四
雨が降り止まなければいいのに。
浜風とふたりっきりでしゃべることのできる時間が、もっと続いたらいいのに。
夕花姫の祈りも虚しく、村雨は止み、先程まで雨が降っていたのが嘘のように、澄んだ青空が広がっていた。それでもそろそろ日が傾きつつあるので、そろそろ日が橙色に変わるだろう。
「雨宿りさせてくださり、ありがとうございます」
「いえいえ。また姫様も遊びにいらっしゃい」
「はい」
「お元気で」
夕花姫と浜風は宮司にお礼を言うと、羽衣神社を後にした。
緩やかな坂を下りながら、夕花姫はうーんうーんと腕を組んで考え込む。浜風に口では調子のいいことを言ったものの、なにひとつ羽衣伝説の探索に貢献できていないような気がしたのだ。
「でもどうしましょう、これから。羽衣伝説について、これ以上詳しい人には心当たりがないわ」
「そうかな? 私は宮司の話を聞いて、薄々確信したけれど?」
「ええ? なにかしら」
宮司の話を思い返したが、数十年前の小国が比較的厳しい環境だったということ以外はなにもわからない。せいぜい、羽衣はまだこの国のどこかにあるはずだということくらいだ。そんな奇跡な力があったら、浜風の記憶も取り戻せるんじゃないかと、夕花姫はなんとなく思うが、それはあくまで夕花姫の想像だ。
夕花姫のとんちんかんな反応にも、浜風は馬鹿にすることなくゆっくりと答える。
「この国で羽衣伝説は民間にも渡るほどに知られているんだから、お父上もそのことをご存じのはずなんだよ」
「あ……! そっか、そうよね……!」
国司としてこの国を治めている以上は、この国で起こっていたことについての資料にもすぐ当たることができるだろうし、納税の最中に民の噂話を耳にしているかもしれない。そう考えたら、屋敷に帰って国司に話を聞いてみたらいいんじゃないだろうか。
夕花姫はうきうきとした声を上げる。
「すごいわ、私ちっとも気付かなかったのに、人の話を聞いただけでそこまで思い至るなんて……!」
「それは褒め過ぎじゃないかな、姫君。君は人を疑わない素直な性格だから。だからこそ、ひとつの言葉を裏表考えることなく、そのまんま真っ直ぐに受け止める。私はその素直さが羨ましいくらいだよ」
「浜風……?」
その言葉に、夕花姫はどうにも据わりの悪いなにかを感じた。チクチクとなにかが刺さるのだ。
この人はいったい、なにをそこまで疑っているんだろう。言葉のひとつひとつの裏ばかり考えていたら、きっとくたびれてしまう。そうしなかったら生きていけなかったんだろうか。
夕花姫は相変わらず都のことはわからない。ただ、この人の言う都は、そんなにいいところではないのかもしれないとだけは、少しだけ考えた。
「ねえ……私、お父様に話を聞いてみるわ。羽衣伝説のこととか……もし見つけられるようだったら、羽衣のことも」
「……本当に?」
「ええ。知っていたら、だけれどね。でももし羽衣伝説の全容が知れたら。そのとき、約束してくれる?」
「私ができることだったら、喜んで」
「そう、ありがとう。私、もし浜風が記憶を取り戻すことができたら、この国を出てみたいの」
羽衣の力を使ったら浜風の記憶が取り戻せるんじゃないかというのは、あくまで夕花姫の希望的観測だが。
そのひと言に、浜風は少しだけ目を丸く見開いた。
「……意外だね。姫君はこの国を愛していると思っていたのに」
「ええ、この国は好きだわ。でも私、生まれてからこの国しか知らないのよ。海の向こうになにがあるのかなんて、ちっとも知らない。あなたがときどき話す都のことだってちっともわからないのよ。私、物語をたくさん読んだわ。だから想像はすることができても……読んだことまでしかわからないんだから。海がないのに船遊びってどうやるのかしらとか、妻問婚は家包みで行うと言ってもどんなものなのかしらとか、潮風のない生活ってどんなものなのだろうとか……全然想像できない。だから行ってみたいと思ったの。駄目?」
夕花姫の言葉に、だんだん浜風は袖で口元を抑え、プルプルと震えはじめた。とうとう、笑い声が漏れてきた。
「ははは、ははははは……そうか。姫君……そんなに外に……」
「も、もう! 笑わないで! だって海を越えるなんてよっぽどのことがない限りできないじゃない!」
「はははははは……すまない……君を馬鹿にした訳じゃないんだ。ただ」
ぷりぷりと怒って、握り拳で浜風をポカポカ叩く夕花姫をいなしながら、浜風は彼女の手を軽く押さえると、その手を取る。
端正な顔付きでにこやかに夕花姫を見られると、もう彼女も怒る気は失せてしまっていた。女の敵だ、この人は絶対に女の敵だとわかっていても、この国の女は大概はこの手の男に弱いと理解していても、自分の気持ちを誤魔化すことなんて、性根が真っ直ぐな彼女にはどだい無理な話であった。
「わかった、私でよろしかったら案内しようか」
「……ええ、約束よ」
さすがにその言葉だけは、裏表ない性格の夕花姫でも信じ切ることができなかった。
田舎の姫君と都の公達では、立場が違い過ぎるのだから、この国の中のように振る舞うことなんて無理だろうということくらいは、いくらなんでもわかっている。
そのままふたりで緩やかな坂を下っていた、そのときだった。
浜風の履き物が、ぬかるみに足を取られた。
「……あ」
「危ない……!!」
浜風は足を突っ張ったものの、そのまま足を滑らせ、崖を落ちていく。それに夕花姫は必死に彼の腕を掴んだ。
この辺りの崖は緩やかで、そこまで高く険しくもないが、怪我でもしたら。
ふたりがそのまま崖に落ちたとき、浜風はビクンとして慌てて体を起こした。夕花姫が咄嗟に彼の下に体を滑り込ませたので、彼女が枕になって無事だったのだ。だが、夕花姫は。
一瞬だけ鼻を掠める生臭さに、浜風は顔をしかめる。
「姫君? 姫君? なんでそんな無茶なことを……!」
普段声を荒げることのない浜風が少なからず声を荒げるのに、夕花姫は痛さを誤魔化しながらも、少しだけほっとする。
こんな声を上げるのは、自分のためだからと。
「ん……平気よ。だってこの国は全部私の庭のようなものだもの……崖の高さだって知ってる……これくらいの高さじゃ落ちたくらいじゃ死にはしないわ……」
「姫君。怪我しているだろう? 私を庇ったばかりに。足、見てもかまわないかな?」
そのまま彼女の袴を捲り上げようとしたが、それより先に夕花姫が袴を押さえつけた。浜風が訝しがって手を止めると、夕花姫はそのまま体を起こした。
「だ、大丈夫だってば! 本当に全然平気! 痛い……!」
立ち上がろうとしたものの、どう考えても怪我している場所を庇って姿勢がおかしく、斜に構えた立ち方になる。
しかし怪我をしているのに見せたがらない。しばらく考えた浜風は、溜息をつくと腰を落とした。
「えっと……浜風?」
「幼子にするみたいで悪いけれど、今は牛車もないから。私の背で悪いが、乗ってくれないかな?」
「えっ……!」
「私のせいで姫君に怪我をさせてしまったのだから、このまま屋敷に帰すようではお父上にも悪い」
「そ、それなら……」
夕花姫は本当におそるおそるといった様子で彼の背中にしがみつくと、浜風は立ち上がった。彼女の袿も髪も、決して軽いものではなかったが、それをものともせず、浜風はゆったりと歩いて行く。
「あ、あの……重くないかしら……!」
「姫君は軽いよ。軽過ぎていささか背負っている気がしないくらいだ」
「それは褒め過ぎだと思うの……!」
「ふうむ、この国の人々の褒め言葉というのは難しいものだねえ」
夕花姫はドギマギしながら、必死に彼の背中に捕まると、前に嗅いだことのある甘い匂いに気が付いた。
浜風の首筋から匂いがする。この匂いはなにかと尋ねたほうがいいんだろうか。そう思っていても、これ以上墓穴を掘るようなことを言うこともできず、夕花姫は押し黙って目を閉じてしまった。
浜風の匂いと、風が運んでくる潮の匂い。それらの匂いが彼女を安心させて、そのままうたた寝にいざなってしまったのだ。
****
浜風は黙ってしまった夕花姫を運びながら、坂を下りきったとき。
「そこまでだ」
怒気を孕んだ声を背に聞き、浜風は夕花姫を背負ったまま振り返った。そこには目を釣り上げた暁の姿があった。
その鋭い殺気は、もし浜風が夕花姫を背負っていなかったら今すぐ刀を抜いてしまいそうなほどのものであった。
しかしそれだけ鋭い殺気を向けられてもなお、浜風は平然と受け流し、背負った夕花姫が落ちないよう、とん、と背負い直す。
「君はずっと私たちに着いてきていただろう? それだったらさっさとこちらに来たらよかったじゃないか。そうしたら、姫君が怪我をすることもなかったよ。私だってさすがに悪いと思っているんだ」
「だったら尚のこと、貴様は言動に気を付けたらどうなんだ。いちいち姫様を惑わすようなことばかり言って……!」
「……君も可哀想なものだね。想いを伝える術がないというのも」
浜風のあからさまな挑発になにも答えることはなく、暁は浜風の背中ですやすやと眠っているあどけない顔の夕花姫を見た。
「……彼女を運ぶのを交替する」
「悪いと思っているから、このまま屋敷に運ぼうと思うんだけど?」
「帰ったらそのまま治療するからな。俺は」
まるで浜風から奪還するように夕花姫を横抱きに抱え込んだ暁は、彼を睨み付けた。
「……姫様がどれだけ気に入ろうとも、貴様のことは好かん」
そうきっぱりと言い切ると、そのまま彼女を抱えたまま先を歩きはじめた。その暁の態度に怒る訳でもなく、ただ浜風は肩を竦めた。
「本当にずいぶんと嫌われたものだねえ、私も」
そのからかい混じりの言動こそが暁を怒らせているのだが、そのことを知ってか知らずか、浜風は改める気はなさそうだった。
浜風の独り言を無視しながら、暁は未だに眠りこけている夕花姫に視線を落とし、そっと息を吐いた。
「……帰ったら手当てしますから」
その声は浜風に向けるものとはもちろんのこと、日頃夕花姫に向けているものよりもずいぶんと優しかった。
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