線を向けかけるが、周辺を見るようにして直視することはしなかった。
それは恐らく、見るに堪えないから、というよりも、彼なりの思いやりなのだろう。
そして、リュディガーは自身の首の違和感を払うように、手で喉仏あたりに触れて左右に揉み、咳払いをするのだが、そこでアッシスの異変に気づいた。
「__アッシス、腕が」
アッシスが抑える腕__腕まくりして晒されたそこに一筋赤い血が伝っていたのだ。
「大したことない。軽く撫でられただけだ。動くよ」
リュディガーの気遣いに対して当の本人は、心配不要だと言わんばかりに、落ちていたナイフをその負傷した側の手で無造作に拾い上げてみせる。
「じゃあ、最初に伸ばしといた一人を連行して行__」
「う、うわぁああ!」
アッシスが言いかけたところで悲鳴を上げたのは、最初アッシスが飛び込んできたとき、馬体で壁に押し付けられ挟まれて伸びていた男だった。
彼は意識を取り戻したものの、部屋の惨状を目の当たりにして恐れおののき、ひとり建物を飛び出していってしまった。
「あっ! __僕が追う。とにかくここに人を寄越すから、それまで頼むよ」
「ああ」
アッシスはナイフをリュディガーに押し付けてから建物を出、そこで声高に言い放つ。
「逃走を図るようだったら、国軍中軍中尉の私の権限で、どんな手を使ってでも阻止することを許可する」
静かでありながら、固く強く言った言葉にリュディガーが無言で頷くのを見るや否や、黒茶の人馬は駆け出した。
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