心の問題

 あの頃の俺は、なにもわかっていないガキだった。

 父が、どれほど臣民から憎まれていたことすらわかっていなかった。


 俺にとってのあの人は、女物のド派手な柄の服を着ているめったに会えない血の繋がりのある父親でしかなかった。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 それで俺は王子はだが、五人目の王子だ。五人目となれば、そこまで大事にされることはない。むしろ、扱いに困っていたかもな。

 兄さんたちのように厳しくされるわけでもなく、弟のコニーのように部屋から出られないほど病弱でもない俺は、本当にわかっていないガキだった。

 だから、あのときに死んでいても文句は言えない。欲望と権謀術数渦巻く王国の中枢のど真ん中で、自分の身を守ることすらわかっていなかったからな。

 勘違いするなよ物心のついていないガキだったわけじゃない。

 あのとき、俺は十歳だった。だから、ガキだったなんて、言い訳にもならねぇんだよ。


 あの年の春にな、王家の居城月虹城にある七竈館の外壁の一部が崩れた。ちょうど年明けに一番上のクリス兄さんが七竈館に移り住む予定だったから、大規模な改修工事が夏に始まったわけだ。

 生まれて初めての大掛かりな工事は、遠目から眺めているだけでも、俺は退屈しなかった。だが、もっと近くで眺めていたいと考えるようになるまで、それほど時間はかからなかった。


 で、馬鹿な俺は、こっそり部屋を抜け出して、工事現場に近づいたわけだ。


 その日、あの人が視察に来ていたのはまったくの偶然だった。

 あの人は夏でも女物の派手で風変わりな服を着てた。だから、ひと目であの人だとわかった。

 年に一度見かけるか見かけないか。ましてやまともに言葉を交わしたこともない。それでも、あの人は俺の父だった。

 無知で馬鹿なクソガキの俺は、あの人に駆け寄った。

 なんでそんなことをしたのか、もう覚えていない。

 抱きしめてもらえるとでも、思い上がっていたのかもな。まったく、我ながら甘ったれて笑ってしまう。

 もちろんあの人は、父親の愛情をもって息子の俺を抱きしめるようなことはしなかった。


 あの人はな、俺を蹴り飛ばした。


 何が起こったか、馬鹿な俺はすぐにわからなかった。びっくりしたんだろうな。蹴られた痛みよりも、背中を地面に打ちつけた痛みのほうを覚えている。空がやたら青かったのも、覚えている。

 起こったことを頭で受け入れるよりも先に、俺の右腕に材木が落ちてきた。


 そうして、俺は右腕を失った。

 右腕が潰れるのは、そうとう痛かった。背中を打ちつけた痛みとは比べ物にならないほどな。それでも、はっきりと背中の痛みも覚えている。


 あの日味わった苦痛で覚えていないのは、あの人に蹴られた痛みだけだ。


 あの人の命を狙って仕組まれた罠じゃないかって、話もあったらしい。俺もそう思う。あれは、仕組まれた罠だったに違いないってな。

 だが、結局は事故。

 馬鹿な第五王子は、誰のせいでもなく不幸な事故で右腕を失った。


 右腕を失って、わかっていないことがわからなくてはならないとようやく気がついた。いや、いやでも気がつかされたと言うべきか。

 あの人が、民をどれほど苦しめているのか。どれほどの人が、あの人に恨みや憎しみを抱いているのか。

 そういった恨みや憎しみは、そのまま右腕の幻肢痛になった。


 あの人の命を奪おうとした誰かの憎しみが、俺の右腕を奪った。

 あの人の命を奪いそこねた誰かの憎しみが、あの人がどういう人なのか思い知れと、何度も何度も繰り返し存在しない右腕をぐちゃぐちゃに潰す。

 幻肢痛は、治療法がまだない。なにしろ、治療するべき患部が欠損してないんだからな。患部が存在しない。つまりは、心の問題だと言われた。

 気の持ちようだとか、気のせいだとか、気にし過ぎだとか、よく言われたし、俺も自分に言い聞かせた。

 けど、ちっとも楽にならなかった。

 常に痛むわけじゃない。だが、痛みがないときは、いつまた痛みが蘇るのかって怯えていた。

 諦めて幻肢痛を受け入れようともした。

 けど、駄目だった。

 あの人が死んでも、怨嗟のカタチだった幻肢痛はなくならなかったし、受け入れられなかった。

 それで、ダメ元で大河を渡って、どういうわけか皇帝陛下に気に入られて、この右腕を与えられた。


 今でも、たまに苦痛が蘇る。

 ちゃんと右腕はここにある。だから、これは幻肢痛じゃない。

 正真正銘、心の問題だったわけだ。

 あの日、俺は心に傷を負っていたわけだ。


 本当に厄介だろ。

 もう終わったことだと、頭で割り切っていても、どうにもならない。

 頭ではどうにもならないんだよ。


 これが、俺の心の問題――トラウマの話だ。




 そう、ギルは誰にも語ったことがない物語を紡ぎ終えた。


「リディ、これだけははっきり言える。気のせいだとか、気のもちようだとか、まして、自分が弱いからだとか責めるようなことはするな。無駄だし、余計に追い詰めるだけだ」

「じゃあ、どうすればいいの?」


 さぁなと、ギルは肩をすくめる。


「お前が自分で言っただろ、俺とお前は違う。俺は、これから先も死ぬまで、あのときの苦痛と付き合っていくしかない。そういうふうに受け入れたよ。ずいぶん時間がかかったがな。だが、お前はまた教会で祈りを捧げられるようになるかもしれない。俺とお前は違うから、心の問題をお前は解決できる日がくるかもしれないだろ」

「……そうかもね。そうだったらいいな」


 心の問題を解決する方法は、自分で探すしかないのだと、リディは悟った。


(あんな恐ろしい記憶と向き合う余裕なんてない)


 少なくとも、しばらくの間は問題を棚上げするしかない。今は、この国の暮らしていくのが精一杯だ。


(余計なことを考えずに、この国で生きていくうちに、忘れられるかもしれないしね)


 なるほど、ギルの身の上話に耳を傾けたかいはちゃんとあったのだと、リディは少し前向きになれた。


「でも、教会に通えないんじゃ、わたしの魔力が昨夜みたいに暴走するんじゃないの?」

「いや、教会に通わずに魔力を安定させる方法がないわけじゃない」

「よかった。あ、でも、難しいの、その方法」

「難しくはない。ただ、物を取り寄せる必要があるから、今日明日中にってわけにいかないだけだ」


 ホッと胸をなでおろした彼女とは反対に、ギルはため息をぐっとこらえた。


(ま、ちょっと金がかかるんだよなぁ)


 しかたないかと、彼は諦めた。必要な出費だと言い聞かせながら。


「ありがとう、ギル」


 明日には、忌まわしい記憶に苦しめられることなく教会に行けるかもしれない。この先ずっと教会に行けないかもしれない。


(ギルが教えてくれた心の問題って、そういうことなのかもしれない)


 なんとなくではあるけれども、リディは時が解決してくれるような気がしていた。


「今は、この国でちゃんと暮らせるようになることが、最優先よ。教会に通うのは、その次ね。悔しいけど」

「リディなら、きっと大丈夫だろ」

「ギルとは、違うからね」

「言ってくれるねぇ」


 悔しそうな台詞を口にしながら笑うギルがおかしくて、リディは声をあげて笑った。

 それから、真剣な顔でギルに尋ねる。


「ねぇ、さっきの話だけど、ギルのお父さんは、ギルのことを守ろうとして、とっさに蹴り飛ばしたんじゃないの?」

「神なきヴァルト王国史上最悪の狂王ロベルトが、俺の命を救ったなんて話、誰が信じるんだよ」


 鼻で笑ったギルに、リディはなおも真剣な顔のままで首をかしげる。


「誰も信じないかもしれないけど、そういうことにすれば、ギルの右腕の苦痛は、誰かの憎しみじゃなくなるんじゃないの」


 そうすれば、心の問題も解決できるのではないかと、リディは続ける。


「本当のことは、誰にもわからないでしょ。事故にされていることを、命を奪うための罠だと決めつけることができるなら、とっさに守ろうとしてくれたってことにもできるはずよ」


 ギルは適当にごまかそうとして、やめた。


「その通りだ、リディ。実際、俺もそういう物語にしようとしたさ。あの人にも、父親らしい一面があるのかもしれないって、あの人のことを知ろうとしたよ。だが結局、複雑になっただけだったよ」


 ギルは悲しそうに笑って空を見上げた。

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