5話

「私、地べたで寝たの初めて!」

「……うん、そんなキラキラした目で喜んでもらえたら、俺の罪悪感もだいぶ減るよ」


 二人が城を抜け出してから数時間が経った早朝。城下町の一角、人目のつきそうにない路地裏に広げた毛布の上で、クインが元気良く喜んで声を上げていた。


「深夜過ぎて宿も取れなかったし、最終手段のつもりで選んだ野宿だったけど……ほんと、喜んでもらえて何より」


 安堵と自分の情けなさからくるため息を吐いて、颯太は空に浮び始めた太陽を見る。一応、泥棒を捕まえた見返りや、汚い金の出所からちょこちょことくすねてきたこの国の貨幣を蓄えていたため、クイン一人分の宿を取ることは可能ではあったのだが。


「夜も更けた深夜に目を引く女の子が宿を取りに来たら、何事かと思うもんなぁ……」


 颯太が一ヶ月、この国で好き勝手生活してきた中でも、黒髪黒目の人間を見かけなかった。

 おそらく、どうあってもクインの容姿は街中の目を引いてしまうだろう。一応服装に関しては街中であっても珍しくない軽装を選んでもらってはいるが、どちらにせよ髪と目を隠すようなローブ的な装いが必要だろう。


「ちょっくら買い物してくるから。待っててくれる?」

「ねぇ。市場に行ってみたいわ」

「話聞いてくれる?」


 完全に意識を活動をし始めた街並みに奪われ始めてるクイン。産まれて初めて見る光景があちらこちらに広がっているのだから、好奇心が強くなるのも無理はない。


「……そもそも、買い物なんてあなたはできるの?」

「まぁ、店員からすれば、売り物がなくなってお金だけ置いてある怪奇現象に出くわすことになるだろうけど」


 そういうことしまくってきたから、王の元までゴーストの噂が広まったんだろうな、と苦笑いを浮かべる。

 とりあえず、クインにはまた颯太のパーカーを羽織ってもらい、当然のような顔でパンツ一丁の颯太は市場へと向かった。街のどの辺りにどんな店があるのか、この一ヶ月で大体把握している。服の店舗がある場所もわかっていた。着たきり雀になるのが嫌で、別の服を着てみたところ、服だけが宙に浮く様を目撃されて一悶着があったからだ。


「さて……まずは金の回収に行かないと」


 颯太の性質上、物を持ち歩くことなどできないため、自分用の保管庫を作っていた。保管庫、といっても、街外れにある河の辺の土の中に埋めているだけで、犬にでも掘り返されていれば無一文まっしぐらだが、それは仕方ないと割り切っている。

 金銭を回収し、来た道を戻る。太陽は次第にゆっくりと空を上がり、市場を通ると人の姿を多く見かけるようになってきた。これは急いだ方がいいかもしれないな、と思い颯太は急ぎ足で服などが売っている店へと向かう。さすがにクイン一人分の体を覆うローブを姿の見えない颯太が持ち歩くのは無理があるかもしれない。極力、人目がつかない内に済ませてしまいたかった。

 フード付きの地味なローブを見つけ、多めに貨幣を置いて颯太は来た道をひたすら戻る。


「……ほぼ無計画で連れ出しちゃったけど、これからどうしよう」


 外に出る、というクインの願いは叶えた。現状の目標がそれだけだった以上、これからの希望をクインに聞かなければならない。

 街を案内しようにも、颯太の姿は街の人間には見えないため、どうしたって傍から見たらクインが一人で街をぶらついているようにしか見えない。そんな状態で、満足に案内などできるだろうか。勢いで誘拐紛いなことをしでかしてしまったが、内心は不安で一杯だった。

 その不安を振り払うように足を進め、クインの元へ戻ると、


「お姉ちゃん! もっかいやって!」

「う、うーん……あんまりやると疲れるっていうか……魔導は一応門外不出の技だから、極力見せたくないのだけど……」

「もっかい! もっかい!」

「し、仕方ないなぁ……」

「うわぁめっちゃ楽しそう」


 子どもたちに遊びせがまれてニヤける、クインのだらしない笑顔があった。


「いい? これで最後だからね?」


 颯太が戻ってきて、冷めた視線で見ていることに気づいてないのか、クインは子どもたちに目を向けたまま、自身の持つ……どこから持ってきたのか颯太には定かではないが、一本の茎のみの植物を手にしている。


「命じる」


 短く、手の中の命を律する。


「美しく、咲き誇れ」


 クインの言葉を、命令を叶えるように。クインの手にあった植物が蕾を作り、大輪を咲かせる。その幻想的な光景を、子どもたちは目を輝かせて眺めていた。

 颯太は、とりあえず服を着ていた。


「はい、君にあげるね」


 クインは微笑みながら、子どもたちの中の一人だけの女の子に、その花を手渡した。突然咲いた、手品の結果のような花を受け取り、女の子の表情は花にも負けず華やぐ。


「いいの!?」


 少女の笑顔にクインは微笑みを返し、その後。


「…………」


 颯太を見て、罰が悪そうに顔を背けていた。

 子どもたちが各々クインに別れを告げ、走り去っていく。人気がなくなったことを見計らって、颯太は口を開いた。


「……どういう経緯でこうなったか、聞いてもいい?」

「その……子どもたちが遊んでるのを見て、気になっちゃって……」


 颯太が貸した服を脱いで近づいてしまった、と素直に白状するクインに、颯太は軽くため息を吐くだけに収める。責めるつもりなどないが、申し訳なさそうに俯くクインに追い討ちをかける勇気がない、という理由もある。


「……楽しいなら、それで何よりだよ」


 外に出る外の世界を見る。それがクインの願いであり、颯太が目指した目標だ。その末でああして、笑顔でいてくれるのならば颯太としては文句のつけようがない。

 とはいえ、できることならあまり人目に触れて欲しくはなかった。純朴そうな子どもたちだったから良かったものの、ここは路地裏。颯太の知る限り、あまり治安の良い場所ではなかったはずだ。


「とりあえずこれ着て、移動しよう。今日の宿を決めて、それから街の中を歩いてみようか」

「そ、そんなことして大丈夫かしら」


 颯太から手渡されたロープを身に着けながら、不安と期待が半々になった表情を浮べるクイン。


「人ごみに紛れちゃえばあんまり目立たないからね。人が多すぎると、今度は俺が近くに寄れなくなるけど」

「それはそれで不安なのだけど……うん、でも。色々なところを見てみたい」


 不安を好奇心が押し潰し、クインの表情が華やぐ。


「城の中から街を眺めるだけじゃ、何もわからなかったもの。今ここでこうしてるだけで、胸のドキドキが止まらないわ」


 心臓の位置に手を当て、嬉しそうに呟く。その様子を見て、颯太は自身もようやく顔を綻ばせた。


「それじゃ、出発しようか」


 ウキウキとした、これまでの人生で浮かべることができなかった表情を浮べ、クインは歩き出した。





「あなたの仕業、なのかしら?」


 夜の明けた王城にて、侍女と騎士が向かい合う。場所は王城の一角。王城に住まう誰もが極力近づこうとしない庭園に、クインの侍女兼世話係であるフィリスが、騎士団長アルフレルドに敵意を隠そうとしない目つきで質問した。


「……疑うよりも前に、根拠を示して欲しいものだ」

「お嬢様が王城から姿を消しました。城の警備に一切気づかれることなく、あのお嬢様が消えるわけがない」

「巷を騒がしているゴーストの仕業、ではないのかね?」


 口角を歪ませながら答えるアルフレルドの姿に、フィリスの機嫌がより悪くなる。舌打ちすらしかねないほどの敵意を抑え、それをため息で吐き出した。


「……可能性はあるでしょう」


 沈んだ声を吐き出して、給仕服のポケットに隠していた、クインがフィリス宛に残した手紙をアルフレルドに手渡す。その文面を、筆跡を目にしたアルフレルドの目が見開かれる。


「……ここに書いてあることが、事実だとでも?」

「事実かどうかはともかくとして、お嬢様がご自身の意思でこの城を出て行かれたことは確かです。それでは」

「……待ちたまえ」


 手紙を取り返し、フィリスが踵を返して庭園を去ろうとする。その背中を、アルフレルドは声をかけ呼び止めた。


「君はどうするつもりなのかね。姫が城を出て行ったのは、姫の意思なのだろう? ならば、これは君の――」

「それが本当に、お嬢様お一人の意思によるものなら」


 そう、それだけ言い残し、フィリスは庭園を去った。残されたアルフレルドは顔に手を当て、深々とため息を吐いてみせた。


「僥倖……いや、災難、か? 予想外過ぎて、なんと言っていいのかわからないな」


 クインがこの城の中で生を受け、十六年。その間停滞を重ねてきた時が、ついに動き出した。留まることを望みながら、変化を待ち望んでいたような気もする。


「自ら変えようとしたのか。変わろうと促されたのか。どちらにせよ、見物だな」


 アルフレルドが去った庭園に、一陣の風が吹く。柔らかく、暖かい花の香りを含んだ風が揺らしていた黒髪は、もうここにはない。

 もう誰も、この庭園に吹く風で揺れるものはいなかった。





「待って! クイン! クインさん! 足速いから! めっちゃ人ごみの中だから! 俺のことも考えて! 周り見て歩いてぶつかるから! 見ろっての! というか勝手に買い物すんな! おいしそうなのはわかったから! 前の人にぶつかるから周りちゃんと見て歩いて! 俺に話しかけんな不審がられるだろ! 俺は見るな! 前見ろ! 前!」


 誰にも聞こえないし見えないが、もし仮に聞こえていたら確実に顔をしかめられるか、あまりにも必死になって声を上げる姿を不憫に思うかのどちらかだろう。

 時刻は昼を過ぎた頃。太陽は空に高々と上がり、人に溢れた市場を燦々と照らしている。その人波の中をスイスイと、今日初めて城の外から出たばかりの人間とは思えないほどの身軽さで進んでいくクインに、颯太は必死になりながらついて行く。案内すると言ったのはどちらだったのか、今更考えるのも馬鹿らしい。


「ちょ、ちょっと! 止まって!」


 やっとこさ人波を抜けると、市場の隅でクインが両手に様々な食べ物を持って颯太を待っていた。疲弊して膝に手をついて息を吐く颯太を見て、持った食べ物を口に運びながらクインの目が不満げに細められる。


「ソータってば案内するって言ってくれたのに、私よりも進むのが遅いのだもの」

「お、俺は君と違って……周りから総スカンされてるんで」


 目に見えない物体が自分を押し退ける、など周りの人間からしたらそれだけで恐怖だろう。周囲に気を使って進んでいたら、好奇心に足が生えたようなクインには到底追いつけない。


「でもすごいわ。いっつも城から見下ろすだけだったから、大きさや人の多さなんてよくわからなかったけど。こうして自分の足で立ってみて……本当、すごいクラクラしちゃった」


 人波に酔った、というよりも、活気に当てられた、というべきか。ほんのりと赤く染まった頬が、彼女の高揚感を如実に表している。その嬉しさ、感動を邪魔するつもりは颯太にはなく、泣き言はこれ以上言わないよう膝に力を込めてしっかりと立つ。


「さて。今日のところはとりあえず、宿を決めておかない? 泊まるのは君一人でいいんだから、ちょっとぐらい奮発して良い宿を探してもいいけど」

「私としてはどこでもいいんだけど……なんだったらまた野宿でも構わないわ」

「俺が構うからそれはやめよう」


 うら若き少女を二日連続で外の地面に横たえるのも落ち着かない。クイン本人は心底本気で言っているから性質が悪い。


「そんな気に入ったの? 野宿……っていうか、外で寝るの」

「気に入った……というより、新鮮で楽しかったの。横になって空を見るなんて初めてだったし、周りの喧騒を耳にするのも、楽しかった。人々の笑い声や、どこからか聞こえてくる音楽。野太い悲鳴。風が運んでくるよくわからないけど良い匂いとか、そういうのが全部」

「ねぇ今悲鳴って言った!? そんなの俺聞いてないんだけど!」


 掘り下げると不穏な気配を感じ、颯太はそれ以上のツッコミを放棄した。頭を振って気を取り直す。ともかく今後の方針を決めなければ話にならないのだ。


「それで、だ。とりあえず君の外に出たい、って目標は叶ったけど……」

「そう……ね、まだまだ食べてみたいものはたくさんあるけど……とりあえず、食事に関しては満足だわ。今のところお腹は一杯だし」

「あれだけ食ったらな……」


 細々と隠れるように食事をしてきた颯太にとって、両手に食べ物を抱えて食べまくるこの国のお姫様(一応)として確実に相応しくなかった振る舞いは、羨ましいとしか言いようがない。颯太はクインに追いつくのに必死で何も食べてなどいないわけで、今更ながら空腹を自覚してきた。


「もうちょっと歩き回ってみたいな。あなたがいいのなら、なのだけど」


 両手を広げクルリとその場で一回転。自身の言葉を証明するように、ロープで浅く隠された表情は笑顔そのもので、陰りなど一切感じられない。

 実際、それなりの恐怖はあるはずなのだ。現状は昔からの望みとはいえ、全てが未知だ。円満な会話など侍女としかしたことないし、こんなにも雑多で大勢の人間と同じ目線に立った記憶など欠片もない。目に映るもの、触れるもの聞こえるもの全てがクインにとって初めての経験なのだから。


「……怖くないの?」


 思わず聞いてしまったその質問に、クインは逆に不思議そうに聞き返す。


「怖い? どうして?」

「君にとって、城の外は知らなかった世界でしょ? お付の者もいないのに、一人で歩き回るなんて、怖くないのかなって」

「あなたがいるじゃない」

「……それはまぁ、そうなんだけど」


 クインから言外に感じる信頼を嬉しく感じる。反面、確実とも言えない自身の防衛力の低さを考えてしまい、不安が胸の内に巣食ってしまう。


「その……期待してくれるのは嬉しいんだけど、俺ってそこまで腕っ節に自信がないというか……」

「でも、あの仮面の男たちから私を守ってくれたじゃない」

「あれはたまたまだよ。不意打ちを重ねられて……姿が見えてないって利点を活かせただけで、その場で剣とか振り回されたら怖くて近づけないもん」


 一応、魔法もそれなりにだが使えるとはいえ、相手を傷つける用途で使ったことなど一度もない。精々相手を驚かせるぐらいだ。奇襲や陽動が通じるのも、一人や二人が限度だろう。


「でも、今の私にそんな危険ってあるのかしら」

「……ない、かもしれない、けど」


 つい歯切れの悪い返事をしてしまったが、断言はできないのだ。颯太がこの街で過ごしてきた一ヶ月の間で、人が襲われる、怪我をするという事態には出くわしたことがない。目にする犯罪行為は精々盗難程度だった。

 しかし、だからといって油断はできるわけがない。一ヶ月好き勝手慣れ親しんだ城下町とはいえ、姿が見えない者として生きてきただけだ。この街の人間が、目に見える不審者にどんな反応をするかわかってなどいない。


「どうしたって君の見た目は目立つからね……」

「そう、ね……こんなにたくさんの人がいるのに、黒い髪や瞳をしてる人なんて、どこにもいないもの」


 それを抜きにしても、君は十分目立つ見た目をしているよ。とサラリと言えるほど颯太は口が達者でも経験が多くもなかった。颯太はこっそりと咳払いをして内心をごまかす。


「あなたがこんなロープを用意した意味も、今ならわかるわ……城の外でも、私はやっぱり異物なのね」


 寂しげに、悲しげに口にするクインの心情を、全部が全部理解できるとは颯太も思っていない。十六年間、彼女は異物として避けられて生きてきたのだ。その苦労を、辛さを颯太は理解できていない。一ヶ月いないものとして扱われてきただけで、避けられてきたわけではないのだ。どっちがより辛いのか、論じても答えは出ないだろうし、比べるものでもない。

 何を言えばいいのか。どう声をかければいいのか。もどかしい気持ちを抱えたまま、颯太がとにかく何かを言おうと、口を開こうとすると、


「うわぁっ!?」


 颯太よりもずっと幼い、少年の叫び声が聞こえてきた。


「な、何……? どうしたの?」


 活気のあった市場に突然響き渡る、幼い少年の叫び。道行く人は動きを止め、クインや颯太のようにその声が上がった方向へ視線を向け。

 一様に、目を逸らした。

 ある人は何事もなかったかのように。またある人は悲しげに。声を上げた少年の姿を、経緯を、行く末から目を逸らした。


「よくも俺の店から盗もうとしやがったな!」

「ち、ちがっ。僕は何も!」

「じゃあその持ってる物はなんだ! 言ってみろ!」


 市場の一角にある果物屋。そこに陳列してあった商品であろう果物の籠を、少年は握り締めていた。


「こ、これは、今から買おうと……」

「てめぇみたいな小汚ねぇ小僧が、金なんか持ってるわけねぇだろうが!」


 少年の身なりは、口汚い店主の言うとおり、決して清潔とは言えなかった。この街にも、数は少ないだけで、親や身寄りのない孤児はいる。防壁の外に広がる世界の獣や、颯太もまだ見たことのない魔物によって、命を落とす者もいた。


「か、金ならあるよ! ほら!」


 少年が焦りながらも、土や砂、おそらく自身の垢で汚れた服から硬貨を取り出し、店主に見せる。だが店主はその硬貨を一瞥しただけで、無言で少年の頬を叩いた。


「――っ」


 息を呑んだのは、おそらくこの場ではクインだけだ。

 地面に倒れた少年に、店主は腰を下げ顔を近づけ、威圧しながら睨みつける。


「今てめぇが持ってるものはな、その程度じゃ買えやしねぇんだよ。正直に言え」

「そ、そんな……本当に、僕は買おうと――」


 少年の弁明が最後まで続くことはなく、店主の爪先がそれを遮った。


「……クイン」


 今にも走り出そうとしていたクインの背中から、名前を呼ぶ声がした。


「――た、助けてはダメ、なの?」


 視線は逸らさないまま、クインの口から漏れ出す当然の質問に、颯太は首を振って答えた。

 少年は決して、嘘などついていなかったのだろう。本当に、正直に品物を買おうとしたのだろう。だが、額に届かなかった。それだけの話なのかもしれない。

 今この場で、その可能性を疑ってあげる者はいない。


「……どう、して」


 クインの手が、肩が震える。目の前に起きる、初めて見た外の世界で繰り広げられる光景を見て、怒りや悲しみ、それらがごちゃ混ぜになった感情が彼女の全身を中に生まれる。それは店主が未だ弁明を繰り返そうとする少年に向け、手を、足を振る度に量を増し積もっていく。

 飛び出さず堪えているクインは、決して常識がないわけではない。目で見たことがなかっただけで、城下の街にどういった問題があるのか知っていた。

 どういった問題があって、どういった理不尽があって、そういったものを正そうと奔走する存在のことも知っていた。自分の父がそういう立場であったし、その父の苦労を、影ながら見ていた。

 知ってはいた。理解もしていたつもりだった。

 それでも、決してなくならない理不尽を前にして、体が震えることを抑えることができなかった。


「……人通りが多い市場だから、盗難はどこの人も気をつけてるんだ。あの子も、誤解されないよう気をつけるべきだった」


 甘い顔をし続ければ、損をするのは物を売る側の人間だ。生活がかかっている以上、妥協などできるわけがない。多少行き過ぎた制裁も黙認されていた。現に通行人は見て見ぬ振りをして、騒ぎに気づいた憲兵らしき人間も駆け寄ってきたりはしない。


「殺されはしない、ってこと?」

「……だと思う」

「それは、この世界で正しいことなの?」

「……そうなのかもしれない」


 颯太が努めて作る無表情を見て、クインは少なからず落胆に似た感情を抱いた。颯太に対して、だけではない。自分が夢見ていた外の世界に抱いていた希望が、隅の方から薄汚れていくようにも思えた。

 自ら見たいと望んだ世界でも……こんな世界は見たくなかった。そんな、身勝手なことを考えてしまうぐらいに。

 胸を押さえ、唇を噛むクイン。その彼女の姿を見て、颯太は目を瞑りため息を吐く。


「……でも。俺には関係ないことなんだよね。そもそも、いくらなんでもやりすぎだ」


 雰囲気をガラリと正反対に切り替えた颯太が騒ぎの中心に向け、平気な顔で歩いていく。


「……え?」


 唐突な颯太の路線変更に戸惑うクイン。颯太は転がっていた、少年が手にしていた籠の中の果物を見て。


「ってこれ安物じゃねえかコラ」


 未だ少年を口汚く罵る店主の頭をひっぱたいた。

 スパーンと小気味の良い音が突然響き渡る市場で、再度視線が集められる。その音がなぜ響いたのか、店主も自分の頭部に走った衝撃はなんなのか、誰一人として元凶がわからず唖然とする。


「一応、一ヶ月もこの街を彷徨い歩いてたんだから、通貨価値とかわかってるんだぞ。この中身なら二三個ぐらいこの子が持ってた金額で足りるだろうが、ケチケチすんなよ」


 自分が見えていないだけで、渦中の人物であるという自覚があるのかないのか、飄々とした態度で落ちていた籠から果物を抜き出し、いくつか減らした状態で少年の傍に置く。そして少年の手から零れた硬貨を拾い集め、果物屋の店主が広げている屋台に置いた。

 クインから見れば、その光景は颯太の実体を伴っている。颯太が籠を持ち、硬貨を集め置いただけだ。

 けれども、他の人間には、颯太の姿が見えない人間からすれば。


「ゴ、ゴーストだぁ!」


 目に見えぬ、恐ろしい存在の所業に過ぎない。

 途端、市場は混乱する。さっき起きた小さな諍いを諦観し、無視していた者でも、誰であろうとも怯え、我先にと逃げ出していく。立ち尽くすクインの傍を恐怖に顔を彩らせた者たちが通り過ぎ。

 人がいなくなった市場に、颯太が一人立つ姿が残る。


「配慮が足りなかったとは思うけど……そんな逃げることなくない?」


 そう、苦笑を浮かべながら口にする颯太の姿が、あまりにも物悲しくて。


「……さ、気を取り直して宿探しに行こうか」


 気を利かせて明るく振舞う颯太に、クインは何も言えずに頷くことしかできなかった。

 初めて目の当たりにした、ゴーストという存在が振りまく、恐怖と混乱の結果。誰からも視認されることなく、善行は混乱を招く。

 その虚しさ、やるせなさを、クインはこれ以上ない形で思い知らされた。

 逃げる誰かに蹴飛ばされた果物の籠が、市場の隅に転がっていた。

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