15.哀しいノイズ
さて……
バイトすると言ってしまったけど、まず何をどうすればいいのか。
高校の頃にちょっとやってみようかと思ったことはあるんだ。
だけど、急に変な能力に目覚めるわ親は離婚するわ、後はもう……思い出したくもないんだけど、受け止めきれないことが次々と続いてもはやそれどころじゃなかった。
大学生になってからも周囲や自分自身の負の感情に飲み込まれないよう、目の前のことに集中するのが精一杯だった。
つまり働いた経験が全くない。
いつかは働かなきゃとは思ってた。そのつもりで大学に進んだんだから。
でもこの体質ですぐに出来る仕事なんて……
「大丈夫かい?」
軽くパニックになっていた俺の元に届いた芹澤さんの優しい声。
彼は少し離れた位置にいて、心の声が聞こえる距離じゃないんだけど、眉を寄せてこちらを見つめるその表情は俺を心配してくれているように見える。
「……あっ、はい。すみません、急に電話出てしまって」
「ううん、いいんだよ。君そんなに大きな声じゃないし他のお客さんも気にしてない。それに大事な話だったんだろ?」
「はい……まぁ……」
話、聞こえちゃったかな。
でもこればかりは自分でなんとかするしかない。
さっきまでテーブル席にいた女性客二人組もそろそろ帰るようだ。
お会計を済ませたすぐ後、二つの黄色い声が俺の後ろを通り過ぎる。
「あの人マジでイケメンだよね〜」
「ねっ、また来よう」
多分丸聞こえだよ。素直だな。
そう思うと共にちょっと彼女達が羨ましくなった。
なんだろう、この薄暗い空間に取り残されたような気分は。
その正体を探っていくと、カーテンを閉め切った雑然とした部屋の中で布団に包まり無気力に身を任せていた頃の自分が見えた。大学に入る前の療養期間の頃。
やばい、なんか……息が苦しい。
身体が汗ばんで、脈が速くなる。
本能が警鐘を鳴らすのがわかった。これに飲み込まれてはいけないと。
俺は少し急いで残りのカプチーノを飲み干した。
そっとカップを置くつもりが手元がもつれてカシャンと高い音が鳴る。自分の余裕のなさにますます焦る。
だめだ、やめよう。もう帰ろう。余計なことを考えてしまう。
多分、だけど、周りが煌びやかであればあるほど自分が独りであることを実感するんだ。セレブリティとかそういうのじゃないんだ、俺が憧れるのは。
世間一般で言う“普通”を見せつけられる度に、自分の中の未練が鮮明になる。
こんな体質のこと、誰にも説明できるはずないのに。
「すみません、お会計……」
「待って」
立ち上がった俺を芹澤さんが止めた。
今度は真正面からこちらへ近付いてくる。さっきよりずっと、真剣な顔をして。
「ごめん、余計なお世話かとは思ったんだけど、なんか困ってるみたいだったから」
「…………っ」
「顔色が悪い。せめてもう少し休んでいった方がいいんじゃないかな。うちなら大丈夫だから」
わかってもらえるはずないのに。
優しさに触れる度に、まだ何処かで期待している自分がいることに気付いて嫌になる。
独りなら独りと、何故腹を括って生きていけないんだ、俺は。
情けなさを感じた後は目頭が熱くなった。
抑えろ、抑えろ、抑えろ。
何度も自分に言い聞かせてるのに身体が言うことを聞かない。
「夜野くん……」
――つらかったんだね――
そんな声が聞こえた。暗闇の中に舞い降りた柔らかな羽毛のような声。
死んだように動けなかったあの頃の自分が包まれていくようで、震える喉から熱い息が零れる。
芹澤さんが大きな手が俺を肩を支えてくれていた。
「そっか、それは大変だね。俺も田舎の出身だからわかるよ。閉店ってなると大体転職なんだよなぁ。働ける場所もそんなに多くないだろうし」
「はい、今まで母さんに頼ってばかりだったから、そろそろ自分でもなんとかしなきゃと思ったんですけど……」
「偉いじゃないか、そう思えただけでも」
さっき改めて自己紹介してくれた。
この人は
そういえばと思い出して、俺もフルネームで名乗っておいた。
今はカウンターの向こう側で何か準備をしながら俺の話を聞いてくれている。
外にはまた準備中の札をかけといてくれた。30分だけとは言っていたけど、こんな何度も貸し切り状態にしてもらって申し訳ない。
「他人と接すると疲れやすい体質かぁ。最近そういう繊細な人が増えた感じがするね。そっか〜、うちももう一人くらい雇おうと思ってたんだけど、接客はやっぱり難しいだろうなぁ。身体を壊したら本末転倒だ」
事情はちょっと誤魔化して伝えた。本当のことを言って信じてもらえる自信はまだないんだ。
自分と同じような体質の人に出会ったことがあるならまた違ったのかも知れないんだけど。
「ただ、俺の知り合いで求人出してる人なら知ってるよ。ルーティンワークに近いと思うんだけど、響くんはそういうの得意?」
「はい、多分……ですけど。接客よりかはまともに出来るんじゃないかと」
「君が良ければこの後、電話で詳細を聞いてみるよ。この近くにある業務用の商店で、スーパーよりは小規模かな。うちもよくお世話になってるお店なんだ。在庫管理や商品陳列をしてくれる人を募集してるみたいだから、接客にはほとんど関わらずに済むと思う。普通の商品もあるけど業務用サイズも多く扱うから、結構力仕事になるだろうけどね」
力仕事か……。
目に映るのは白っぽくて細い腕。こんなんでも身体動かしてるうちに少しは体力ついてくるものなのかな。
「商店でも作業担当を募集することってあるんですね」
「ああ、中にはそういう求人もあるみたいだよ。その人の特性を生かして働いてもらうっていう」
「特性、ですか」
「考え方が柔軟なんだよ、あの店のオーナーさん。もう結構いい歳なんだけど、時代に合わせて自分の考え方もちゃんとアップデートしてるっていうかさ」
カラン、と涼やかな音が鳴る。
客席側へやってきた芹澤さんの手には透明のグラスが二つ。
「炭酸水。リフレッシュにちょうどいいかなと思って」
「ありがとうございます。なんかいつもすみません」
「いいよ、俺が好きでやってるんだから気にしないで」
芹澤さんも俺の隣に腰を下ろす。
お洒落な大人の男だけど、炭酸水でも充分
きゅっとレモンを絞ると、限りなく透明な液体の中にも確かな揺らぎが見える。しばしそこに魅入っていた。
「なんかさ、最近のストレスって目に見えないから」
「え?」
「昔より明らかに見えにくくなったから、ストレスを抱えてる人も見た目じゃわからないんだろうなって。繊細な人が増えたように感じるのは、そういうことなんじゃないかな」
隣を見ると、芹澤さんもさっきまでの俺と同じようにグラスの中を見つめていた。その表情は何処か物憂げだ。
「昔の話なんてするとオッサンくさいと思われるかも知れないけどあえて話してもいい?」
「は、はい。どうぞ」
ふふ、と苦笑を零した芹澤さんが正面を向いたまま語り出す。
「例えば俺が中高生くらいの頃って、不良と言ったら誰が見ても悪そうな奴らだったんだよ。常にガン飛ばしながら歩いたり、同じような仲間とつるんだり、校内にわざと煙草の吸殻を捨てていく挑発的な奴もいたな」
「そう……なんですか」
俺たちの学校はどうだったかな。確かにそこまで尖った生徒はなかなかいなかったとは思うけど。
「社会人もそう。パワハラ上司や嫌味な先輩は誰が見ても嫌な奴。みんながみんなとは言わないけど。あっ、これ。昔は良かったって話じゃないよ。いつの時代も悪いものは悪いんだから」
「はい……まぁ、そうですよね」
俺はといったらぎこちない相槌を間を挟むばかり。正直まだちょっとどんな話なのかわかってないところがある。
だけど次第に近付いていった。今、芹澤さんが目にしている光景に。
「ストレスが見えにくいって言ったのは、悪意を
カラン、とまた氷の音がして。
だけどそれはさっきよりずっと冷たくて、哀しくて。
「人を追い詰めるものは必ずしも悪意とは限らない。だけどいずれにしたって間違いを止める人もほとんどいないんだ。無理もないよ。何処の誰かもわからないような他人が敵に回るかも知れない世の中じゃためらいもする。便利になった代償さ」
――こんな世の中じゃなければ……――
伝わってくる。やるせなさを伴った感情。
それはきっと俺にしか聞こえない哀しい音色。
「助けの求め方もわからないまま、限界なんてとっくに超えたまま生きてる人たちが沢山いる。この世は孤独で溢れているよ」
――こんな世の中じゃなければ、
「…………?」
軋んで歪んで今にも砕け散りそう。そんな音色の中に一抹の違和感を覚えて、俺はますます彼から目が離せなくなった。
「あっ、ごめんね。なんか本題からズレちゃって」
「いえ、大丈夫です」
「えっとつまり俺が言いたかったのは、表向きにはわからないストレスが多い現代人だからこそ、自分の心を守りながら働いた方が自分にとっても周りにとっても良い結果をもたらすんじゃないかなってこと」
芹澤さんの表情にはもう大人の余裕が戻っている。
ちら、と時計と見てから「求人の件、どうする?」と俺に訊く。そうだ、やっと思い出した。
「じゃあ……お願いします。採用してもらえるように俺もしっかり準備します」
「了解。ちょっと待っててね」
一度カウンターの奥へ向かった芹澤さん。だけど思い出したようにまたこちらを振り向いて。
「あと奏ちゃんももうすぐ来ると思うけど」
「いや、今日はいいです。求人の情報だけ聞いて帰ります」
「そうかい?」
「こんな顔じゃちょっと……まだカッコつけていたい段階なんです」
ヒリヒリする瞼を伏せて本当の気持ちを口にすると、「ああ、なるほど」なんて言いながら大体察してくれた。
正直、今でもちょっと怖い。自分が社会で通用するのかどうか。決意して早々に弱気になってる自分を情けなく思ったりもした。
でも、今は……
木枯らしを思わせる季節外れな風を受けながら、再び開店した『Cafe SERIZAWA』を振り返る。
耳に残っている氷と泡の音。
それからあのとき聞こえたノイズ。
――こんな世の中じゃなければ、
おそらく肝心なところで雑音が混じった。あんなのは初めてだ。なんだったんだろう。
だけど、この心を一瞬で冬にしてしまうような切ない感情ならハッキリと覚えてる。
「芹澤さん……」
もしかしてあなたも、誰か大切な人を失ったんですか?
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