暁が「彼女」に出会ったのは、まだ彼が元服もしてない頃であった。

 行儀見習いという形で、元服していない男児が貴族の元に奉公に行く習わしがある。本来は位の高い貴族が寺で行儀見習いとして入るのが習わしだが、そこは小国。そこまで格式張ったものではなく、元服してからの仕事を早めに教えるためのものであった。

 暁もまた次期に武官として奉公するために、国司の元に通うようになっていた。

 行儀見習いとして座り方、立ち方からはじまって、立ち振る舞い、侍としての心得、必要最低限の読み書きをこなしたあとは、同じような行儀見習いたちと広い中庭で蹴鞠けまりをしてから帰る。そんな日が何日も続いたある日だった。

 その日も蹴鞠をしていたところで、鞠があらぬ方向へと飛んでいってしまった。

「取りに行ってくる」

 暁が他の行儀見習いたちにひと言言ってから、そのまま走っていった。

 国司の屋敷の中庭は、小国に住まうどの武官の屋敷のものよりも丁寧に切り揃えられている。切り揃えられた松の間を歩いているとき、鞠を拾い上げた女性に目を留めた。

 本来、貴族の女性は肉親以外には姿を見せない。見せるのは出仕している女房や侍女ばかりで、姫君が人前に姿を見せているなんて、暁は初めて見た。

 いくら元服してないとはいえども、まずくはないだろうか。国司に怒られるのではないだろうか。そう思ったものの、鞠を持って帰らないといけないのだから、どう声をかけたものか、と考えあぐねているときだった。

 姫はよりによって暁に目を留めると、そのまま駆けてきたのだった。それには暁も驚いた。

「あら、あなたが落としたの?」

「え、あ、はい……」

 暁は狼狽して、彼女を見た。

 鈴のような声を転がす姫君は、切り揃えられたぬばたまの髪、ぽってりとした丸い唇、きらきらと輝く黒真珠を嵌め込んだような瞳と……どう見ても、小国に伝わる天女のような美しい姿だったのだ。桜色に重ねた袿を着た彼女は、暁には光って見えた。

 どうして国司の元にこんな美しい姫がいるのだろう。暁は驚いて彼女を見ていた。国司は代替わりするもので、そのほとんどは都からの出向だ。海を渡る際に事故に遭うのを危惧して、家族は都に置いてきて仕送りをする者がほとんどであった。

 なんで、どうして、と思ったものの、彼女のきょとんとした顔を見ていたら、そんなことはどうでもいいように思えた。

「はい。鞠。蹴鞠ってあんまり遊んだことないのだけれど、どうやるの?」

 そう聞かれて、暁は言葉を詰まらせる。

 姫君に蹴鞠なんて教えていいものだろうか。そもそもいくら自分がまだ元服していないとはいえど、これ以上彼女と顔を合わせていて大丈夫なんだろうか。

 しかし姫君は暁の困惑を無視する。

「最近、外に遊びに行っても誰も遊んでくれないの。仕方ないから中庭に出ているのだけれど……誰も遊んでくれないなら仕方ないわ。外にでも出て遊びましょう」

「ま、待ってください……外に出たんですか? 屋敷の中から、中庭にですよね……?」

「いいえ、外よ。今日も海が穏やかね」

 信じられない。とめまいを覚えた。

 貴族の姫は、海を見にひとりで外には出ない。世間知らずにも程があるし、怖い物知らずが過ぎる姫本人が一番怖い、と心の底から暁は思った。

 そう考えれば、彼女が外に出ないよう、中庭で蹴鞠を教えたほうがまだましだ。暁は「見ててくださいね」と言って、鞠を足で操りはじめた。

 ポンポンと小気味よく暁の足が鞠を操る。それを見て、姫君は目を輝かせた。

「私も! やりたい!」

「どうぞ。最初は高く蹴り上げるんです」

「こ、こうかしら……きゃっ」

 姫君はあっちこっちに鞠を飛ばし、なかなか暁のように操ることはできない。一度も続けて蹴ることができないまま、「暁ー、鞠はどこ行ったんだー」の声で、打ち切られてしまった。

 暁は気まずい顔を浮かべて、彼女を見上げた。

「そろそろ、皆が探しに来るから。俺は帰ります」

「ありがとう、楽しかったわ。ええっと……あなたの名前は暁でいいかしら?」

 鈴を転がした声で、彼女は自分の名を呼ぶ。それは木いちごよりも甘く、やまぶどうよりも澄んだ響きであった。

 暁は頷く。彼女の名前は聞けなかった。彼女は姫君であり、自分は武官。もう二度と会うこともできないだろうから。

 そのまま会釈を済ませると、鞠を持って皆の元へ帰っていった。

 寝るまで、彼女の笑顔が頭を離れなかった。

 名前を呼ばれるのが、ここまで気恥ずかしく嬉しいものだとは、そのとき初めて思い知った。

 暁の初恋は間違いなくあのときだったが、それが同時に彼の苦悩と不幸のはじまりでもあった。


****


 暁はそろそろ元服し、いよいよ武官として国司の元で働きはじめる頃だったが、元服する直前に、国司から呼び出しを受けた。

 そろそろ国司の出向期間が終わり、新しい国司が赴任するはずであった。

 そうなったら、いつかに会った彼女は都へ帰ってしまうんだろうか。名前すら聞けずにいた彼女のことを思い、暁の胸が軋んだ。

 国司に呼び出され、かの屋敷の広間に入ったときだった。ちょうど姫君がとたとたと歩いてきたのに目を奪われ、暁は硬直した。どうしてこんなところに姫君がいるのだろうか。

「あら、暁! 久し振りね! ……大きくなったのかしら?」

「あの……どうして……」

「どうしてって、お父様に呼ばれたからよ?」

 彼女はなんの疑問も覚えていないのに、暁はただ混乱した。

 ありえない。身分の低い暁の元に、国司が娘を連れてやってくるなんて。わからないわからないと混乱している中、国司の侍……つまりは暁の先輩が立ち上がった。

「俺もとうとうこの役割をお前に押しつけられるのかぁ……残念と言ってしまえば残念だけどなあ」

 彼女がにこにこ笑って国司の前に座り、暁と先輩に背中を向けている。

 国司が手元に扇子を取り出して口元を隠したのと、先輩が佩いた刀を抜いたのは、ほぼ同時だった。

 先輩が刀を向けているのは、間違いなく姫君に対してある。

 暁の目の前で、彼女が袈裟懸けに斬られてしまったのである。それに暁は目を見開いた。

「な、なんで…………!!」

「ああ、代替わりのときじゃないと伝えないし、このことは武官と国司様以外は知らないことだもんな。これは、うちの国の備品だ」

「びひん……」

 物扱いされた彼女は、血を流して倒れている。そこへ武官たちが現れ、きびきびと掃除をはじめて、床を拭きはじめた。血塗れの彼女の死骸を残して、床を濡らした血だけはすっきりと拭き取られた。血のにおいだけを残して、なにもなくなる……そう思っていたのに。

 彼女の死骸だけは、これ見よがしに残されたのだ。それこそ、備品として、捨て置かれたのだ。

 国司はきびきびと暁に伝える。

「これは小国が管理している天女。これが天に戻らぬよう、適度に放置し、適度に管理し、国司の代替わりのときに彼女を斬るのが、貴様の任務だ」

「……彼女を、斬る……?」

「天女は斬ったところで死なぬよ。現にこれは死んではおらぬ。ほれ」

 袈裟懸けに斬った彼女の袿を無理矢理暴かれる。最初は目を逸らそうとしたものの、彼女の裂けた袿の下からは、傷口が見つからなかったのだ。掃除をしなければならなかったほどに、あれだけ血のにおいを残しているにも関わらず、だ。

 小国に伝わる羽衣伝説は、暁も知っていたが、それはあくまで平和が過ぎる小国を表すための伝承だとばかり思っていた。だが。

 目の前の彼女は、斬られても死なずに、眠っている。

 混乱して目を剥いたままの暁に、国司は淡々と伝える。

「あれが天に帰ろうとしたら、羽衣に興味を持とうとしたら、この国から逃げようとしたら、斬るのがお前の任務だ。あれが逃げたら最後、この小国は簡単に滅びる。あれから目を離すな。あれは斬っても死なぬが、斬るたびに斬る前の記憶を失う。なに、なにかあるたびに斬ればいいのだから、そういう備品だと思うといい」

 その言葉に、暁は黙り込んだまま、彼女を見ていた。

 彼女に笑顔で鞠を手渡され、一緒に蹴鞠をした彼女は、もう暁の記憶の中にしかいない。暁の初恋は、名前も付けられずに終わってしまったのだった。


****


 彼女は怪我をして、五年も経った。

 その頃には幼かった暁も元服し、精悍な侍となって彼女の護衛として眠り続ける彼女を見守っていた。

 毎日彼女の顔を覗くが、あの長い睫毛が揺れることも、黒真珠の瞳が姿を見せることもなく、彼女はこんこんと眠り続けている。

 彼女が天女のせいだろうか。何年経っても彼女は暁の記憶の中にある美しい姫のままで、年を取る気配が全くなかった。

 本当に彼女は起きるのだろうか。彼女の口元に手をかざすと、彼女はたしかに生きているのがわかり、暁はますます打ちひしがれた。

 そんなある日。

「ん……ここはどこ?」

 彼女は突拍子もなく起き上がり、きょとんとした顔で暁を眺めたことに、彼はぎょっとした。

 暁のことは覚えておらず、新しく赴任してきた国司のことも当然知らなかったが、彼女について必要最低限のことを教えたあとは、すぐに暁の記憶通りの彼女になってしまった。

「暁」

 彼女はすぐに屋敷から抜け出してしまう。

 それは、彼女が無意識の内に羽衣を探し、天に帰りたい故の反動だろうと暁は思う。

「暁」

 これは天女のせいなのだろうか。

 何故か彼女としゃべる人、しゃべる人が彼女のことを好きになる。口さがない女房や侍女たちも、口で言うほど彼女のことを嫌ってはいないことを、暁は知っている。

 漁師も、百姓も、武官も、侍女も。

 どうして先の国司や武官が、彼女を備品扱いしたのかというと、彼女の妙に人に好かれる性分を危険視したからだろう。

「暁」

 彼女が喜ぶからと、気付けば暁は料理を覚え、彼女が仲良くなった漁師の手伝いをしたり、百姓の喧嘩の仲裁をするようになった。自分は彼女ほど、他人に対して興味がないというのに。

 自分のことを嫌ってもかまわない。彼女が他の誰かを好きになってもかまわない。

 ただ、もう。

 自分の名前を呼ぶ無邪気な声が、再び失われることがないように。

 ……そう、思っていたのに。


「……どうしてあなたは、そんなに無茶ばかりするんだ……!!」

「へーきよ、暁。私、いつもすぐに傷が治るじゃない……痛い……」

「さすがにあなたでもこの傷がすぐに治るわけがないでしょう!? それに、あなたは……」

 彼女を斬りたくなんてなかった。備品扱いなんてしたくはなかった。

 また彼女に忘れられるのなんて、こりごりだった。

 彼女は……今の呼称は夕花姫……暁に目を細めて言った。

「……小さい頃から、なんでもかんでも言ってくれないんだから。ずっと私のこと、守ってくれていたのにね」

 そのひと言に、暁は胸を詰まらせた。

 夕花姫は未だに記憶を失わず、それどころか彼女は記憶を取り戻してしまっていた。

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