奥底に潜むもの
湯浴みを終え、暖炉前に移動させた椅子に腰を据え、暖炉で沸かした湯で茶を淹れる。
本来なら、まだ机に向かっている時間だが、夕方から立て続けに色々あってどうにも集中できそうにないから、一服してから机に向かうか否かを決めることにした。
煌々と燃えている炎は、部屋の魔石の照明とはちがい、踊るように、あるいは彷徨っているかのように薪の表面を走って蠢いている。
__信頼されているのはよかった。
一口お茶を飲み、立ち昇る湯気をくゆらせるようにしながら、カップの中を覗き込んで改めて思った。
昼に衝撃的な経験をしたキルシェだ。いつものように当たり前のエスコートに抵抗を覚えてしまっているかもしれない__と考えていたが、杞憂に終わってくれてよかった。
往路で、憚られるとは思ったが、促そうと背中に手を添えてみて、そこで拒絶されなかった。復路でも咄嗟に支えたこと、そして支えにと差し出した拳に、恐恐ともせず手を添えてくれた。
__指南役以前の間に戻ることもなく済んだ。
それは、リュディガーが危惧していたことのひとつだ。
キルシェを初めて見かけたのは、2年前、リュディガーが入学してすぐのこと。
吹き抜けの広間ですれ違った彼女の雰囲気に、目が素通りできない何かがあって、凝視するのは失礼だと自制していたにもかかわらず、歩みを止めずすれ違ったものの無意識に振り返っていた。
そのとき、向こうも遅れて振り返り、視線を向けてきた。
まずい、と一瞬思ったが、彼女は視線が合うと柔和に笑んで、会釈をされたので、リュディガーも軽く首で挨拶をする。
彼女が噂の__と思っていた矢先、あれが噂のラウペン女史だ、とともに歩いていた学友がリュディガーの耳に届く程度の小声で教えた。
彼女はリュディガーより一年長く在籍している。だから、リュディガーが入学するときには、それなりに噂になっていた。
それも、あまりいい噂ではない。僻みや妬みからくるものばかり。
教官が同じであっても、行動を一緒にすることが当たり前ではないのが、この大学である。どちらかといえば、気が合う仲間で雑談や議論をしたり勉強したり、情報を共有することが多いように思う。
龍帝従騎士団に在籍していたリュディガーは、その経歴のおかげか自然と人が近づいてくるから、そこから交友が広がった。
だが、時折見かけていたキルシェは、独りで居ることが専らだった。柔らかい雰囲気だから気安く話しかけられそうなものだが、彼女はとにかく噂の的で、それもあって人が近づかなくなっていたと言ってもいい。
__そして、当人は気にもしていなかった。
加えて、普段見かける彼女は、一瞬の隙も見せないほど凛としていたのも一因だろう。
孤高も孤高。だが、単なる孤高ではない__それに気づいたのは、つい最近だった。
まだ、指南役にと彼女を紹介される前のこと。
弓射の教官にも、ビルネンベルクにも指摘され、いよいよ危機感が高まってきた頃だ。
自主的になにかせねば、と早朝の弓射の鍛錬場へ向かったときのこと。先客が居ることに気づいた。
リュディガーは軽い気持ちで鍛錬場を覗いたが、それがキルシェだとわかり、咄嗟に柱の影へと身を潜めた。
寒くなり始めた秋。早霜だったその朝は、息も白くなるほど。その中で、噂の令嬢がひとり弓射をしていたのである。
冴え冴えとした空気に映える、銀糸の御髪。弓を引き絞る横顔は、どこか苛烈なほど冷厳で目を引いた。
紫の双眸は、哀しみとも怒りとも言えない、そのもっと奥底に何かが潜んでいて、見ていて何がそうさせるのか分からずざわめいたのは、今も鮮明に覚えている。
それらは、ともすれば、武人のそれに通じるものだったのだ。
育ちがよいだけの、ただの令嬢ではない__そう印象が変わった瞬間だった。
__あの目……あの横顔は惹きつけるものがある。
それが何なのか、未だにもってわからない。だがその目を見せるのは、朝のそのときだけ。日中では微塵もなく、もちろんリュディガーに弓射の指南で見本を見せるときでさえもそれがないのだ。
__日中は日中なりの魅力があるが……。
今でこそ声を掛けてもいい仲のように思うが、犯してはならない時間のようにも思えるから、朝見かけても遠くから静かに見守って、奥底に潜むものを探っているに留まっている。
もし、見られていることを悟られても、技を盗もうとしていたと、適当に言い逃れればいい。
__なるほど……養子、か……。
遠慮はあった__ある生活だろう。
養子とは申せ、持てる者に分類できるキルシェの生活は、持たざる者のリュディガーでは全てを計り知れないが、それでも置かれた境遇は
__それでも、意見していた。煙たがれるほどに。
たいていは己可愛さに、気に入られようと保身に走りそうなものなのに、幼く真っ直ぐすぎたのだろうか。
__それを悔いている風でもなかったが……。
幼いながらに覚悟して、意見をしていたのかもしれない。それが賢いかどうかは別にして。
__彼女はどこまでお家を背負っているのだろうか。
自分にはないもの。
他に兄弟がいないようだから、彼女が負う部分は大きいだろう。そして養父もきっとそれを期待しての養子のはず。
貴族ではないからそこまでではないのかもしれないが、上流階級なりのしがらみの一切。
__朝の弓射は彼女なりの鬱憤の晴らし方という面があるのだろうな。
手慰み、と彼女は言ったが、彼女が吐露した僅かな身の上話を聞き、少しだけ理解できたように思う。
あるようでない選択肢。自由のようで自由でない生活。
心の奥底へ追いやって、そこで積もり積もって押し固められた想い__叫び。
これまでの生活に加え、修道院の寄宿学校へ放り込まれた経験から、声を上げることができなくなっている。
__それ故に起きたのが、今回のケプレル子爵の件だ……。
全てが誰かの手の上で、自分の考えなど意に介されなかった。声を上げることは無駄と諦めて、耐える質。
残酷だが、それはこれからも変わらないかも知れない。嫁いだら嫁いだ先の流儀が待っているはずだ。
彼女ほどの人物なら、引く手数多だろう。寧ろ、選べる側になれる令嬢のはず。だが、養子だからという引け目もあって、養父の采配に全てを委ねている。
__行け、と言われれば二つ返事で行くのだろう。
養子なのだから、家を捨ててしまえと彼女には言えないのは、彼女にとってはそれが不義理で不誠実すぎることだと理解できるから。
「__どうにか、してやれないものだろうか……」
無意識に口からこぼれた言葉に、リュディガーは驚いて口元を抑え、誰も居るはずがないのに周囲を見張る。
「……踏み込みすぎだな。これは、よくない」
頭を抱えて、ため息をこぼした。
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