Novels ピリオド
@period10
チュートリアル〜六畳間ラプソディ〜
《0》
『あんた何やっても中途半端じゃない』
手に取った集合写真の片隅からは、そんな声がした。その集団の写る写真を見て、視覚によって聴覚が反応した。否、鼓膜が振動していない以上、視覚によって聴覚の記憶が蘇ったというのが正しい。そこに写る集団とは、自分を含めた中学時代のクラスメイトと教師数名である。ほとんどの人間が経験した事のある、学校行事によるあれやこれやで何かと集められて並ばされて撮られる事になる集合写真。その一枚を今手にして、目にして、そして耳にした、感覚になっている。
ダンボールや物に、それ以上に想いに囲まれて。与えられた六畳間の真ん中で、荷造りや決別に、身をやつしている僕の回想劇。
僕の僕による僕の為の僕が僕たらしめる葛藤劇。
思い出の包装劇。
《1》
『やる気~スイッチ君のは何処にあるんだろぉ~』と、歌い謳ったテレビCMを昔見た。「自分のは何処にあるんだろう」なんて戯れに思ったりした。
当時、何に対してのやる気を求めていたのかは思い出せないが、今となっては、まあそれなりに生活に刺激が欲しかったんだと思う。それも漠然とそう思っていたのだろう。だから何か突拍子のない事が起これば全てスイッチかも、なんて思ったりした。手当たり次第押しまくった。もちろん、ロボットなんかじゃない以上、そんな物理的なスイッチを探したわけじゃない。あくまで感情的なスイッチを探した。感覚で手探った。
結果からして当然ながら、愕然ながらそれは見つからず、そのテレビCMも見なくなった。探す事もしなくなり、そして次第に忘れていった。
しかし、初めて不本意にも本当に僕はロボットだったのかと勘違いするくらいに、体の何処からかスイッチ音がした事があった。あの日、あの時にその音はした。
その写真の左端に写る一人の教師が、あの日僕に放った言葉。
『あんた何やっても中途半端じゃない』
その言葉の後に続いて何を言われたかは覚えていない。当時の僕も何も聞こえなくなっていただろう。自分のどこからか突然鳴ったスイッチ音で、スイッチONで、脳内は反響を繰り返して止まなかった。その言葉は脳内で何度もバウンドし続けて、その当時の喜び、悲しみ、悩み、何から何までも弾き飛ばして、端に寄せて、脳内の真ん中に大きな空間を作った。さながらドーナツの様だった。
《2》
当時、中学生ながらに色々と自分について悩み出していた。中学生という思春期真っ只中だからこそ、今以上に全ての悩みに一つ一つタイマンで悩んでいた時期。怠慢にできなかった時期。
そんな僕に対して、その言葉は音として僕の耳から脳内に入り、どこかにあったであろう僕の中のスイッチを押した。そして、その言葉の音とスイッチ音は僕の脳内で反響し始めた。まるで乱痴気騒ぎ。しかし、その二つの音は脳内においてぶつかる事もなく、劣るも事なく、絶妙にバランスのとれた音で反響し続けた。
随分と腕の優れた音響PAが自分の脳内にはいたもんだ。ナイスMIX。だけど少しリバーブとディレイがかかりすぎているなぁ。文句を言いたくてもどうやら既にPA卓から席を外しているらしい。うんともすんとも言わない。いるよなぁ、こういうPAさん。結局自分が気持ちよければよくて誰かに意見されるとすごい態度悪くなるタイプ。なんて言っている間に、おいおい、本当にシャレにならないくらい反響が止まないぞ、リバーブとディレイのつまみフルテンにして席外しやがったか?下手したらこれハウるぞ!おーい!誰かこれなんとかしてくれー!ダメだ、もう声なんて届かない程にハウッてるぞ!だんだん自分の声すら自分で聞こえなくなってきてる!おーい!誰か!おーい!
そのおかげでそれ以降何を言われたのかは聞こえなかった。今でもかすかにハウリングし続けている。
まあそのスイッチ音は僕にとってスイッチONだったのかスイッチOFFだったのかは実のところ今でもわからない。一つ確かなことは、決してその言葉で奮起して鼓舞された自分はいなかったし、かと言って阻喪して消沈した自分もいなかった。さしずめいろんな悩みにバタバタしていた自分の両肩を力強くガッ、と掴まれてその場に停止させられた気分だった。コメディーアニメなんかによくある、足が地面に埋まってしまうくらいに。
降り止まない悩みは僕にひたすら直撃しては跳ね返って足元に落ち続け、尽きない悩みが混ざった酸素で息をし続けた。その場で対局も退却も奪われたのだ。それはもちろん、息苦しかった。生き苦しかった。
結局その言葉を皮切りに張り詰めていた糸みたいなものは切られた。肩の荷が降りたというより、ただただ肩の力が全て抜けた感覚を覚えた。ハンガーに掛けられていたTシャツがハンガーから落ちた感じ。何かに縛られることは無くなったが、同時に支えごと無くなった。タイマンは怠慢になっていき、悩める悩みにも悩み切れずに引き摺りながら日々を過ごし続けて気付けば磨耗していき、最早これが何の悩みだったのかも思い出せなくなったので捨てた。しかし解決とはいかず、成仏とはならず、いつまでも何かに悩んでいる感覚だけが脳内に残り麻痺状態になった。
うんうん、という事はつまり、これは完全にスイッチOFFである。
しかし先述したような阻喪や消沈というよりは、何も思わなくなった、という方が的を射ている。勝手に増える悩みをとりあえず手に抱えて、口で頬張って、咀嚼をして、こぼれたものは拾わなかった。それこそ粗悪品のロボットよろしく、感情がないままにこぼれた自分の悩みを蹴って、踏んで、跨いで歩いた。
二十一歳になった今もなお、多少なりともその状態は続いている。とは言っても、当時よりはもっと思う事はあるし、喜怒哀楽その他の感情もしっかりある。ただその言葉は完全に僕を無機物にしただろう。
というより、単純にスイッチOFFになる前の僕は青かったのである。青二才である。いろんな物事に漫画の登場人物かのようにわざと大げさに悩んだりして、それがどこかかっこよく思えていたりして、悩みを一つ一つ解決していく自分の奮闘劇を本当に無意識的にではあると思うが演出していたのだろう。何が奮闘劇だ。最早、喜劇で、悲劇だ。
つまり、本当の意味で解決するつもりなど恐らくなかったのだ。悩み自体は偽物じゃなく本当に自分から湧いてくる本物の悩みだった。それをいい事に、隠れ蓑にして自分の日常を取り繕って、なんとなく斜に構えていたのかもしれない。だからこそ、それを見破られた時、喝破され、完膚無きまでに看破された時、身動きができなかったのかも知れない。それでも本物の悩みはこれでもかと湧いて出てきて、本当の悩み方を知らない自分は埋もれていった。
まあ要するに『現実』とやらを見たのだ。現実を見る前の自分は何も知らずに何も知ろうともしないままに知ったかぶって生きていたのだ。
それは『青春』ってやつだったのだろうか。
いや、そうだとしたら『青春を謳歌』なんて随分アホの所業である。若気の至りと青春は違うのだ。
若気の至り。詰まる所、若さ故の過ち。犯した過ちを、若いからと言ってなんでもかんでも青春と呼んで肯定するのは、流石にご都合主義にも程がある。過ちは過ちだ。若くても、大人でも。だとすれば僕の場合は若気の至りである。
考えてみれば、なんで青い春なんだよ。僕の春のイメージは緑だ。まあそれに関しては中国古来の陰陽五行がナンチャラカンチャラとか諸説はあるらしいのだが、ここは日本で、僕は日本人だ。青信号だって緑だし、青リンゴだって緑だし、青汁だって緑だ。
閑話休題。それはさておき、現実とやらを見た時に自分が行き着いた答えは、
「これが大人になるって事か」だった。
まったくもって青い。
明からさまに青い。赤らさまに青い。
そして白々しい。
《3》
先生による例のお叱りの言葉は、言葉そのものは忘れていたにしても先述した通りハウリング音はずっと反響していた。そのハウリング音さえ脳が感知しなくなるくらいにずっと反響し続けていた。
だから今回みたいに何かがきっかけですぐにその記憶が蘇る程、僕の中にはあり続けた言葉だった。音だった。
思い返してみればその通りだ。当時の先生は具体的に何について中途半端と言ったのかはわからない、というより聞きそびれたのだが。はたまた抽象的に言っただけで具体例は挙げなかったのかもしれないが、その言葉を言われるまでの僕も、それ以降の僕もいろんな事が中途半端だった様に思う。
例えば、何かを始めるにしても中途半端。
ギターを弾ける様になりたいと思った事のある人は世の中にどれくらいいるのだろう。
大抵の人はギターを手に入れたのに思う様に弾けなくて(Fコードが弾けなくて)諦めて部屋のインテリア、もしくは押し入れの雑多の一つだろう。僕もその例外ではなかった。しかし僕に違うところがあるとすれば、思う様に弾けないところまですら弾かなかった、と言うところだろう。何となくやりたくて、何とか手に入れて、弾いてみて、楽しくて、まだまだ弾きたい、全然飽きない、と思っているのにも関わらず弾かなくなった。
大人気王道少年漫画みたいに絶賛絶頂全盛期に最終回を迎えるのが、惜しまれながら終わるのがカッコいいとは思うが、別にそれを真似たわけではない。
いや、終わらせる事すらしていないのだ。「始めようと思えば今からだって始められる」と思い続けている。諦めることもしていないし、挫折もしていないし、幻滅もしていないし、絶望もしていないし、失望もしていない。なのに始めることはせず、忘れることはする。忘れた事すら忘れている。
例えば、物を大事にするにしても中途半端。
小さい頃親にねだってやっとの思いで念願叶って買ってもらったおもちゃ、ぬいぐるみ、ゲームにしても、おもちゃは壊れた覚えはなく、楽しく遊んでいたのに、記憶のページを一枚めくると急に遊ぶものがなくて手ぶらで暇そうにしている自分がいる。
ぬいぐるみは、ご飯を食べる時は膝に乗せて食べて、一緒にテレビを見て、お風呂は脱衣所で待っていてもらい、寝るときは必ず抱きしめて一緒に寝た。我ながら可愛い子供ではないか。今僕の目の前にいたら頭くらいは撫でてあげよう。(子どもは嫌い)
しかしいつの間にか、そんなぬいぐるみを失くして、失くしたことも忘れて、忘れた事も忘れてしまった。
我ながら最悪な子どもだ。今僕の目の前にいたらそこにいる事に気付かないふりをして目の前から消えよう。(だから子どもは嫌い。しかもその子どもが僕だなんて最悪)
ゲームに関しては回想など交えずに結果だけお伝えしよう。エンディングを見た事なんてありません。
例えば、人間関係にしても中途半端。
仲が良かったと思える人は、正直いない。最初から人との関わりを避けて絶っていた小学生時代が僕にはあった。それにはそれ相応の理由があってのことだったが、このままではいけない、と自分を戒めて、中学生になる時、晴れて中学デビューをした。少なからず最初の内は仲良くなりたいと思い近づいて、数日会話を交わし、遊び、グループに属したことはあった。しかし、途端にその周りの人への興味がなくなり、急に会話を避けた。視線を逸らし続けて、誘いには適当に「うん」と返事をしてバックれ続けた。もちろんどんどん僕を見る視線が悪いものになっていき、どんどん僕を見る視線すらなくなっていった。さながら小学生時代の様に。
喧嘩をしたこともなければ、誰かと肩を組んだこともない。色々な陰口、噂も広がり続けたが、その声すら全て気にならなかった。しかしそれでも学校に通い続けた僕に「図太いね」「曲げないね」なんて声もあった様だが、全てはずれである。
僕は何でもないのだ。
小説などに出てくる、悟りきって、悲観して、全てを避けて何も始めないネガティブキャラならまだしも、僕は始めている。そして放置している。腐らせている。
釣った魚に餌を与えずとはこの事だ。この場合、釣ったのも釣られたのも、与えないのも与えられないのも、全て自分なのだが。
きっと、先述した思春期真只中の悩みに一生懸命悩んでいるフリをして斜に構えていた、という時期が終わるのも時間の問題だったのだろう。先生に例の言葉を言われなくても同じ様に放置して腐らせていただろう。
そんな感じで僕には昔から大事にし続けている事も、物も、者もない。現在進行形で無い。あったとしても、既に失くしてしまった。亡くしてしまった。
逆に言えばそんな僕を大事にしている者も当然いない。大事どころか、昔から今に至るまでの僕を知ってくれている者もいない。見ていてくれている者もいない。
中途半端。
上でも下でもない。大でも小でもない。強でも弱でもない。『中』。
否、最早『中』にもなり切れない、半端者。
中途な半端ではなく、中途すら半端な中途半端者。
《4》
まあそんな事を思い出してすっかり荷造りの手が止まってしまっていた。
いやあこれは参った。部屋の片付けをすると漫画を読み始めたり昔のゲームを始めてしまったりでまったく終わらない、むしろ散らかる一方だ、なんてよくいうけれど、荷造りってそれ以上に終わらないものだと気付いた。
それはそうだ、片付けをしているわけじゃなく、方を付けているのだ。これまでのあれやこれやに。
別に今まで使っていたわけじゃないのにいざ方を付けるとなると、ダンボールから出したり入れたりの繰り返し。本当に必要な、つまりこれからも使う事が必須な物は既にまとめて新居に持って行ってある。本当に使う、今必要な物なんて、人間実際はそんなに大してないものである。それ以外のものは「不安だから」や「もしも」、で増えていってしまう。だから本当に必要な物をまとめた時、案外少ない事に気づいて引越し屋を呼ぶのをやめた。これなら僕の車で持っていける。後ろの席をフラットにすれば結構積める。詰めれば積める。しかしそれで全て持って行っても使わない物は結局ダンボールから出さずに、とりあえず部屋の片隅に重ねて置いておくのが関の山だ。そのまま放置されるに違いない。それこそ中途半端に。だからちゃんとここで方を付けよう。
白黒付けよう。
気持ち的にも、その方がいい。
では、ここまでの回想劇を見せてくれたその写真はどちらに入れるか。持っていく箱か、そうでない箱か、白か黒か。
その写真が入った先は、そのどちらでもない。
クローゼットの中だった。
その六畳間に設けられた二つのクローゼットの内の一つ。一つは僕が両手を広げられるほど大きく、もう一つはその半分の大きさである。
昔はこの二つのクローゼットは親に使われていて僕の物は入らなかったのだが、中学生の頃、思春期、反抗期が全盛期だった勢いで親に文句を交えた抗議の末、半分の大きさのクローゼットを勝ち取った、譲り受けた。
このクローゼットを含めてこの部屋は、六畳間から六畳間『強』に昇格した。否、『強』という程には控えめに言っても大きくないその小さなクローゼットを自分の部屋に足し算するなら、六畳間『中』と言ったところか。
おみくじの「大吉」「吉」「凶」以外に、
「中吉」があるというのだから、『中』をおみくじの順位同様に、大きさの表現の一つに使うのは間違えではないだろう。
ちなみにおみくじの順番は、
「大吉」ー「吉」ー「中吉」ー「小吉」ー「末吉」ー「凶」が一般的らしい。
え、『中』って減点側なの?
否 、そうではなく、そもそも真ん中だと思われていた「吉」が実はかなり上位なだけなのだろう。この順番が曖昧にしか知られていないから「吉」で喜ぶ人は少ないし、「中吉」「小吉」「末吉」に至ってはよくわからない感情になる。
なんならこの3つの内どれかが出た時はなんだか腑に落ちなくてもう一度この場で引き直そうかと思う程だ。世間は「吉」でもっと喜ぶべきなのだろう。
しかし神社によっては順番が異なる場合もあるそうだ。なんだそれ。結構デタラメだな。
そもそも神様という存在そのものが抽象的でデタラメだ。何かを怖がればお化け、妖怪の類になるのだろうし、その何かを信仰すれば神様になるのだろう。
結局そんなものだ。状況と心境と見える角度が違うだけで「興」にも「恐」にもなる。
「強運」か「凶運」かなんてのはそんなものだ。
だから僕は、昔から神様には祈らない。祈るとすれば、自分に祈る。そもそも神様が人間の味方であるとは限らないだろ。悪魔を嫌い、神様を好む人間。その神様が人間を悪魔扱いしているかも知れないじゃないか。もしそうだとしたら、それを知った人間は「謀ったな」と声を上げて、神様を悪魔呼ばわりするのだろう。そして新しい神様を探す。馬鹿馬鹿しい。
おっと、話が脱線した。荷造りは過去の記憶がたくさん出てくるから懐かしくもあるが鬱陶しくもあるなぁ。
閑話休題。
そのクローゼットの中に写真をしまう事にした。実は、このクローゼットに入る程度のものなら置いて行っても良いと、母親が譲ってくれたのだ。
最初は荷物の整理をする時、『持っていくもの』と『持っていかないもの』ではなく、『持っていくもの』と『捨てるもの』で分けていたのだ。しかし、先述した通りただでさえ荷造りは片付けとは違って時間も手間もかかるというのに、『持っていくもの』に対して分ける対象が『捨てるもの』である。
何故そこまで極端だったのかと言うと、中途半端だった全てが一気に出てきたからだ。家具から何から全て空にするのだから当然だ。
失くした物が出てくる事で、それに対する当時の思いも湧いて出てきてしまった。
良き思いも、悪しき思いも、思い出してしまった。
それだけで無く、その全てがまだ微かに息をしている状態で出てきたのだ。湧いて出てきたあの頃の思いすら、まだ微かに温度のあるままに、出てきてしまった。
守れなかった約束も出てきてしまった。
心が一気にグシャグシャになった。
これがどう言う感情なのかわからない。何て名前なのかもわからない。嬉しいのか悲しいのか寂しいのか腹立たしいのか、はたまた怖いのか。
わからない感情で一気に心がグシャグシャになった。
しかしもう放置できない。再び失くそうにもこの部屋に失くせる場所がもうない。隠せる場所もない。無くなったのは死角だ。もう失くせない。
それなら、と一気に抱え込んで捨てる箱に一気に詰め込んだ。グシャグシャの心の様に、グシャグシャになるほど詰め込んだ。これでもかというほど詰め込んだ。息の根を止めてやろうとした。その時の僕はどんな表情をしていただろう。想像もできない。
そんな僕の表情を唯一見たのは部屋の外にいた母親だった。そしてそんな僕を見兼ねた母親が、このクローゼットを一つ僕に残してくれたのだ。
「生きる上では、白か黒かで判断できる事ばっかりじゃなくて、むしろ白か黒かで判断できない事の方が多いんだよ。みんなどれが正解か、何が正しいか正しくないか、わからないまま生きている。選ぶ時に正解だとわかって選べる事なんて滅多にないよ。選んだからには正解だと信じているし、正解だと信じようとしているのよ。もしくはこれからそれを正解にしようとしているの。だから、白じゃなくても黒じゃなくてもいい。これからそれを少しずつでいいから白黒つけていきなさい。いや、白黒つけようとして行きなさい。白黒つけようとして生きなさい。このクローゼットに私達は手を付けない、またいつかこのクローゼットを開ければいい。一先ずそれで良いんじゃない。」
そういうわけで、僕は一度分けた、無理矢理に無茶苦茶に滅茶苦茶に破茶滅茶に、強引に豪快に傲慢に分けきったダンボールの中身を全て出して、その小さなクローゼットにしまっていったのだ。クローゼットの中でダンボールの中身をひっくり返して出すなんて無粋な真似はしなかった。もう一度一つ一つ自分の手で取り出して、一つ一つ自分の手でクローゼットの中に閉まっていったのである。
そうはいっても、全部を裸のままでしまうなんてしていたら入りきらなくなる。僕の中途半端加減をなめてもらっては困る。少なからずクローゼットの一番奥にしまった箱の中には、沢山の物が入っている。臭い物に蓋をする様に。
捨てるに捨てられないけれど、なるべく見たくもないものもある。向き合いたくない、目を伏せたい物もある。
例えば、御守りであるあの小さな人形とか。いつか向き合える時が、来るのだろうか。
そして件の写真をクローゼットの中にしまった時に気付いた。
しまってきたそれら全ての物は、しまっている、というより、並べて飾っているといった方が言い得て妙なほど綺麗にしまわれていた。
さしずめ、六畳間『中』の部屋の物が全て『中』に詰まったように。そこはまるで小さな僕の部屋の様だった。
これで良かったのだろうか。この荷造りで今までの自分を消し去ろうなんて思っていたけれど、結局できないのか。どこまでいっても中途半端なのか。
消し去る事は出来なかったけれど、ピリオドを打つくらいの事は出来たのかな。それなら良しとしようか。
これまでのいろいろな想いが重いほど染み込んだ大切な過去達に「行ってきます。」と告げて、その小さな部屋の扉を閉めた。
こうしてやっとの事、綺麗さっぱり空になった六畳間が残った。戯れにその六畳間の真ん中に大の字に仰向けになって寝転がってみたりする。映画やドラマで家を引き払う人がよくやるワンシーンだ。空になった影響で、壁に掛けてあった時計の秒針の音が反響した。その音で時計だけこの部屋に残したままだと気が付いたが、まあいいか。この時計にはこの部屋の時間をこれからも刻んでもらおう。
天井を見つめる。目に映った天井には、小さい頃顔に見えて少し怖かった模様、なんてものはない。そこまで映画の様にはいかない。しかし、そのかわりに天井にはポツンポツンと小さい何かがくっ付いているのが目に映った。一瞬ではそれが何かはわからなかったが、それが何かわかった時には目の前が大洪水になる程一気に涙が湧き上がってきた。
仰向けになっているから、体を起こしている時とは違って涙は一度、目一杯に満タンになって表面張力状態になり、瞬きを皮切りに、一気にその目から溢れる形で流れた。
《5》
あれはシールだ。
僕には兄がいて、小さい頃に兄と二人でこの部屋を使っていた時に二段ベッドを置いていた。二段ベッドの下が兄、上が僕の寝る場所だった。
どういう経緯で僕が上になったのかは覚えていないが、上をやたら羨ましがった兄がよく上がってきて二人で僕の布団の上でおもちゃや本を広げて遊んでいた。
その本に付いていたキャラクターのお気に入りのシールを、近かった天井にペタペタ貼って、夜眠れなくなった時も、怖くて泣きそうな時もこのシールを見て耐えていた。そして兄も同じ様に天井では無く二段ベッドの二段目の裏側にシールを貼っていた。
もちろんそのベッドはもうとっくになくなって、少しずつ思春期になっていくにつれて兄とは折り合いがよくなくなり口を聞かない日々。言い争いこそしなかったが、言い争いになる前に僕が興味を失い、会話をする事をやめた。本当に人として兄と僕は合わない人間なのだという事がわかり、気にすることもなくなって、気付いたら兄は家を出ていた。
今は結婚して子どもも生まれて幸せにやっている様だ。
兄の分のシールはベッドと一緒にもう捨てられたが、僕のシールはまだあそこでずっと僕を見ていたんだなと、その時に気付いた。二段ベッドは愚か、ただでさえ空になった部屋だ。もうあのシールには手が届かないから剥がすことはできないけど、剥がす事はしなくていいだろう。
『昔から今に至るまで僕をずって見てくれている者もいない』なんて言ったけれど、あのシールはずっと見ていたのかも知れない。それこそ失くした物の在りかから全て、見ていたのかも知れない。
これから先の事に不安はある、恐怖もある。むしろ楽しみな事よりそっちの方が多くある。
けれども最後に、戯れにこうして寝転がった事にすら何か運命的な意味合いを感じてしまう程に、最後の最後まであのシールには勇気付けられてしまった。
走馬灯の様に家族との事やこの部屋での事を思い出して、声は出さずに涙を流した。
そして、思いっきり両手で足の太もものあたりをパシン!と叩いて、「よし!」と放ったところで一気に体を起こしてその勢いのまま立つところまでいった。
本当に良い思い出だった。
ゆっくりその部屋のドアに向かって歩きその部屋を出て、振り返ったところで一言、
「ありがとう。」
そう言ってゆっくり扉を閉めた。もしかしたら、その扉の閉まった音は、スイッチONだったのかも知れない。
そして階段を降りて、リビングにいた母親が僕を見るなり、ほんの少しだけの間を空けて、ニコッとした。
「終わったの?もう行くの?」と訪ねる母親に「うん」とだけ言った。
「うん、頑張ってね。またね、気を付けて、いってらっしゃい。」
その母親のおぼつかない言葉にはきっといろんな思いがあっただろう。見送るにしてもいろんな感情で一言にはまとめられず、そのいくつかの言葉は出て来たのだろう。
考えてみれば母親だって僕をずっと見ていてくれていた一人ではないか。だからこそ、何も言わない僕の表情だけで、あのクローゼットを譲るというベストな方法をくれたのだろう。
僕は「うん、ありがとうね。」とボソッと言って、それ以上会話が続かない様に、すぐに靴を履いて家を出た。
別にもう帰ってこなくなるわけじゃない、海外に行くわけでもない。ただそれでも、出戻りはしないと決めていた。
どれだけ遠くても近くても、育った家を出るというのはそれだけとても大きなピリオドなのだろう。
僕はそのまま車に乗ってエンジンを掛け、車の中から自分の部屋の窓を眺め、家を眺め、涙をこらえてアクセルを踏んだ。
その空になった六畳間の部屋に、『中』を残して。
【間】
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