21.後悔の先にある願い


 数日後の早朝。


 こんな早く起きる必要はなかったんだけどなんだかソワソワしてしまって。二度寝する気にもなれないから、唐突に部屋の片付けなんかしてる。試験の前なんかにもよくあらわれる現象だ。


 でもテレビやパソコンの画面を磨いたり、薄く積もってる埃をとったり、そうやって徐々に身の回りのものに光沢が戻っていく過程を見るのはまさに心が洗われる気分。ざわつく気持ちを落ち着かせるという意味で俺にとってはなかなか有効な手段なんだ。


 落ち着かない理由は明白。

 今日の昼過ぎ、いよいよ第一の作戦を決行するからだ。掃除用の除菌シートを持つ手にも力がこもる。



 ハルとの作戦会議は結局あの後この自宅マンションで延長戦へと突入した。

 コーヒーを飲みながらののんびりペースとは言え、ハルはがっつり昼頃まで付き合ってくれた。


 俺が朝比奈さんに接触できるとしたらその場所は大きく分けて二箇所。学校かバイト先だ。


 しかし後者は早々に却下となった。

 勤務中に押しかけて個人的な話をするのは常識的に考えて迷惑だろうと俺たちの意見は一致した。それで仕事に支障が出たら彼女に申し訳ないし、下手すると本格的に嫌われる恐れもある。


 そうなるとあと一つは学校。

 ここだったらなんらかキッカケが作れるかも知れないとハルは言った。


 とりあえず決めた作戦の流れはこうだ。

 今日、俺は教授に用があるという名目で学校に寄る。そこでサークル活動中のハルとこっそり連絡を取り合い、あくまでも個人的に待ち合わせをしていたふうを装ってサークル活動が終わる頃に落ち合う。ここで俺たちが朝比奈さんや岸さんより早く校内から出てきて駅前のベンチで待機するのがポイントだ。


 そしてハルは急な用事が入ったフリをして先に帰る。岸さんの帰り道は別方向。朝比奈さんと俺は自然と同じルートで帰ることになる。

 その途中でタイミングを見計らい、先日のことを詫びるのだ。



『せっかくだから響の気持ちも正直に伝えちゃいなよ!』



 ハルはニヤニヤしながらこんなことを言った。

 俺の気持ち? ぽかんとしていたら心ん中でニブいなぁとまた呆れられた。


 ああ、告白ってことか。そう理解できたのは数秒経った後。



「正直、そこまではなぁ……」


 俺の掃除はどんどん本格的になっていく。

 クリーナーを片手に鏡の前に立った自分を見たとき、やっぱり自信とは程遠い顔をしているなと実感せずにはいられなかった。


 そこまで、というのは、少なくとも“そこまで好きじゃない”という意味ではない。友人から“保護者目線”なんて言われるくらいだから、むしろ学生らしい軽快さとは正反対の重すぎる気持ちなんじゃないかと思う。


 だけど未完成のパズルみたいに何処かおぼつかない。鮮明ではない。俺が見つけるべきピースは一体なんなのか。



 大掃除レベルの作業が終わってそろそろ身支度を始める頃だと思い出したんだけど、ヤバイ、完全に体力使い過ぎた。

 部屋は無論ピカピカだけど、出かける前なのに結構汗をかいてしまったのは誤算。とりあえずシャワーだな。


 新しいバスタオルを用意する。

 そっと頬を当てるとその優しい柔らかさに束の間の安らぎを覚えた。




 正午前の空には綿菓子のような入道雲が生まれつつある。折り畳み傘を持ち歩くのもすっかり習慣になった。

 今という時を謳歌する蝉たちの鳴き声が、迷いの最中さなかにある人間にはあまりにも強すぎる生命力を感じさせる。街路樹の青々とした葉の煌めきはそれを後押ししているようだ。


 ヘッドホンをつけた俺はあえてしっとりとしたバラード曲を再生する。こうすると少しだけ、時の流れが緩やかに感じられるともう知っていた。



 電車に乗って少し経った頃だ。

 ポケットにしまっていたスマホが振動したのがわかった。


 通知が来ていた。ハルからだ。



 え……っ。

 その内容に胸がざわつく。



『朝比奈さん、今朝遅れるって連絡あったんだけどやっぱり来れないらしい。熱が上がってきちゃったんだって』


『俺ももっと早く言えば良かった。遅くなってごめん!』



 今朝あれだけ掃除したのがまるで意味がなかったというくらいに、整っていた胸の中を不安が音を立てて侵食していく。


 熱って、どれくらいだろう。相当具合が悪いのかな。一体どうして。


 電車は目的地に近付いていく。

 俺はひとまず大学の最寄り駅で降りることにした。




 作戦が早くも駄目になったこと。それはしょうがない。そもそも俺のエゴだったんだから。


 だけどそのエゴの延長で、これ以上彼女の心配をするのは許されるだろうか。何かしてあげられることはないかと考えてしまうのは? それは図々しいんだろうか。


 本来だったら作戦の第一段階とするはずだった場所。駅前のベンチで俺は一人、途方に暮れていた。

 腰を固定されたように動けない。現状を変える手段もわからないまま。



「あっ、いたいた!」


 そのとき、遠くから聞き慣れた声が届いた。

 ハルが大きく手を振りながらこちらへ走ってくる。


「もう、着いてたんならそう言ってよ! また一人で悩んでたんでしょ」


――こんなところにいたって何も解決しないのに、全く。しょうがないなぁ――


 急いで抜け出してきてくれたんだろう。ちょっと息を切らしてる。


「ごめんね」


「別に怒ってる訳じゃないよ。ただ悩むなら一緒に悩もうってこと。ホラ、次の作戦考えるよ!」


 ハルの表情は以前より素直になった。完璧な笑顔ではない、苦笑。呆れているであろうその気持ちを隠さずに、それでも俺の隣に座ってくれる。


「それに俺もごめん。遅れるって聞いた時点でこうなる可能性を考えておくべきだったよ。朝比奈さんまさかそんなに具合悪いと思わなかったから」


「俺は大丈夫なんだけど、熱ってどうしたんだろう。風邪かな」


「わかんないけど……多分そうなんじゃないかな。夏風邪だったら厄介だよね。あれ治るの時間かかるし」


 風邪って割と誰でも引くものだとは思う。だけどこんなにも心が落ち着かないのには理由があった。


 いつか岸さんから聞いた。朝比奈さんは前のバイト先で店長から嫌がらせされたときに明らかに食欲が落ちたって。

 だとしたら、今回の原因は……


 強い風が吹き付けて、木の葉たちが悲鳴を上げる。

 後悔を超越した感情はついに願いへと変化した。



「お見舞い、行けたらいいんだけど」



 強く望んでいた。

 言葉よりも何よりも、今はただ弱っている彼女の傍にいたいんだと。


「響……」


「心配なんだ。あのとき彼女が欲しかった“安心”を今届けることが出来るならそうしたい」


 ぎゅっと目をつぶったとき、背中を撫でられる感触があった。とても温かい。


「そうだよな。今すぐ、なんとかしたいよな」


 少し困ったような笑みでこっちを見ているハルは、もしかしたらすでに何か計画してくれていたんだろうか。我儘を言ってしまったなと実感する。


 だけどハルは俺の心配などものともしないといったふうに次々と提案していく。


「状況が状況だからさ、バイト先のオーナーさんに聞いてみるってのは?」


「難しいんじゃないかな。確かにあの人とは顔見知りだけど、責任者として従業員の情報はしっかり守るだろうし」


「というか響だったら朝比奈さんちに直接尋ねていっても怒られないと思うけど。どの部屋か大体わかるんだよね?」


「多分……でももし怖がらせちゃったらと思うと正直抵抗はある」


 う〜ん、とハルはしばし唸って、それから妙に甘ったるい声で俺に言う。



「ねぇ〜、響やっぱりボランティアサークル入らない? そしたらサークル用の連絡手段があるからさぁ」


 さすがにこんな動機じゃ入れないよ。

 喉元までツッコミが出かかったけど、困らせてるのは俺なんだよな。知恵の一つも絞り出せない無力な自分が嫌になる。


 ハルの心が聞こえる。

 ああでもない、こうでもないと、いろんな手段を考えてくれてるのがわかる。俺に愛想もつかさずに。


 これ以上はハルの負担にもなってしまうかも知れない。俺も何か思い浮かんでくれよ、そんな焦りの渦に飲まれていたときだ。



――あの。



 女子の声。

 少し低くて不機嫌そうな。とても久しぶりだけどちゃんと覚えのある声。


 緩やかに顔を上げた俺たちの視線の先に彼女は立っていた。



「き、岸さん。お疲れ様」


――やべぇ! 会いたくない人が来た!――



 ハルは内心動揺しまくってるけど、スマホを片手に立ち尽くしている彼女は落ち着いたものだ。


 いや、落ち着き過ぎているくらい。


 形こそ気が強そうだけどとても静かな目をしてる。何処か寂しげで諦めが浮かんだような表情に引き込まれた。


 そして彼女の唇からぽろりと零れるようにして出た言葉。



「私、奏と連絡とれますけど」



「え……?」



 どちらに言ったのかもわからない。どんな意図なのかも。だけど彼女ははっきりと続けた。



「夜野さん」



 はっきりと。俺の名を呼んだんだ。

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