リディの酔態
「……で、朝までド派手に飲み食いした、と」
ようやくギルは口を挟んだ。
彼は、宣告した通り五分きっかりで戻ってきた。幸いというべきか、リディは昨夜着替えもせずにベッドに飛び込んでいたので、急げば顔を洗って手櫛で髪を整えるくらいはできた。そもそも、同じ部屋で寝起きするようになったのは、昨日今日のことではない。今さらと考えてしまう自分がいることに、嘆くべきなのか、以前と違って環境に適応できるようになったと喜ぶべきか、リディはよくわからなかった。
ともあれ、戻ってきたギルはまずリディの口から昨夜したことを詳しく説明するように厳しい口調で問いただしてきた。
寝椅子でずっと右手で耳たぶをつまんでいる彼の前で、リディはずっと立たされっぱなしだった。
「朝までってわけじゃないわよ。夜中にはちゃんと帰ってきたもの」
事実と違うことまで、責められたくない。リディは、もごもごと口を動かす。
「朝までか、夜中までかは、重要じゃない。そんなこともわからないのか?」
「……」
「リディ、お前はいったい何歳だ? 二十歳だよな。ガキって歳じゃあるまい」
「…………」
ギルは、淡々とリディを責める。
「そもそも、だ。お前みたいな若い女は、男にもっと警戒してしかるべきなんだよ。ちょっとほだされて酒を飲まされるとか、チョロすぎる」
「…………お酒だって、知らなかったんだもん」
「そ、れ、が、チョロいって言ってんだよ!」
突然声を荒らげたギルに、リディはびっくりした。どうやら、彼女は彼がそこまで怒る理由がわからないようだ。
「あー、そうだった。そうだったな、リディお嬢様は、育ちが大変よろしいのでしたね」
嫌味のあとで、ギルは口中で「めんどくせぇ」とぼやいた。
(これはあれか、この世は善人のほうが圧倒的に多いとかおめでたいことを考えているのか)
皇帝の裡に眠れる大いなる神を讃えるヤスヴァリード教の聖典には、人の本質は善であると記されている。その一節は、いかに人は堕落し悪に染まりやすいかを、またいかに非道な悪人であろうとも本質の善は失われることはないゆえに平等に悔い改められると、説いている。
けれども、中にはいるのだ。リディのように、本質の善はそう簡単に悪に染まらないほど確固たるものだと信じている信徒が。
「お嬢様、お嬢様。連中は、あんたの体が目当てだったと言えば、おわかりいただけるでしょうか。それとも、もっとあけすけないやらしい話を……」
「わ、わかったわよ!! ちゃんと理解したわ。だから、もう結構よ!!」
体が目当てだったと聞いて、彼女は熱した鉄板のように耳まで真っ赤に染まる。性的な事情に免疫がないから、というわけではない。
(あぁああああああ、悔しい!! もう本当に最悪だわ!!)
バシバシ両手で顔を叩いたところで、赤みが引くわけではない。けれども、腹立たしさと悔しさから叩かずにいられなかった。
男たちの下心にまったく気づけなかった迂闊さと、ギルに初心な小娘だと誤解された羞恥心が、同時にあるいは交互に襲いかかってくる。
(わたしは、そんなお嬢様じゃないのにぃいいいいい)
今さら、初心な乙女じゃないと言ったところで、鼻で笑われるだけだ。ただの意地っ張りにしか聞こえないだろう。惨めになるだけだ。荒れ狂う感情は、声で発散できずに体中を駆け巡る。
赤くなったり白くなったり、拳を握ったり開いたり、突然首をブンブン振ったり、奇行が激しくなっていくのを見て、ギルは怒りを維持するのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
(どこまで理解しているのかわからんが、まぁ次からは警戒してくれると信じていいよな。てか、面白いからしばらくほうっておこうか)
彼女の地団駄が激しくなり、床が悲鳴を上げはじめたので、さすがに面白がっていられなくなった。
(まったく、早く制御できるようになってほしいものだな)
リディが魔力を暴走させるのも時間の問題だった。
パンパンとギルが手を叩くと、リディは虚を突かれたのか一瞬動きを止めた。パチパチと瞬きを繰り返すうちに、全身の力が抜けていくのがわかった。あれほど全身を駆け巡るっていた荒ぶる感情が、凪いでしまった。
「それで、初めて酒を飲んだお前は何をしでかしたのか、しっかり覚えているだろうな?」
「……え、ええ。もちろん、覚えているわ」
不自然なほど突然気持ちが落ち着いた彼女が、戸惑い以外の感情を抱いているのを、ギルは正確に読み取っていた。
(そりゃあ、自分の感情が他人に制御されたら、怯えもするだろうな。まったく、肝心の話が進まないったらないな)
こころなしか青ざめている彼女に、ギルは話がそれてしまうがしかたない右手で頭をかいた。
「はぁ、あのな、お前、また魔力が暴走する寸前だったぞ。自覚してなかったようだがな」
これまで魔力が暴走するときのような魔力が体中を巡る熱に、彼女は気がついていなかった。というよりも、羞恥の熱と混ざり合ってわかりにくかったのだ。
だから――
「魔力が感情の起伏に左右されるなら、魔力を鎮めてしまえば感情も鎮まる。簡単な理屈だろ。今までは、魔力だけが鎮まったように錯覚していただけのこと。ま、気持ちはわからんでもないぞ。俺だって、最初は気味が悪かった」
「…………そう、よかった」
それだけのことだと、肩をすくめたギルにリディは大げさなくらいホッとした。なぜ、これほどよかったと思うのか、はっきりとわからなかった。
(いえ、違うわ。なんだか、怖かったのよ。なにが怖かったのか、はっきり思い出すのが)
頭を振って振り払ったつもりだったけれども、彼女の頭の片隅に思い出したくないトラウマはまだしっかりと深く根を張っている。
このときに気がついていればあんな大事にならずにすんだかもしれないと、たびたび思い返すことになる。けれどもそれは、彼女がこの街を去ったあとのこと。
「わかったなら、いい加減話を戻すぞ。お前は、昨夜、なにをしでかした?」
もちろん、ギルは彼女が何をしでかしたのか把握しているだろう。
(誤魔化せない、わよね)
気まずそうにうつむいていた彼女は、観念してゆるゆると顔を上げた。
「それは……」
ギルと目を合わせられないまま、彼女はぽつりぽつりと昨夜のことを話した。
酒だと知らずに、飲んでしまったこと。
初めて飲んだお酒が、意外なことに美味しかったこと。
褒められ煽てられて、すっかり上機嫌になってしまったこと。
遠慮がちに食べていたはずなのに、気がついたらテーブルの上に何皿も積み重ねられていたこと。
どういうわけか、自分と同じくらい上機嫌だったはずの男たちの態度が悪くなっていった気がしたこと。
奢ってくれると言ったのにと、ちょっと強くテーブルを叩いたらヒビが入ってしまったこと。
馴れ馴れしく触ってこようとした男に軽く叩いて床に沈めたこと。
よくわからないけど、成り行きかなにかで飲み比べ大会になっていたこと。
日付が変わる頃には、食堂で意識を保っていたのは、自分一人になっていたこと。
床や椅子にだらしなく抱かれている男たちを避けながら、鼻歌を歌いながらこの部屋に帰ってきたこと。
「……そのままベッドに飛び込んで、寝たのよ」
説明し終える頃には、ギルがチョロいと言っていたのがよくわかった。
「私が酔いつぶれていたら、きっと無事じゃすまなかったわね」
冷静に思い返してみればみるほど、男たちの言動は下心を隠していなかったではないか。なぜ気が付かなかったのかと自分に呆れてしまう。
昨夜の自分の失態を受け入れた彼女は、ようやく反省できた。
「次からは、気をつけるわ」
「何を気をつけるんだ」
「それは……」
具体的に何に気をつければいいのかまで、まだ頭が回っていなかった。言いよどんだ彼女に、ギルはことさら大きなため息をついた。
「ま、この街でお前にちょっかい出すようなやつは、もういないがな」
「え? どういう意味よ」
「そのままの意味だ。昨夜のお前、今じゃ街中に広まっているだろうよ」
「はい?」
思わず声が裏返った彼女に、ギルは意地の悪い笑みを浮かべる。
「曰く『馬鹿力のとんでもないよそ者がいる』、『とんでもなく酒に強いロバ女に手を出すな』、『目を合わせただけで、床に沈む』、『ロバを連れた女に関わったら、無事じゃすまない』、『林檎を片手で握りつぶす女』、他にも朝からあちこちで耳にしたが、まだ聞きたいか?」
「…………結構よ。というか、なんなのまるで私が化け物みたいじゃない。根も葉もない事実無根の話ばかりじゃない」
「噂ってのは、尾ひれがつくものだ」
諦めろと、ギルは笑った。
リディは怒る気力はすでに使い果たしている。おかげでと言うべきか、げんなりしただけだった。
(街中なんて大げさすぎるけど、昨夜の私は格好の話の種よね)
もし自分がそんな話を聞いたら、信じられないと思いつつも嬉々として噂を広めるのに一役も二役も買っただろう。
「だから、さっき言ったとおり、お前にちょっかい出せるようなやつはほとんどいなくなるだろうよ」
「嬉しくないけど、ちょっと安心してしまったわ」
とはいえ、これからはなるべく人と関わらないようにしようと、心に決めた。最小限のことだけで充分だ。
(そもそも、私が無視すればいいのよ)
そもそも、正義感に駆られたよそ者の自分が首をつっこむのがいけないのだ。
「ちなみに、昨夜お前がヒビ入れたテーブルの弁償に、お前の飲食代、俺が全部払ったからな」
「…………ごめんなさい」
ますます申し訳なくなった。
「これからは、極力外に出ないようにするわ」
新しい土地に早く馴染みたいと焦るあまり、よく知りもしないで散策してもろくなことにならない。リディは、嫌というほど思い知った。ギルの仕事がなにかわからないけれども、彼とこの街を離れるまで、この部屋に引きこもるべきだろう。
(本当は、私なんかの面倒を見ている場合じゃないかもしれないのよね)
彼に迷惑をかけなければ、それだけ本来の仕事に集中できるはずだ。それは、とんでもない噂が広まってしまった街から、少しでも早く離れるための最善となるはずだ。
「俺も仕事があるからな。お前のことばかりかまけてられない。悪がそうしてくれると助かる」
「うん」
「だが……」
「だが?」
腰を上げたギルは、厳しい口調で続けた。
「閉じこめておくわけにもいかない。そもそも、お前はこの部屋でテーブルを割っただろうが。外に出ないからと、お前が騒動を起こさないとは言い切れない」
「そんなことないわよ!! 私だって……」
「もちろん、お前が故意に騒動を起こしているわけじゃないことくらいわかっている」
「だったら……」
「だから、だ。お前のことは信用しているが、万が一のために監視をつけることにした」
「監視ですって?!」
信用していると言った直後に、受け入れがたい単語が耳に飛び込んできた。
「ああそうだ、監視だ。お前にそのつもりがなくとも、騒動を起こすようだからな」
「うっ、確かにそう、かも、しれないわ」
意図せず騒動を起こしている上に、宿から出なくても階下の食堂でやらかしているのだ。
彼女がどんなに反省して言動に気をつけたところで、ギルの懸念はなくならない。
(こういうのを、巻き込まれ体質って言うのかねぇ)
退屈しないのはいいことだ。他人の面倒を見るのも嫌いではない。
けれども、予算をはるかに超える出費がかさむのは、いくら財産があり余っているとはいえ、普段節約を趣味としているので、大変由々しき事態だ。ただでさえ、目立ちすぎているのだ。このままでは、敬愛する皇帝からの仕事も失敗しかねない。
「わかっているだろうが、お前に拒否権はないからな」
腰を上げた彼は、背後の窓を開け放つと、右手の黒い指を軽く曲げて口にくわえる。
蒼天を飛翔するがごとき美しい指笛が、響き渡る。
普段の彼からは想像できない澄んだ音色に、リディは思わずうっとりと聞き惚れてしまった。
(って、うっとりしている場合じゃないわ。監視の人を呼んだに決まっているもの。あーあ、わたし、すっかり信用なくしてる)
きっと、下の通りに待たせていたのだろう。がっくりと肩を落としつつも、一人で過ごさずにすむかもしれないと、思い至る。監視とは聞こえが悪いけれども、話し相手になってくれたら、あわよくばお友達になれたら、と。
(そう考えたら、悪い話じゃないわね。ギルがいない間に、この国のことや、魔法について教えてもらえるだろうし)
この国に来てまだ数日なのでしかたないけれども、リディにはまだ親しい友人と呼べる者はいない。
(同性だったら、いいわね)
どんな監視役が来るのかと、背後の扉ばかり気にしていた彼女の期待は、思いがけない方向から裏切られる。
ギルが開け放った窓から差し込む日の光が、不意に陰った。と思ったら、黒いなにかが窓枠に舞い降りたではないか。
「紹介しよう。こいつが、今からお前を監視するクロだ」
「…………っ!?」
リディは、得意げな保護者が監視だと紹介したのは、窓枠に止まった大きな烏だった。
「冗談、よね?」
やっとのことで、そう尋ねたリディだったけれども、冗談ではないとなぜか確信している自分に、驚いていいのか呆れていいのか、さっぱりわからなかった。
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