真相
一
ざざん、ざん。ざん。
耳によく馴染んだ波の音がする。波音のたびに、潮風の香りが運ばれてくる。
夕花姫は目を開けて、寄せては返す波の泡を眺めていて、あれ。と気付く。どうもいつも知っている波よりも高く荒れているような気がするのだ。
しかし、自分はその荒波をものともせず、浜辺を歩いている。
「天女様ー」
そう呼ばれて、夕花姫は振り返った。
昼間に老婆にそう呼ばれたが、自分は天女なんかじゃない。この国の人間だったら誰だってそのことを知っているだろうに。
そう思ったものの、自分を「天女様」と呼ぶ子供は、どれも見知らぬ顔ばかりなのに、彼女は訝しがる。
「あら、今日はなにをして遊ぶのかしら?」
しゃべってもいないのに、夕花姫は「天女様」として子供たちに答える。よくよく見ると、子供たちの服は自分が知っている子供たちのものよりも、ずいぶんと萎びていることにも気が付いた。
自分はいったいどんな夢を見ているのだろう。そう思いながら、夕花姫は「天女様」として一緒に子供たちと歩いていた。
こちらに視線を寄せてくる大人たちは、皆怪訝な顔をしている。夕花姫が知っている漁村の人々は、もっと穏やかだったと思うのに。
もしかして、これは老婆が言っていた、かつての荒れた国内の様子なんだろうか。そう考えれば、今がどれだけ平和かよくわかる。
大人も笑っていた。子供も笑っていた。皆健やかに毎日を過ごしている。そう考えると、ますますこの国には天女が必要だったんだろうとは思うが。
肝心の天女も彼女の纏っていた羽衣も、本当にどこに行ってしまったのだろうと、ふと夕花姫は気が付いた。
まだ国内にあるんだろうということだけは、今の平和な国内を見れば思い至るが、肝心の天女も羽衣も行方不明なのだから。
そう思っていたとき、ふと夕花姫はなにかに腕を引っ張られることに気付き、視線を背後に寄せて、ようやく見つけた。
「天女様」は、透けるように薄い衣をふわふわと袖に巻き付けていたのだ。それは絹のようにも見えるが、絹よりも軽いし手触りも滑らかだ。これが今行方不明の羽衣なんだろうか。そう思ったとき。
その羽衣がぐいっと誰かに解かれることに気が付いた。
驚いて解いてくる相手を見たら、それは暁のように背中に刀を佩いた武官であった。
「止めて、それを持っていかないで!」
「天女様」は夕花姫の声で、そう言って剥ぎ取られた羽衣を取り替えそうとするが、武官のほうが彼女より頭ひとつ分ほど身長が高く、取り戻せそうもない。「天女様」は何度も何度もぴょんぴょんと跳んで羽衣を取り替えそうとしたが、武官は舌打ちをして、背中の刀に手を回した。
「……うるさい女だな。羽衣さえあれば、こっちはもう用済みだ」
「止めてってば、それを勝手に持っていたら……!」
「うるさい……!」
そのまま刀は「天女様」に振り下ろされた。
「ああ……っっ!」
途端に視界が、おびただしい赤で塗りつぶされる。
熱い。痛いいたいイタイ……イタイ。
そのまま「天女様」が浜辺に倒れたとき、耳に子守歌が流れはじめた。
てんにょさまのおわすはま
てんのめぐみをわけたまえ
てんにょさまのおわすしま
うみのめぐみをわけたまえ
はごろもひらりとまいながら
てんにょさまはやってきた
はごろもなくしたてんにょさま
かえれずどこかでないている
ちょっとひろってくだしゃんせ
ちょっとかえしてくだしゃんせ
はごろもかえしたてんにょさま
てんにかえってないている
****
目が覚めたとき、見慣れた天井に見慣れた部屋。そこは夕花姫の部屋であった。夕花姫は思わず「天女様」が斬られた場所に手を這わせたが、自分が斬られた訳ではないのだ。当然ながら傷はなく、あのときの激痛も熱も持ち合わせてはいなかった。
昨日探索をしていたせいだろうか、こんな夢を見たのは。
夕花姫はそう考えようとしても、あまりにも夢が現実味を帯びていたために、夢だと一笑にふすこともできずにいた。
もし男でも現れればその男が未来の夫だとして受け入れねばならないが、残念ながら現れた男は顔もわからぬ武官であり、そもそも「天女様」を叩っ斬った男である。あれが夫なのはものすごく嫌だ、と世間知らずな夕花姫でもわかる。
それにしても。と夕花姫は考え込んだ。
宮司は天女が出かけてから行方不明になったと言っていた。出かけたのはどこだったんだろう。もしあの夢が本当だとしたら、出かけた先で羽衣を奪われてしまったんだろうか。そもそも、斬られた天女はそのあとどうなったんだろうか。
死んだんだろうか。悲しんで天に帰ってしまったんだろうか。
感謝している割には、彼女のその後のことはなにひとつわからないなと、夕花姫はくしゃりと髪を撫で付けた。
そうこうしている間に朝餉の時間になり、彼女の稽古の時間になった。
侍女に琴を習ったが、いつか聞いた浜風のようにはおろか、彼女の先生を務める侍女のようにもちっとも弾くことができず、本当に爪で弦を弾いただけの音しか出なかった。
「姫様は……まあ……」
「わ、私楽器は苦手なの! 他、他にもうちょっとなにかないの!?」
「そもそも姫様は、歌は苦手、裁縫は不器用、楽器は不得手で、これではいったいどこにお嫁に行けば……」
「文字は読めるわよ! 漢詩も多少は!」
「姫様。それは姫様にほとんど必要のないことですよ?」
侍女に心底憐れみを込めた目で見られてしまい、夕花姫は「うーうー」と喉を鳴らした。喉を鳴らしたところで、ようやく稽古が終わった。
終わったところで、浜風と落ち合って屋敷を抜け出そうとしたのだが。
「姫様。稽古は終わりましたか?」
暁が何故か大量の巻物を持って立っていたのである。どれもこれも、日頃から夕花姫が読んでいる好きな物語ばかりで、それに彼女は「うっ……」と喉を鳴らした。
「……暁ぃ、どういうこと? どうしてこれを持っているの?」
「姫様がよく愛読なさっているものばかり持ってきましたけど、他に欲しいものはございましたか? なかなか取り寄せるのも難しいでしょうから、これら以外でしたら何ヶ月かかるかわかりませんけど」
「そうじゃなくって! ……私、ちょっと
「最近は危ないですから、俺も手前まで行きましょうか?」
「
「姫様。昨日俺は何度も申したでしょう」
暁はじとぉーっっとした目で、夕花姫を睨んだ。それに彼女もたじろぐ。
「俺はこれ以上、姫様に羽衣探索に関わらせるつもりはありません。危険ですし、万が一ということもありますから」
「今までここまで過保護だったことなんてないでしょう!? なんでいきなり?」
「それも機能に申したでしょう。あなたが浜風にどうそそのかされたのかはこちらもさすがに把握しておりません。ただ、これ以上あなたにあることないこと吹き込まれたら困りますから」
それに夕花姫はかぁーっと頬が熱くなる。
浜風に歌をもらった。その返歌は、昨日も寝るまでずっと考えたが、未だに返せていない。彼はきっと都でもらい慣れているだろうし、この国でも女房たちからなにかと気に掛けられているのだから、気にも留めていないだろうが。それでも夕花姫は彼に歌を返したかった。
「好き勝手言わないでっ! 暁の馬鹿! もうあっち行って!」
「俺は部屋の外で控えていますから。
「もう馬鹿! 知らない!」
そう夕花姫に声を荒げられても、暁は気にする素振りもなく、そのまま彼女の部屋の外へと出て行ってしまった。彼女の大好きな物語を大量に置いて。
夕花姫はしょんぼりとしながら、それらの巻物を拾い集める。
どれもこれも、都を舞台にした恋物語であり、夕花姫が都に対して憧れを持っている理由のひとつだ。これで足止めして、浜風との接触を断とうとするなんて、性格が悪いにも程があると、夕花姫は憤慨する。
だが。夕花姫はちらりと降ろしている簾を見る。簾を捲り上げて、庭を突っ切って外に出たら、さすがに暁を撒けるだろうかと。
簾を巻き上げる音で気付かれるかもしれないが、なにもしないよりはましだ。
夕花姫は音を忍ばせて、するすると簾を巻き上げると、そのまま庭を突っ切っていった。履き物も履かずに中庭を歩くのは足の裏がチクチクとするし、痛いし、暁が心配していたように怪我をしてしまいそれがすぐ治ってしまうのを見られる危険もあるが、それでも浜風に会いたかった。
中庭から母屋に入り、彼のいる客室へと廊下を歩いていると。
女房たちがたくさん歩いている姿を見つけ、慌てて夕花姫は廊下の角へと隠れる。こっそりと覗き込むと、女房たちが取り囲んでいるのは浜風だった。おそらくは、客室を出たところを仕事上がりの女房たちに捕まってしまったのだろう。
「今日は浜風様は姫様とお出かけはなさらないんですか?」
「でもたまにはいらしてね、こちらにも。私たち、姫様と違って外を散歩する趣味はございませんから」
これは暗に変わり者の姫など放っておいて、自分たちにもっと構えということなんだろうかと、夕花姫は少しだけむっとするが。
浜風は相変わらずの柔らかな物腰で、女房たちの言葉をのらりくらりとかわしている。
「噂話というものは、勝手に尾ひれが付いてしまって困ったものだね。私には姫君はそこまで変わり者とも思えないけど」
「まあ……都でもひとりで出歩く姫など聞いたことがないと……!」
「寺社が好きでお参りを趣味にしている姫君もいるし、噂話に興味がなく趣味に傾いている姫君もいるから、それは人それぞれじゃないかな」
……庇ってもらえた。そこでほんの少しだけ温かいものを覚えたが。
浜風の物言いに納得がいかないのか、女房のひとりが「ならば」と言う。
「今日は出かける予定がございませんのでしたら、お話しいたしませんか? お菓子も用意致しますから」
「これはこれは……それでは世間話程度ならお付き合いしましょうか」
そのまま女房たちに逃がすまいと取り囲まれたまま、連れて行かれてしまった。
中庭から脱走してまで抜け出したのが、空回りだ。
夕花姫は懐に手を伸ばした。ひと晩必死に考えた返歌を返しそびれてしまった。
「……浜風の馬鹿ぁ」
こればかりは彼はなにひとつ悪くはないのだが、八つ当たりのひとつでもしなかったらやっていられなかった。
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