② おまじない消しゴム事件
次の日、あたしはいつものように奥付駅前の学習塾で、授業が始まる前に予習してきたノートを見ていたの。
えっと、そう。今日の歴史の授業は明治維新についてだったわね。
あっ、いけない。あたしとしたことが、間違い発見。
敬愛する坂本竜馬様の漢字を間違うなんて!
『竜馬』の『竜』が『龍』の字になってる。
我ながら苦笑いしちゃったのは、間違えた『龍』の字が、好きな人の名前にある字だったから。
そうそう。昨日の夜は家の窓から見える秋の月がきれいで、ついついロマンチックな気分になって……勉強しながら彼のことなんか、考えちゃったのよね。
『明日の授業は頑張るわ! もともと大好きな歴史の上に、特に好きな時代のところ。それも好きな人がする授業を受けられるなんて、せいら幸せ~』
なんて独り言まで言っちゃって……。
あら、もしかして大事なこと言っちゃった?
そう。あたしの好きな人は、塾で社会科を受け持つ、神谷龍介先生なの。
かみやんって呼んでるのはあたしだけじゃない。みんなに親しまれてる。
かっこよくて授業がおもしろいだけじゃなくて、誰とでも気軽に話せる感じ。そんなところがいいのよね。
なんて、うかれてる場合じゃないわ。あと三分で始業じゃない。
あたしはあわてて消しゴムをつかむと、ごしごしと間違いを消した。
ちょっと焦りすぎたのがいけなかったのかしら。
勢いあまってぽろっと、消しゴムが机の上から落ちてしまったの。
たくさん使って小さくなっていた消しゴムは、転がった拍子に簡単に星柄のケースから飛び出て……。
まずいわっ。あれを誰かに見られたら。
すぐに席を立って追いかけたけど、拾おうとした寸前、別の手がそれを拾い上げたの。
「ん? なんだぁ。ちっせー消しゴム~」
それがよりにもよって、学習塾一のお調子者の男子。
さらに悪いことに、テストでいつもやたらとあたしをライバル視してくるやつなの。
「返してよっ」
「なんだよ、せっかく拾ってやったのに。ん? あれぇ、赤い字でなんか書いてある」
男子がまじまじと消しゴムをかかげて――。
「あっ。イニシャルだ! これ知ってる! 女子のあいだで流行ってるやつだろ? 好きな人のイニシャルを書いて、ラブラブになるんだ~!」
寒気がしたわ。
男子ってなんでこう、人が知られたくないことを、よりによって教室中に響く大声で言うの……!
「返しなさいったら!」
「もう見ちゃったもんね。みなさん聴いてください。露木に好きな人発覚! いつもテストで一番なのをいいことに、男なんてみんなバカよ~って感じなのにな」
おのれ……!
そういうことは、テストであたしを一度でも負かしてから言いなさいよっ。
いつもならそうお返しするところだけど、今ばっかりは手も足も出ない。
みんなも注目してるし。
どうしよう。このままじゃ。
「それでは~、発表します! 露木の好きな人は――」
もうダメ。
みんなに知られる――っ。
そのとき、ガラガラっと、教室の扉が開いた。
扉に凭れ掛りながら軽く笑って、男子をにらんでいるのは――彼。
「こら、桔平。チャイム聞こえなかったのか」
ところが、田坂桔平というその男子は、大人しく席に戻るどころか、ますます大きな声をあげたの。
縛り首の刑に値する、一言を。
「わーっ。露木の愛しい人が現れた~」
とたんに、教室はわっと大騒ぎ。
でも彼はちっとも慌ててない。
やれやれって肩をすくめただけ。
「静かに。桔平、根も葉もないことで人をからかうな」
「かみやん、嬉しくねーの」
「友達を困らせて、先生ばっかり喜ばせてどうする」
言葉とは裏腹に、本気で叱ってくれてるのがわかる。
「せいら、大丈夫か」
いけない。あたしとしたことが人前で涙ぐんでるみたい。
かみやん。気遣ってくれるのは胸キュンだけど、今このタイミングはまずいわ。
「かみやん。露木が好きだってわかっちゃったんだから、返事してあげれば~?」
ほら。ますます田坂が調子に乗る。
みんなもざわつきはじめて、とても授業どころじゃないわ。
それなのにかみやんは少しも困った顏をせずに、それどころか微笑んで、席に戻ったあたしに言ったの。
「せいら、そうなのか?」
優しげな目を見ていられなくて、目を伏せた。
心の中で激しくつっこむ。
そうなのか、じゃないわよ!
何度も好きって言ってるでしょっ。この前の夏、奥付でデートしてくれたときだって!
それに、今そんな確認されて、肯定できるわけが――っ。
「桔平、しつこく言うからにはなんか証拠でもあるのか」
かみやんのばかっ。
そんなこと訊いたらやぶへびじゃない。
案の定、田坂は嬉々としてあたしの消しゴムを彼に見せた。
じっとそれをしばらく見つめたかみやんが、ぽん、とそれをあたしの机に置いた。
そして、言ったの。
いつもと変わらない、なんてことはない調子で。
「なーんだ。期待して損した。これは証拠にゃならん。RKってイニシャルが書いてあるだけだろ。こんなの奥付にだって何人いると思ってんだよ。栞町にだって、学校にだって芸能界にだっているだろうよ。怪盗ルパンかもしれないじゃないか。もしくは……リラックマの可能性すらあるぞ」
いくらなんでもそれはないだろうって、みんなが笑う。
ルパンのイニシャルも正しくはLだったと思うけど、そんなこと誰も気付かない。
「なんだよ、またもやふられたみたいなこの感じ」
肩をすくめて落とされたかみやんの言葉に、凍りついた教室の空気が一気に流れ出す。
またもやっていうのは、かみやんは少し前まで婚約者として噂だった泉先生のこと。ほんとうは婚約を解消したのはかみやんなんだけど、優しい彼は自分がふられたんだってこのことをもはやネタにしてるの。単純な田坂が新しいネタに食いつく。
「そういや、泉先生、こないだ男といるとこ見た!」
かみやんもこれをうまく受ける。
「マジ。オレの次にさっそくかよ。あの人も意外とみさかいないのな」
話題は泉先生のことにシフトしていって、適当なところでかみやんが切り上げて授業に入った。
あたしは授業に集中しようとしたけど。
とうてい、いつものように没頭するのは無理だった―ー。
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