⑤ ねこちゃんと彼のドキドキ生活

 マンションに帰ってきて、すぐに星崎さんはあたためたミルクを出してくれた。

「とりあえず、飲んでみる?」

 底の広いお皿に出されたそれをなめる。

 ちびちび。

 実は、ショックであんまりお腹空いてないんだ。

「小さいのに遠慮深いね」

 優しく微笑んでくれる星崎さんは、いつものままなのに。

 どうしよう。わたしが帰らなかったらまた、ものすごく心配かけちゃう……。

 そう思ったら、なんだかお腹がいたくなって、ふらふらしてくる。

 それがわかったのか、星崎さんがそっとわたしを抱き上げる。

「夢未」

 びくっ!

 頭からしっぽまで、毛が逆立つのがわかる。

「……なんていう名前はどうかな? 君に」

 な、なんだ……。

「一緒に暮らしている子の名前なんだ。君に少し似てる」

 星崎さんが、わたしのことを話してる……。

 そう思うだけで、荒波がゆるやかになるように、落ち着かなかった気持ちがすっと、鎮まっていく。

「どんな子かって? じきに帰ってくるからわかるよ。きっときみも好きになる。そうならずにはいられないような子だからね」

 星崎さん……。

 たまらなくて、わたしはカレのシャツにしがみ付いた。

「傷ついて、雨に濡れた捨て猫。それでも行きかう人が濡れないように心配してるような。夢ちゃんはそういう子なんだ」

 人差し指で頭をなでてくれながら、星崎さんはじっと、わたしを見つめてる。

「もう、君が雨風にさらされるのを見るのは、つらいんだよ」

 ささやくように言われた言葉に、胸がきゅんとしまる。

「君は大切な子だってこと、そろそろ、わかってくれ」

 思いだすのは少し前、お父さんの家に一人で行ったときのこと。

 ごめんなさい。星崎さん。

 もう、心配かけないから……。

「君からも言ってあげてくれる? 猫さん」

 星崎さんはわたしを抱いてそのまま、隣の部屋にお仕事に向かった。

 こちら、メルヒェンガルテンの、ギムナジウム。

 マーティンの部屋にいる、猫になったももです。

 じーっ。

 マーティン、そんなに見つめられると。

 そうかと思うと、切なげに、カレは言った。

「ごめん、猫くん。僕はどうしてもこの欲求を押さえられそうにない」

 どきっ。

 え、なに? どういうこと?

 マーティンはささっとあたしを、ベッドに運んで――。

 そ、そんな。さすがに、困るよ、あたし――。

 彼はじっとあたしを見つめて。

 ……画用紙に向かって絵を描き始めた。

 ずてっ。

 鉛筆で、頭をかくカレ。

「なにかが足りない。もっといい表情を引き出したいな。――そうだ」

 マーティンは窓辺に走って行って、外からなにかをとってきた。それは――ねこじゃらし?

 それを、あたしの周りでぴょんぴょん動かす。

「捕まえられるか?」

 ちょっとねこじゃないんだから!

 って、今ねこだった!

 これは、喜んだ方がいいのかな?

 あたしは必死で、マーティンが上下させるねこじゃらしをつかまえにかかった。

 これでも運動神経には自信あんだから!

 あっちにぴょん、こっちにぴょこ。

 でも彼はそのたびうまくかわして、

 はぁ、はぁ、やるな、意外と難しいぜよ。

 もうへとへと~。

 すてん、とその場にしゃがみこむ。

「あははは。ごめん、からかいすぎた」

 やれやれ。

 温かいストーブの前に移動して、少し休憩。

 おっと。

 今度は持ち上げられちゃった。

「そこはダメ。制作途中の絵なんだ」

 あ。これは、失礼しました。

 キャンパスの上に寝そべってたんだね。

 どーれ、今度はなにを描いたのかな?

 ……!

 きれいな、大人の女の人の絵だ。

 白いシンプルなワンピースに七色の光が反射して、すごくきれい。

 見惚れていると、マーティンはちょっと顔を赤くして、

「僕の大切な人。未来のもも叶はこんなかなって」

 えっ。

 これがあたし!?

「まだ、本人にはひみつだよ。……美人に描いたつもりだったんだけど、なかなかうまくいかなくて」

 ……十分だよ。

 あたしはマーティンの身体を登って行って――。

「! あはははっ、くすぐったいよ」

 その顏にすりすりした。

 塾によってテストの採点を片付けたかみやんに連れられて帰った、一人暮らしのその部屋は、なかなかにひどい状態だった。

 机には塾で使う問題用紙やら書類がいっぱい。キッチンにも食器やタオルがむぞうざに置かれてる。

 これだから男の人はっ。

 キャットフード買ってくるから待ってろと、カレが出かけると、あたしはさっそく片づけを始めた。

 キッチンにちらばった布巾を棚に。

 そのへんに積んである参考書、教科書はきちんと並べて本棚に。

 書類は空のファイルに整理。

 ふー。こんなところかしら。

 それにしても、身体が小さいと大仕事ね。

 数十分で戻って来たかみやんは、部屋を見渡してびっくり。

「ねこはきれい好きって言うけど……まさかだろ」

ふふん。見たか。

「そこまでしてくれるって、さてはお前、オレの奥さんになりたいのかー?」

 どきっ。

 そ、そりゃ、なりたいけど。

 って、またっ。顎をくすぐらないで。そこ、弱いのっ。

「きゃーん」

 くすぐったくて声がでる。

 上から、とっても優しい声が降ってくる。

「悪いな。その席は、もう予約済みなんだよな」

 どきっ。

「そんじゃ、ちょっと待っててな。またすぐ相手してやるから」

 キャットフードを出してくれた彼は、バスルームに向かった。

 しばらくすると、シャワーの音が聞こえてくる。

 それだけでなんだか恥ずかしい。

 ちら、と横目で見ると、バスルームの扉に、彼のシルエット……。

 きゃっ。だめよせいら、いけないわ。

「あ、やべ、またやっちまった。タオル出すの忘れてた」

 なぬ?

 女の子がいるところで、そういうこと忘れないでよ!

 だ、だいたいおおちゃくなの、かみやんはいろいろと――!

 心の中で小言を言っていると、きゅっと、シャワーが閉まる音がする。

 えっ。

 こっちにくる?!

 ちょっと、まってよっ!

「にゃ、にゃーっ!」

「え? なんだ。ご飯足りないか?」

 だからこっち来ないでってば!

 バスルームに通じる扉の上に少し隙間が開いているのに気づいた。

 箪笥に駆け寄って、タオルを探す。彼のことだから、大きいタオル一枚でささっとふくんだわ、ととっさに判断して、バスタオルを選ぶと、口にくわえて、渾身の力で扉の上に放り込んだ。

 扉越しからは、呑気に感心した声。

「すげー。ほんと、よくできた妻っていうか、お前、せいらみたいだな」

どきっ。

またそういうことをさらっと言う。まったく、こっちの気もしらないで。

「早くいい飼い主さん見つけろよ。あいつのこと、あんま焼かせらんないからさ」

再び響き出したシャワーの音にほっとして、ちょっぴり、幸せになった――。

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