18.透明な壁
次第に夜へ傾いていく
キャパオーバーなのは承知の上だ。でもここで考えるのをやめたらいけない気がした。
そうしないと、もしかしたら……やり直しのきかない夜になってしまうかも知れないんだから。
「朝比奈さん……?」
「夜野さんは、嫌ですか?」
「あ、あのさ……!」
思いがけず語気が強くなってしまったのと同時に彼女の両肩を強く掴んでしまった。優しくしたかったけど余裕がなかったんだ。
彼女はただ、ぽかんとした顔で俺を見上げているばかり。
何故そんなに澄んだ目をしているの。なんだか無性に悲しくなる。
複雑な感情が渦巻く中で、最終的に俺の胸を占めたのは“不安”だった。
「あのさ、まさか、こうやって誰でも部屋に入れてる訳じゃ……ないよね?」
「えっと……うちんちですか? まだあいちゃんしか来たことないですけど」
「良かっ…………たぁ……!」
ほーっという長いため息と共に俺はその場にへたり込みそうになった。
うん、わかってるよ。これが一般的なラブコメだったらためらいながらも彼女に押し切られて部屋へ行くんだ。
もっと大人なラブストーリーだったら、いい雰囲気になったところで壁際へ追い詰めて強気な台詞を甘い声で囁いたりなんかするんでしょ。
でも無理だから! できる訳ないでしょ俺に!!
それどころか俺は今、心底安堵している。
だって間に合ったんだ。彼女が危険な事態に巻き込まれる前に。
「あまりお節介なこと言いたくはないんだけど……駄目だよ、男を簡単に部屋に入れちゃ」
「でも、夜野さんとはいい人だし、優しいし」
「言いたいことはわかるよ。別に世の中の男がみんな悪い訳じゃないし俺だって変なことする気はないさ。だけどもう少し気を引き締めていてほしいっていうか」
「あの、確かに夜野さんは男の人ですけど、私にとって夜野さんは“夜野さん”なんです。“男の人”じゃないんです、男の人ですけど」
えっと……ちょっとよくわからないような言い回しになってきてるね? 戸惑ったような表情を見る感じ、彼女もなんて言ったらいいのかよくわかってないみたい。
なのに何故だろう、凄く納得できるような気もするんだ。
「でも、迷惑だったんならごめんなさい」
細く、沈んだ声がした。
彼女の瞳が一層艶めいている。まるで星屑を詰め込んだみたいで吸い込まれそうなくらい綺麗なんだけど、スイーツを選んでいたときのキラキラ感とは違う。
中央に寄った眉、ほんのり色を帯びた頬、震える唇、これは……
『泣いてるの?』
何故かこんなときに幼い頃の自分の声が脳内に響いた。きゅっと胸が苦しくなった。
「朝比奈さ……」
「思えば私、最初から夜野さんに慣れ慣れしくしちゃって、夜野さんが迷惑していることにも気付かないで……だから私、いつも鈍感って言われちゃうんだ」
「迷惑なんかじゃない。そうじゃないんだ」
「ごめんなさい」
うつむいてしまった彼女を、この細い肩を、このまま掴んでいていいのか迷った。
ためらいに震えた指先がわずかに離れたとき、彼女がするりとそこから抜け出した。そのまま俺に背を向けてしまう。
初めて彼女との間に壁を感じた。見えるのに届かない、まるで防音ガラスだ。
無理矢理壊すようなことはしたくない。破片はきっと彼女を更に傷付ける。
でも、一体なんて言えば届くんだろう。
「朝比奈さん、ごめん。俺はただ……」
「すみません、今日は帰ります」
一度振り返った朝比奈さんは微笑みを浮かべていたけれど……
「おやすみなさい」
「う、うん。おやすみ。気を付けて」
透明の壁は結局消えることはなく、俺の語彙力もまるで役には立たなかった。
天を仰いだ。きっと俺たちを後押ししてくれていた夜空。眩しいほどに
はぁ……
自分でもわかる。湿度の高い空気にお似合いのジメッとしたため息だ。
朝比奈さんとこのマンションから俺んとこのマンションまでは大した距離はない。ご近所さんと呼んでもおかしくないくらいだから。
なのに、今日はやたらと長い道のりに感じた。
玄関に入って鍵を閉めた後、ちらりとコンビニの袋を眺めた。
今更押し寄せてくる物悲しさ。元々一人で食うつもりだったのになんでこんな気持ちになるんだよ。
「何やってんだろ、俺。守るつもりが傷付けて」
テーブルの前についてもそんな虚しい独り言が零れてしまうばかりだった。
いつか彼から届いていたメッセージを思い出す。
いいんだろうか。こんな内容で。多分、向こうが期待してた内容と違うんじゃないかと思うけど。
だけどやるせないこの気持ち、これ以上独りで抱えていたくない。もし、受け止めてもらえるんなら……
俺は意を決してスマホを手に取った。こう入力した。
『恋愛相談、してもいいかな?』
そんなすぐに返事くるかわからないけど……なんて思っている途中ですぐ返信が届いた。なんというレスポンスの早さ。
『待ってました!』
『頼ってもらえて嬉しいなぁ』
『何か進展あったの?』
『内容によっては電話してもいい?』
「お、おぉぉ」
しかも短文でいくつも返してくるスタイル。シュールなんだか可愛いんだか微妙な絵柄のスタンプまで混じってる。
これが二十歳のノリ……いや、一つしか違わないんだけど、こういうタイプの人と友達になったことないからちょっぴり圧倒されてしまった。
期待が溢れているのがビシビシ伝わってきて、俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。
だからあらかじめ伝えておこうと思ったんだ。
『お返事ありがとう。でも、そんな良い知らせではないと思う』
既読はすぐついたけどその後しばらくの間があった。
さすがに困らせちゃったかな。そう思ったとき。
『ちょっと待って! やっぱ電話していい?』
『っていうか聞かせて。ちゃんと相談乗るから』
『めっちゃ心配』
『夜野っちはそのまま待ってて』
短文の連投が再び。
電話……いいのかな。俺から持ちかけた話なのに。
落ち着かない気持ちもそう長くは続かなかった。わずか数分で着信があったからだ。
「はい」
『もしもし夜野っち!? ごめん遅くなって!』
「ううん、全然待ってない。ありがとう、兵藤くん」
『声、元気ないね。朝比奈さんと何かあったの? 喧嘩とか?』
喧嘩……
でも、違うな。そんな段階ですらなかった。言い合うことすら満足に出来なかった。壁に遮られていたから。
「ううん」
だから俺は否定した。声が少し震えてしまった。
「……泣かしちゃった。多分」
『えっ! 夜野っちが!? 嘘でしょ!』
全く、年上らしさなんて皆無じゃないか。落ち込んでるのバレバレだし、こんな心配されるし、さすがに自分が情けない。
『あのさ、夜野っちって朝比奈さんの絵見たことあるって言ってたよね? それも偶然。ってことはあの辺に住んでるの?』
「うん、まぁ」
『やっぱりね〜! 話聞いてる感じそんな気はしてた。俺ね、実は今隣駅にいるんだ。夜野っちさえ良かったらちょっと会えない? 一緒にご飯でもどうかなって』
「でも俺さっき弁当買ってきちゃったから、う〜ん、どうしようかな」
それも消費期限が迫ってる値引きされたやつだ。今夜中には食わないといけない。
「……あ」
でも一つ、方法を思い付いた。
ためらいながらもなんとか口にした。
「あの、兵藤くん。俺、駅まで迎えに行くから、えっと……近くにコンビニあるし、そこでご飯買えるし、兵藤くんが嫌じゃなかったら……」
辿々しい声で伝えた提案。
それでも電話の向こうからは明るい声が返ってきた。
『全然いいよ! むしろありがとう、夜野っち!』
受け入れてもらえた安心感と共に罪悪感が更に重くのしかかる。俺はなんて勝手なんだろうと思わずにはいられなかった。
今夜、彼女だってこんな“安心”が欲しかっただろうに。
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