㉚ エピローグⅡ 文学の星が輝くとき

 今夜のももちゃん、マーティンと別れて残念だったけど、幸せそうだったな……。

 わたしは星崎さんのマンションのベランダで、コートを着て星を見てた。

 ちょうど真上にオリオン座が見える。

 あのずっと向こうに、星降る書店とつながってるブーフシュテルンのある空間はあるのかな。

 今日は宇宙の奥から、本の光がわたしに力を貸してくれたのかも。

「わたし一人じゃ、絶対できなかったもんね。お父さんにほんとうの気持ち、ちゃんと言うなんて」

 ぽつりと出たひとりごとに、答えが返ってきた。

「みんな本が好きで優しい夢ちゃんが大好きだから、力を貸してくれたんじゃないかな。オレはそうだけどね、少なくとも」

 星崎さんは、風邪ひくよ、と言ってあったかいミルクティーを差しだしてくれる。

「ちょっと周りに気を遣いすぎちゃって大変になっちゃうところはあるけど。優しすぎる夢ちゃんが、好きだよ」

 わたしはあったかいティーカップを握りしめた。

 みんながお父さんに意見を言ってくれたとき。

 すごく嬉しかった。

 不思議だけど。

 今、わたし、自分のこと、だめな存在じゃないって思えてるんだ。

 わたしも、大切にされていいのかなって。

「あの」

 わたしは思いきって顔をあげて星崎さんを見た。

「ももちゃんから聞いたんです。ほんとは星降る書店って、買いとりはしてないって。はじめて星崎さんと会ったとき、どうして、本を預かってくれたんですか」

 ベランダの向こうにある部屋のベッドのすぐそばの、白い本棚。

 そこにはあの日、わたしが星崎さんに預けた名作たちがずらっと並んでいた。

 星崎さんはコーヒーの入ったカップを揺らしながら答えてくれた。

「あの日、夢ちゃんが抱えてた、夢ちゃんより大きな、いっぱいに入った紙袋の中身見たら、びっくりしたんだ。オルコットとか、モンゴメリ、それからケストナー。一目で、物語が大好きな子なんだってわかったよ。売れ筋の現代作家のレーベルを読んでくれるのももちろん嬉しいけど、ああいう古典っていわれてる文学もほんとはすごくおもしろいんだ。そういうジャンルの棚の前に夢ちゃんくらいの子がじっと立ってたり、一冊選んで買ってってくれたら、その日一日得した気分っていうかさ。だからかな、応援したくなったんだ」

 それが一つと、と星崎さんは続けた。

「まだ、あるんですか?」

「うん」

 星崎さんはベランダの柵を背にしてもたれかかった。

「君がすごく、苦しいことを抱えてるのかなっていうのは感じてた。児童文学が味方になり寄り添うのはそういう子なんだ」

 わたしは思わずまじまじと、星崎さんを見た。

 星崎さんの目に、小さな星屑がいくつも映ってきらきら光ってる。

 どこまで、すてきな人なんだろう、って感動しちゃったんだ。

 そして、彼の言ってることも、わかったの。

 児童文学の、優しく包んでくれるような文章を想う。

「例えて言うなら砂糖菓子みたいなもんかな。人は普段栄養価がないって軽んじるくせに、ひどく疲れたとき、ほんとうに参ったときはそれに救われる」

 星崎さんはそう言って、コートの内側から一冊の本をわたしに差しだしたんだ。

 タイトルを見てびっくりした。

『南海千一夜物語』。

 真っ二つになるくらいぼろぼろになったそれは、青い専用のテープできちんと止められてまるで見違えちゃった。

「大好きなものに囲まれてるから、わたしは平気です。物語も大好き。それから親友のももちゃんも。それに……」

 わたしはこの本の結末を想った。

 ケアウェは、病気を治すために、瓶を一セントで買い取って、地獄へ堕ちる決心をしたんだよね。でもお話は恋人のコクアによって思わぬ方向に動きだすんだ。

 コクアはタヒチっていう島に一セントより安い、一サンチームって単位のお金が流通していることを知っていたんだ。そこでコクアはほかの人を間に挟むことで、ケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買いとってしまうの。そしたら、今度はケアウェが、コクアから内緒で小瓶を買いとる決心をするんだ。やっぱり、あいだにほかの人を挟んで。

 ここで奇跡の大逆転が起きるの。

 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買いとったその人は、お酒が欲しいって願いを叶えたくて、それをケアウェに売り渡さなかったんだ! 二人は末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし。

 今の世界では役に立つもの、自分がなにかをもらう、手段になるもの――お金なんかが、とても価値のあるものってことになってるけど。

 コクアとケアウェは、自分を好きな相手の手段にしてた。

 そういうのってすごくすてきなことだと思う。

 お金よりきれいで光り輝いてるんだ。

 そういうものの存在を感じさせてくれるのが文学なんだって、わたしは心が打ちふるえたんだ。

 星崎さんもわたしに同じことをしてくれた。

 こうして行くところのなくなったわたしを一緒に住まわせてくれてる。

「星崎さん」

「ん?」

「もし星崎さんが悪魔の瓶を買っちゃったら、それ、わたしが買います」

 星崎さんはおかしそうに笑った。

「日本には流通してないんじゃないかな」

「えっと、じゃぁ」

 わたしは言いかたを変えた。

「もし星崎さんが苦しんでたら、わたしが助けます。自分が苦しむことになっても」

「そう。ありがとう。楽しみだ」

 あっさりとそう言うと、後ろからわたしの肩を抱いて、寒いから、中に入ろうって言ってくれる。

 う~ん、伝わってるのかな? わたしの気持ち。

 いまいちな手ごたえを感じながら、部屋の中に向き直ったとき、耳元で声がした。

「待ってるからね、五年後」

 ……!

 わたしは急いで振り返ったけど、星崎さんはもう部屋に入ってしまったあとで、顔が見られなかった。

 空耳じゃ、ない、よね?

 もう一度冬の夜空を見あげると、いろんな色に光る星々の真ん中に、かすかに本の形が見えるような気がした。

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