「忍び寄る影」

 一片の曇りもない黒光りの乗用車が暗い森の中を走行していた。


 静かな車内の中、ラルクス・マグウェルは僅かに生えた顎髭を撫でながら、後部座席で手元のタブレットに流れる映像を見ていた。


 映像には一匹のトカゲが警備員や研究員を惨殺するというにわかには信じ難い映像が映っていた。


 この男は研究所の実験に携わっている者だ。数分前に研究室から緊急要請とともに動画を送信された。


 動画の確認後、あまりに現実離れしたものを見たせいか、ひたいに手を当ててため息をついた。


 目的地に近づくにつれて方角の空がやけに明るいのに気がついた。


 車が目的地である研究所の前に近づいた瞬間、ラルクスは目を疑った。


 メラメラと燃え盛る研究所がそこにはあった。外壁は剥がれて、骨組みが丸見えだ。




「なんて事だ」

 ラルクスは火中の研究所を見て、静かにうな垂れた。



 数時間前に研究所から送られて来た資料と監視カメラの映像で、この惨事を招いた者の正体は理解していた。



「とりあえずはトカゲの捕獲、及び卵の回収だ。あれが手にはいれば我々の研究はさらなる進歩を遂げるだろう」



 ラルクスは同行していた黒服達に命令すると、再び、崩壊した研究所に目を向けた。



「さて、おとなしく捕まってくれよ。トカゲくん」



 額から滲み出る冷や汗を拳でぬぐいながら、大きくため息をついた。












 木々の間から差し込む暖かな日差しと小鳥のさえずりが朝の始まりを告げる。



 隣に彼女はいない。晴れ晴れとした天気とは裏腹に彼に無慈悲な現実が突きつけられた。



 代わりにいるのは顔も知らない我が子。トカゲは優しく卵に頬ずりをした。


「大丈夫だ。お父さんが守ってやるからな」


 そこにいたのは狂気に染まった怪物ではなく、我が子を心から思う優しい父親の姿であった。


 我が子を尾で包みながら、当てもなく森を歩いていた。


 昨日の連中が襲ってくるかもしれない。そう思うだけで怒りと不安でどうにかなってしまうそうだった。


 森の中を歩いて、数分が経った。遠くの方から川のせせらぎが聞こえた。


 水の音がする方に向かうと緩やかで綺麗な小川が流れていた。水面は太陽の光に照らされて、燦々と輝いている。

 


 僅かに乾いた喉を潤そうと川の水を喉に流し込んだ。


 血液や臓器などが水分で満たされていくのが手に取るように分かった。


「美味い」


 あまりの水の美味さに舌鼓を打っていると突然、背後から纏わりつくような殺気を感じた。



 恐る恐る振り返ると縦に大きく口開けた蝮が這いずりながら、こちらに迫っていた。


 しかし、今の彼にとって韋駄天のような速さである蝮の攻撃もあくびが出てしまうほど遅く見えた。


 力や身体能力だけではなく、動体視力やその他諸々の器官も異常に発達しているようだ。


 彼は蝮の毒牙をひらりとかわして、挙動に目を見張る。時折、見える二本の牙には強力な出血毒がある。



 もし万が一、噛まれてしまえば出血、最悪の場合、死に至る可能があるのだ。


 再度、殺意をむき出しで襲い掛かっていた。彼はいとも簡単に攻撃をかわして、蝮の尾を強く掴んだ。




 そして、竜巻のように風を切る速度で回り始めた。

 そのまま勢いに任せて近くの樹木に叩きつけた。


 その衝撃で木全体がグラリと揺れ動いた。蝮は焦点の合わない瞳を左右に揺らしていた。



「く、そっ、トカゲごときが」

 蝮の高圧的な態度に、死にそうになりながら自身を罵った先日の人間の男を思い出した。



 強者とは上の立場に居続けていると、無自覚に慢心する。そのせいで立場が逆転しても上の立場に居た時の態度で振舞ってしまうのだ。



「お前みたいな被食者は俺に食われていりゃあいいんだよ!」


「今は俺が上だけどな」



 トカゲが揺るぎない絶対的な事実を口にすると蝮は黙り込んだ。しばらく彼は思考を巡らして、ある妙案を閃いた。


「腹が減っているなら、いい方法があるぞ」




 彼は蝮の尾を掴んで、有無を言わさず無理やり口の中にねじ込んだ。


 嗚咽が聞こえてもやめず、胴体の半分近くまで口内に入れた。



「ん〜!」

 蝮が何かを訴えようとしているが、尾が喉奥に引っかかっているせいか何を行っているのかまるで理解できない。



「これで永遠に腹が減ることはねえな」

 満足げな表情を浮かべた彼は鼻歌を歌いながら、踵を返した。



 蝮に対する罪悪感は微塵もなかった。彼の中にあるのは我が子が無事だったという安心感のみだった。

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