12.また、触れてしまった
こんな店……いつ出来たんだろう。俺がこの街に来たときにはあったか?
必要最低限のことにしか関心を向けないようにして生きてきたからそれもありうると思った。
外から見たときは小さな灯火のようだった色にいま全身を包まれている。
木で出来た内装が一層柔らかく見える。
テーブル席は三つ。それからカウンター席の近くには小さな鉢に植えられた植物が並んでいる。水槽にはふっくらとした金魚が泳いでいた。
じんわり染み渡る温かさ。
お洒落なのに何処か懐かしい匂いがする。
何故か目の奥が熱くなった。
「ごめんね、いま俺の私服しかないんだけど良かったらこれ着て」
――こんなおじさんくさいのやっぱ嫌かな?――
さっきの店員さんがカウンターの奥から出てきて言った。
心の声も聞こえてきた。
タオルと服を俺に差し出している。
「これでいくらかはマシになるでしょ」
「……あっ、いや! それはさすがに申し訳ないです!」
ぼおっとしていた為にすっかり反応が遅れた。
私服を借りたらこの人の帰りの服がないかもしれないと思うとそんな簡単には甘えられない。
――怪しい奴って警戒されてるのかな。う〜ん、でもずぶ濡れだし、このままって訳にはいかないよなぁ――
いや、別にそういうんじゃないんだよな。心の声なら丸聞こえだからこの人が本当に善意でそうしてくれてるのも大体わかる。
「やっぱりそれじゃ風邪引いちゃうと思う。俺は大丈夫だよ? 仕事着だったらもう一着あるし、家もすぐ近くだし」
「え……本当に大丈夫なんですか?」
「いいよいいよ。ちょっと待ってて、外に準備中の札かけてくるから」
店員さんは窓のカーテンを閉めてからドアの方へ向かった。
もう大丈夫だよ。そう言われた後、俺は一礼してから念のためもう一度店内を見渡した。
普段はどうなのかわからないけど、今はこの人以外に店員さんの姿もない。お客さんもいない。よし。
俺は上の服から脱ぎ始めた。
だけどちょうど上半身裸になっていたときカランカランとあのベルの音が鳴った。
「
聞き覚えのある声。
ドアから現れたピンクのレインコート姿の女性と目が合った。
いや、というか間違いなく朝比奈さんだ。
頭が真っ白になった。
「ひゃっ!? えっ、夜野さん!? な、なんでそんな格好……!」
慌てて目を逸らした彼女だけど「なんで」はこっちの台詞だ。
ドアに『準備中』って札かかってただろ! なんで入ってくるんだよ!
疑問はいろいろあるはずなのに動揺のあまり細かいことまで考えられなくなっていた。だってそうだろ。よりによって好きな子に見られたんだから。
「ああ、ごめん! 俺が鍵かけておけば良かったね。でも何? 二人知り合いなんだ? じゃあ大丈夫か」
何も大丈夫じゃない。何を勝手に納得してるんだ。
店員さんの呑気な声を耳にしてさすがにムッときた。さっきまでの恩を忘れて睨みつけたくなる。
「それにしても奏ちゃん、こんな大雨の中わざわざ来てくれたの?」
「大丈夫です! 気合い入れてレインコート着てきましたから!」
「いやいや、でも風だって強いでしょ。何か飛んでくるかも知れないんだからこういうときは落ち着いてからにしなよ」
なんか普通に話し始めてるけど俺はどうなるんだよ俺は揃いも揃って天然なのかあんたら。
急いでシャツの袖に腕を通そうとしても手元がもつれて上手くいかない。くそ!
「そうそう、今朝来てくれたお客さんがさ、奏ちゃんの……」
「いいからあっち向いててくれ!!」
俺は久々に大声を上げてしまった。
コーヒーの香ばしい匂いがふわりと流れ込んできた。香りの軌道が見えるようだ。
着替えを終えてカウンター席に朝比奈さんと並んで座った俺は、そんなことを考えつつも除夜の鐘のように振動を伴って鳴り続ける実感に支配されていた。
見られた。見られた。見られた。
男なんだから別にいいじゃないかと言う人もいるかも知れないけど俺はそうじゃない。気分もすっかり年末だ。
昔から家族に「意外と繊細」と言われていた理由が今になって少しわかった。
そんな俺をよそに朝比奈さんはさっきからカウンターの向こうにいる芹澤さんというあの店員さんと何か楽しそうに話してる。
最初は驚いてたけどもう何とも思ってないってことですか。ああそうですか。そりゃ良かった。
でも時間が経つに連れて、俺もだんだん冷静になってきた。
外からはまだゴウゴウという音が聞こえる。こんな状態じゃ早く中に入りたいと誰でも思うだろう。『準備中』の札に気付かなくてもしょうがない。
だいたい俺もその場で着替えたからいけなかったんだ。せめて物陰に隠れるとか、もうちょっと配慮すれば良かったんだよな、うん。
なんかさっきとは別の意味で恥ずかしくなってきた。
「はい、ブレンドでいいかな」
朝比奈さんと俺の目の前に一つずつコーヒーが置かれた。俺は驚いて顔を上げた。
「サービスだよ。二人とも大変なところ来てくれたからね」
「えっ、でも俺は」
「いいのいいの、俺が強引に招き入れたようなもんだから」
「えっ! そうなんですか?」
今度は朝比奈さんが驚きの声を上げた。
ぽかんと彼女を見つめながら、俺の複雑な感情の中に埋もれていた疑問がやっと顔を出した。
そうだ、なんで朝比奈さんはここにいるんだ? 昨日も岸さんとこの店から出てきた……ってことは二日連続だよな?
芹澤さんともやけに親しそうだ。普通の店員さんとお客さんの関係には見えない。
バイト? いや、じゃあなんで今ここに座ってるんだ?
「そうそう、素敵な作品。まだ紹介してなかったね。こっちだよ」
芹澤さんがカウンターから出てきて俺に笑いかける。手のひらで店内の奥の方を示している。
俺は立ち上がり、後をついていった。
テーブルの間をすり抜けて歩いていくうちにはっきり見えてきた。
奥の壁には正方形の小さな枠に入った絵が沢山飾ってある。俺は見入った。
いや、吸い込まれていった。
愛くるしい表情、仕草。それがありありと伝わってくる。どれも幼い動物の絵だ。
アザラシ、猫、犬、ゾウ、ヤギ……いっぱいいる。
ただリアルというだけではなく、この絵からは温度が感じられるのだ。本当に動物の赤ん坊たちをこの手で撫でているかのような。
これが『素敵な作品』か。確かに凄い。
「兵藤先輩から聞いて来てくれたのかと思いました〜。昨日はあいちゃんが来てくれたんですよ」
ほんわかした朝比奈さんの声が後ろから近付いてくる。
「ああ、俺は偶然……って、え!?」
俺はやっと気付いた。そういうことだったのかと。
「この絵……朝比奈さんが描いたの?」
「はい、絵を描くのが好きなんです」
そう……だったのか。
大きなリアクションをとるなんてことは多分できてなかったと思う。
ただ、俺はまた触れてしまったんだという実感が広がる。彼女の新しい一面に、また近付いてしまったのだと。
「芹澤さんは私の伯母さんの美術大学時代の同級生で私も高校生のときから知ってるんです。その芹澤さんがちょうどこの街でカフェをオープンしたって聞いてもうびっくりして!」
「ああ、やっぱりあの人がオーナーさんなんだ」
「はい。四月にオープンしてすぐに来てみたらなんだか話が盛り上がっちゃって、絵の展示も一緒にやってみようってことになったんですよね。私が絵を描くのが好きなの覚えててくれて嬉しかったなぁ」
「そうだったんだ」
さっきの話だと岸さんはもちろん、兵藤くんもこの展示会のことを知っているようだった。多分、だけど、ボランティアサークルのメンバーには告知したんだろうな。
今日雨が降らなかったら、俺は知ることもなかったんだ。
「今日は午後から土砂降りになるかもって天気予報見て知ってはいたんですけど、もしかしたら誰か見に来てくれてるかも知れないなって。そしたらお礼くらい言いたいなって気になっちゃって、つい……」
「それで来たのか。こんな天気なのに」
「えへへ、はい。でも偶然でも夜野さんが来てくれてたからやっぱり来て良かったです!」
くしゃっとした笑顔で俺を見る。
俺を、見る。
ちょっと濡れている柔らかそうな髪。
自然と手が伸びてしまった。
「無茶するよね、ほんとに」
「夜野さん?」
「朝比奈さんのそういう優しいところは好きだけど、もっと自分のことも大事にして」
彼女の髪で指先が濡れる。
「あっ、ありがとうございます。夜野さんに心配かけてばかりですね。ごめんなさい」
いつもと変わらないその笑顔を見ていると何か歯痒くて、でも壊したくはなくて、目が回りそう。
「ふふ」
小さな含み笑いが聞こえて俺は我に返った。
少し離れたところで芹澤さんがニヤニヤしてる。
慌てて手を引っ込めた。
なんだ。なんだ。なんだ今のは。
鼓動が駆け足になって身体中の水分が蒸発しそうだった。
しばらくは自分でも状況が理解できなかった。
「あっ!?」
俺が声を上げたのはその日の夜。一人きりの自室、ベッドの上だ。
『朝比奈さんのそういう優しいところは好きだけど』
「お、俺……『好き』って、言った……?」
今更遅いのに、遅すぎるのに、震える唇を押さえ、かたく目をつぶったりなんかしたんだ。馬鹿だよな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます