第15話 ペナン滞在 その2 1934年1月11日
支那寺の見学を終えて我々は再び自動車に乗り、椰子の林で出来た回廊の中を走りだした。道すがら支那人の店やコブのある牛が2頭で曳く車、それに乗合自動車などを見ながらトップスピードで走る。支那人の墓所と言う場所もあったが、それは山の緩やかな麓に無数に集合していて、作り方が北支那の物とは全然違っていた。土饅頭に50cm位の高さの石垣を巡らせて、墓碑が南向きに置かれていた。これはどちらかと言うと本で見た琉球の様式に近いのだろう。
他にイスラム教の墓もあった。これはシンガポールでも見たが、墓標がとても小さくて丸い石で作られていて、それが1m位に間を空けて規則正しく配列してあった。
椰子の林の中にはマレー人の住居が沢山並んでいた。どれも高床式で床下が2mくらい高く作られており、地面からは梯子で出入りする形になっている。屋根は椰子の枯葉で葺いてあって観音開きの扉が付いていた。
椰子の林を通り抜けて視界が広がると、そこには稲が植えられた水田の風景が続いていた。見るともう穂が出かけていて、1年に2回米が獲れる二毛作だそうだ。遠くに山々の稜線が見えていたり、水田がずっと続いている風景を見ると、なんだか8月の夏の内地の田舎を走っている様な感じがした。ただ所々に見える百姓の家の近くに椰子の木が数本立っている所だけが違っていた。
30分以上走った所で車を停めて、蛇寺と言う名所を見学した。車を下りて入った寺はとても小さくて、大連の松山寺くらいしかない。本堂の付近では青くて美しい蛇がたくさん飼われていて、この蛇たちが植木の上や位牌の上、そして天井にもからみついていた。運転手が「この種は毒を持っていないので安心です」と言いながら手に取って見せてくれた。柵の中には胴周りが20cmはあろうかと言う大きい蛇も見かけた。
10才位の現地人の子供が数人寄って来て英語で喋りかけて来た。鶏の卵を持っていて、殻に開いた小さい1mm位の穴を見せて「この穴から蛇が玉子の中身を食べた」とか「この蛇は毒ではない」とか「寺の裏には大きい蛇がいる」とかなんとか喋っていた。掲げられていた看板には「この寺の維持の為に寄附をして下さい」と英文で書いてあったので、私たちは少しだけ寄附した。さて、車に乗って帰ろうとすると、さっきの子供たちが駆け寄って来て、「Give money.Throw ten sen.」と繰りかえして叫んでいた。
先ほど来た道を通って稲田を抜け、椰子の林を走っている途中で自動車のラジエターの冷却水が沸騰して来たので一旦車を停めて冷めるのを待った。途中で見かけた支那人の店で水を運転手がもらって、熱くなった冷却水と入れ替えた。その作業をしている合間に、私たちは椰子を背景にして記念写真を撮った。
そしてここでは有名な植物園だと言う場所に乗り入れる。シンガポールの物ほどには広くないらしい。その場所は山峡を利用していて平地は芝生で中には小川も流れていて橋がかかっていた。珍しい木をたくさん見かけたが、何と言う種類の木なのかは分からなかったし、詳しく見ている暇も無いので車を走らせた。小川の山腹の川上では滝になっていて、これも名物の一つらしい。運転手がわざわざ車を止めて見せてくれた。ジャングルには猿が放し飼いにされていて、その猿が我々を見物に出て来た。あいにく彼等に与える御馳走を持ち合わせていなかったのだが、数十匹も集って来たので、ここでも車を停めて見物した。高く茂った林では蝉らしいのがキーンキーンと金属性の音で鳴いていて、ミーンミーンと言う鳴き声も混じって聞こえていた。
もうこれで約束の見物個所は終りだった。シービ氏はもっとドライブしようと言ったので私は反対したが、賛成者の方が多かった。とにかく一度桟橋まで帰ろうと言う事になって走っている内に、先ほどから曇っていた空から大雨が降って来た。
桟橋に着いたのがちょうど午後五時だった。2時間車を乗り回してシンガポール貨で6ドル(約11円=現在の通貨価値で2万円ほど)で、これはコック長が待ち構えていて払ってくれた。私は雨なら少しばかり降る事もあるし、市街を見て回って絵ハガキでも買おうかと思ったので、コック長からさらに8ドルお借りして市街をぶらついた。これも大した町ではなく、シンガポールの小型版と言った感じだった。
イギリス人の雑貨屋でダブル8のフィルムを5ドルで1本買った。私が借りた金を使い果たしてもしても困るので、持っていたイギリスの10シリング紙幣を両替させた4ドル25セントと借りた75セントを足して支払いをした(日本貨で9,7円)。
シービ氏とゲイト氏はやはりドライブをしたいと言っている。外の雨はもう止んでいたのだが、我々満州3人組はもう疲れたから、ブラブラと町を見物する事にした。それで私がコック長から借りた内の5ドルをゲイト氏に渡して2組に分かれた。後で聞いたらお二方は1時間3ドルで海岸の景色の良い所を見て来たそうだ。我々満州組は本通りを軒ごとに覗いて歩いた。ロクな絵ハガキが売られていない。マレー人が履いている木の靴も売っていた。日本人の散髪屋が立派な店を出していて、そこの看板には「Japanese barber,Matsumoto」と堂々と書き出してあった。
もう桟橋に帰って小蒸気船で待とうと言う事になったので引き上げる。途中に郵便局があったから入ってみた。ハガキ、封緘ハガキ(便箋を折りたたむと普通の葉書の大きさになる)、書留封筒などの見本が陳列してあった。それから航空便の表があったから見たが、世界の各地に通じているのに驚いた。東の方はシャム迄で、支那へは行かないが、西はヨーロッパ各国、アフリカにも通じている。アデンまでは12仙、日数は2日間(船便だと11日かかる)、フランスへは35仙で8日間(船便では20日)となっていた。これから数年後にはもっと日本の勢力がこの方面にも延びて来て、内地から出した航空便がペナンやコロンボで受け取れる様にならなくてはだめだろう。今は東京と大連の間でも2日もかかって、うまく行ったり行かなかったりしている有様なので、ここまで来るのが何年先の事になるのやら。道理で西洋人船客が、着く港ごとに航空便でヨーロッパの便りを受け取っているのももっともな事と感じた。
桟橋詰めにある売店で絵ハガキを見たが、欲しいのは一枚もなかった。喉が乾いて腹も減ったが、この辺の食べ物は不衛生なので食べる気にはなれなかった。小蒸気船に乗るまでに30分ほど待たされ、他の見物に出かけていた連中も集まって来たが、皆へとへとの様子だった。やはり腹が空いたのかチョコレートを食べている人も見かけた。オー氏の一行はトルコ帽を買って被って来た。我々日本人もいくらかここらの血を引いているらしく、オー氏の顔をもう少し黒くすれば、本物のマホメット教徒に見えそうだ。
オー氏は両替商の物真似をして「マニーチェンヂ」などと言って皆を笑わせた。トルコ帽はビロードで作られた物だが、3個で5ドル(10円)で買ったそうだ。
これを被っていると町の人々が親しみの目で見てくれたと言っていた。
午後6時半に照国丸に着いた後に軽く風呂を浴びてからの夕食はとても美味かった。この頃の夕食にはエクストラの日本食が出る。今日は鰻丼だったので頼んでみたが、うなぎはシンガポール産だったらしくてあまり脂が乗っていなかった。
午後7時に錨が引き上げられてすぐに照国丸は出港した。長時間のドライブで疲れてヘトヘトとだったのだが、応接間でスチフェン氏(Stephens)と1時間ほど英語でお話をした。氏は5ヶ国語に通じていると聞いていたので、フランス語やドイツ語の事も語り合った。氏は日本に長くいたイギリス人で、マルセイユからの汽車で、「Parlez―vous Francais?(フランス語を話しますか?)」と聞かれた時には、「Je ne parle(ません)」と答えたそうだ。これでは日仏混合である。またイギリス人の父とフランス人の母を持ち、日本で6才まで育てられたそうで、日本語と英語とフランス語がペラペラだった。雨の時には「It seems to rain une fois ame,neit ce pas?」と言ったなどと聞かせてくれた。これも各国の混合語である。
午後9時にベッドに入ったが今日の疲れもあったのか良く眠れた。夜半に起きて時差を修正する為に時計を40分遅らせた。まあ結局朝は同じ時刻に起きるから、40分だけ余分に眠る事になる。
ペナンまでの移動距離367km。晴れ。風向、北東。風速1m/秒。気圧758.1ミリ(1014ヘクトパスカル)。気温27℃。水温28℃。移動歩数4800歩。
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