兄弟-2-
午前中のリハビリを終え、リハビリテーション室の扉を開ける。
渡辺が来てからさらに数日が経ちリハビリを重ねたことで、かなり脚の調子もよくなってきた。
怪我をしているのが両の脚ということもあって、なかなか移動時の車いす生活は抜け出せそうにないことが残念ではあるが。
焦ってリハビリを無理するとくっつく骨もくっつかないと看護師に言われれば、おとなしくするほかない。
しかし、週に数回早瀬が見舞いに来てくれるのと、幸人がほぼ毎日顔を出してくれるのもあって案外退屈はしない。
…幸人に関しては、毎回言い合いのようになってしまうので、少し申し訳ない気持ちではあるけれど。
俺は車いすの車輪を回しながら、自分の病室へ向かった。
すると扉の前に、よく知った男の顔があった。
車いすの車輪が床と摩擦する音に気付いた男がこちらへ視線を向ける。
「た…むら」
俺は無意識にその名を呼んでいた。
眼前の男がこちらへ歩み寄ってくる。
俺は慌てて車いすを方向転換し急いでその場を去ろうとしたが、車いすの手押しハンドルを掴まれて無常にも失敗に終わった。
「露骨に逃げないでくれよ。傷つくだろ」
介助用ブレーキを握りこまれてしまっては、車いすはびくともしない。
あんなにこいつだけは許さないと思っていたのに、いざ目の前にすると脚を折られた日の光景がフラッシュバックして恐怖の方が俺の頭を支配した。
情けないことに今の俺はこいつのことが怖くて仕方がない。
「…何しに来たんだよ」
震える喉元を抑えながら、やっとのことで声を絞り出した。
「お見舞いに来たんだよ。決まってるだろ。花束まで持ってきてるのに」
よく見ると確かに左手には色とりどりの花で作られた花束が握られている。
「何なんだよ…。お前、何がしたいんだよ」
田村の顔が見られず、俺は視線を自分の太ももへ向けた。
いつも通りにんまりとした余裕の笑みを浮かべるこいつの表情が容易に想像が出来る。
「言っただろ?お前は俺にとって一番の教え子なんだよ」
田村が後ろから花束を俺の膝の上に置いた。
抱きかかえられるような形に恐怖を覚えて、腕に鳥肌が立つ。
こいつが何を考えているのか、何をしたいのか全くわからない。
俺へどんな感情を持っているのかは、もっとわからない。
小学校を卒業して中学へ上がってから、俺がこいつと接触するまでは音沙汰なんて全くなかった。
だから、俺のことなんて暇つぶしの駒くらいにしか考えていないかと思っていたのに、こいつは俺に「一番の教え子」だと言う。
そして、俺に危害を加えたのは「キュートアグレッションだ」と。
俺が小学校を卒業したことで物理的に距離が空いたのに、俺が接触したことによってこいつの中で何かあったのかもしれない。
…何かは想像したくないが。
「本当に、綾瀬は可愛いよ」
気持ちの悪いことを言いながら、田村が俺が乗っている車いすを押して俺の病室の方へ歩く。
「とめろ…!何する気だよ!」
田村を見上げて小さく声を上げたが、その声はこいつには届いていないようだった。
こんな脚では逃げることもままならない。
自分の情けなさに心底嫌になる。
所詮俺は大人の前では無力なのだと思い知らされる。
成長過程の身体では、力でもこいつには敵わなかった。
病室に入ると、田村は俺の膝に置かれた花束を棚の上へと移す。
そして、俺の身体を軽々と抱き上げるとベッドへ運んだ。
かなり背が伸びたはずの俺の身体を軽々と抱き上げられたことでまた無力感を突き付けられた。
「お前…何なんだよ、俺をどこまで苦しめるんだよ」
俺が思わず呟くと田村が目線をこちらへ落とした。
「絶対に殺してやる…。必ずだ」
さらにそう続けた俺を見て眉を下げる。
「そうそう、そうやって俺のことで頭いっぱいにしてくれ。俺のことしか考えられないほど俺を憎んだらいい」
俺は眉間に皺を寄せた。
薄々気付いてはいたが、こいつは俺に好意を持っているんだ。
それもかなり歪んだ好意を。
俺の脚を折った際に苦しんでいた俺の表情を見てうっとりとしていたこいつを思い出した。
頬をこれでもかというほど綻ばせ、心底愛おしいものに向ける顔をしていた。
「死ね、変態野郎」
俺が睨みつけながらそう言うと、一瞬きょとんとした顔をしていたが、すぐに声を上げて笑った。
「やっぱり兄弟なんだ…」
「何のことだよ」
「いや、こっちの話」
まさか、幸人は本当にこいつと話をしたのか?
いや、それなら俺に何か言ってくるはずだ。
幸人は俺に隠し事なんて一度もしたことがない。
そんなことを考えていると、突然田村が俺の左手を掴んだ。
「何なんだよ!放せよ!帰れよ!」
「この傷、そういえば村岡?」
田村が俺の左手にある無数の古傷をまじまじと見つめながら言った。
村岡とは、かつての俺の親友と言っても過言ではなかった存在である男だ。
俺へのいじめが始まると手のひらを返したかのように態度が変わった薄情者。
それどころか、むしろ喜々といじめに加担していたとんでもないクズだ。
それを考えたら、まだ先日謝罪に来た渡辺の方がいくらかマシだと思う。
思い出したくもないその名前に俺は顔を顰めた。
「関係ないだろ。そもそも担任だったんだから覚えてるだろ」
俺がそういうと、左手を掴む力をさらに強めた。
「いてえな!離せよ!」
「俺以外がお前に消えない傷を付けたのは誤算だったな…」
独り言のようにぼそりと言った言葉を俺は聞き逃さなかった。
息の仕方を忘れたかのように呼吸が苦しくなった。
恐怖心が俺を支配するのがわかる。
「その傷を見る度に綾瀬は村岡を思い出すってことだろ」
田村が俺に顔を近づけた。
瞳の中に恐怖で顔を歪めて硬直している俺の姿が映っている。
いっそ顔面をぶん殴ってやろうと右手を振り上げたが、それもいとも簡単に掴まれてしまった。
脚はまだ一人では動かすこともままならない。
両手を掴まれたことで俺の動きは完全に封じ込められた。
もう何をされても抵抗すら出来ないのかと、目をギュッと閉じたとき、病室の扉が開かれた。
「あ、先客…?」
扉を開いたのは早瀬だった。
田村がサッと俺から身を離す。
「どうも。綾瀬くんの小学校の担任してた田村です」
田村が胡散臭い笑みを浮かべて早瀬に会釈する。
早瀬も同様に名前を名乗りながら会釈した。
…最悪だ。
早瀬にまで接触されてしまった。
早瀬には田村のことは話していないしこの先も話すつもりはなかったのに、死んだ方がマシだと思えるほどには最悪なことになってしまった。
あのクソ野郎は俺の苦しむ顔を見るためならどんなことだってする。
だからこそ、渡辺にも俺の入院している病院を教えたはずだ。
もしも、早瀬に嘘みたいなことを吹き込んで
嫌だ、無理だ、そんなのは俺にはもう耐えられない。
「おい、綾瀬?」
背中をポンと軽く叩かれて、俺の喉がひゅっと鳴った。
どうやら無意識のうちに息をし忘れていたらしい。
隣を見るといつの間にか早瀬の姿のみになっていた。
「…あいつは?」
「田村先生なら、帰っていったよ。"また来るよ、早く脚治せな"って言ってたのやっぱり聞こえてなかった?」
「…聞いてなかった」
真由美さんには偉そうな言葉を羅列しておきながら、蓋を開ければ俺もこんなものだ。
己の仇を目の前にしてトラウマと恐怖が勝って息をするのも忘れてしまう。
…未だに
あんなに復讐を誓ったのに、早瀬は"どんなことがあってもお前の味方だ"と言ってくれたのに、だ。
(こんな姿、真由美さんには見せられないな…)
真由美さんからのメッセージが来ていたのは気付いてはいるが、今の状況が情けなさ過ぎて返信なんて出来たものじゃない。
出来れば、早瀬にもこんな無様な格好は見せたくなかった。
早瀬はそうじゃないとわかっているのに、やはり心のどこかで俺は「もしかしたら俺を変に思うんじゃないか」と考えている。
「なあ、綾瀬。あの先生と、なんかあった?」
早瀬が病室の端に置かれた丸椅子をベッドに寄せて腰かけながら言った。
「その傷の話してたよな?扉の前に来た時、ちょっと聞こえたんだ。聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど…。それから、両手も掴まれてたし、お前はあの先生嫌いそうだし」
心配そうな面持ちで俺の顔を覗き込む早瀬は、本当に俺のことを考えてくれているんだとわかった。
だからこそ…、こんなことに巻き込みたくない。
あんなくだらない人間と関わってほしくないと思った。
「何もないよ。先生は心配してくれてただけ。早瀬が心配することは何もないよ」
早瀬は一瞬何かを言いたげに口を開こうとしたが、すぐに横に結んだ。
そして、すぐに普段の明るい笑顔を覗かせると、俺の左手を握る。
田村とは全然違う優しいその手に肩の力が抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます