燃え盛るヒ
羽上帆樽
第1章 荒唐無稽
自動車が放つ光と、市街地の喧騒。夜が深まっても、街が眠りに就くことはなかった。傍に立つ街路樹が、風に打たれて静かな音を立て、やがてまた枝葉の揺れが収まると、息の根を止めたように黙り込む。その永遠の繰り返しを経て今があると思うと、なんとなく風情があるような気がしないでもないが、そんなことは、世界中のありとあらゆる場面でいえることだから、正直いってどうでも良かった。
信号は点滅信号にはなっていない。この辺りは、この時間帯でも車の通りが多いから、昼夜三色の円形が常にそれぞれの色を放っている。一方で、横断歩道に設置された信号機は、常に二色の光しか放たない。二つで三つ分の役割を果たしているともいえるから、エネルギー効率が良さそうで良いな、と彼女は思った。
暗闇月夜は、歩いていた。
こういう説明をするとき、人の頭は大抵回っていない。月夜の頭もその通りで、今は何も考えていなかった。何も考えていないと、何かを考えたくなるが、それでも何も考えない姿勢をとり続ければ、その内脳も言うことを聞いてくれる。ただし、そういうタイミングで自分以外の誰かから環境を破壊されるというのも、またこの世界に備わった一つの定理みたいなものに思えた。
「今日は気合いが入っているな、月夜」
隣を歩く小さな黒猫が、月夜に向かって声をかけてくる。
月夜は一瞬だけ横を見て、瞬きをし、彼の身体に負けないくらい小さな声で訊き返した。
「気合い?」
「服装が、いつもと違うだろう?」
歩きながら、月夜は自分の服装を確認する。今日の彼女は私服だった。何の変哲もない、ジーンズに薄手のシャツ姿だ。特に拘ってはいない。帽子を被ってこようかと思ったが、特に意味がないのでやめておいた。
「別に、何も違わないと思うけど」
「いつも、制服を着ているじゃないか」
「寝るときには、パジャマを着る」
「じゃあ、私生活では」
「私生活?」月夜は首を傾げる。「寝るときは、私生活の一部じゃないの?」
「そうかもしれないが、一般的にそういう印象は受けない」
「君の言っていることが、分からない」
「それなら安心だ」黒猫は言った。「実は、俺も分かっていない」
時刻は午後十一時を迎えている。この時間でも、電車は普通に運行している。学校に行くときに利用する駅から電車に乗って、学校に行くときに降りる駅で、彼女は電車を降りた。つまり、ここは学校から程近い場所になる。駅には二つの出口があるが、今日はいつもとは反対側の出口から出た。学校は今は彼女の背後にある。
出かけた理由は、大したものではなかった。突然、黒猫の彼が外に散歩に行きたいと言い出したから、その通りに従っただけだった。
「ねえ、フィル」月夜は黒猫の名前を口に出す。「どうして、こんな遠くじゃないといけないの?」
「そりゃあ、もちろん、少しくらい遠出をした方が面白いからさ」
「何が、どう面白いの?」
「色々と」フィルはそっぽを向く。「まあ、お前には理解できないだろうがな」
「理解しようと、努力はするよ」
「努力が報われないこともある」
「帰るときは、どうするつもり?」
「普通に帰る」フィルは答えた。「朝になれば、また電車はやって来るさ」
今は春休みだから、夜更ししても問題はない。それ以前に、月夜は、平均的に、夜更しをしても問題ではなかった。彼女の身体がそういうふうにできているからだ。寝なくても平気な身体というのは、生きていくうえで最大の資本になる。ほかの人間よりも、行動に当てる時間を多くできるからだ(身体だけに)。
道路は真っ直ぐ続いている。右手には海があるが、今は見えない。大通りは合計で四車線で、昼間ほどではないものの、今も次々と車が走り抜けていく。左手にはマンションが立ち並んでいた。光の群衆は、どこまで行っても消えることがない。橙色の光が、この広大な空間に相まって、飛行場のような雰囲気を纏っていた。
「夜の街こそ、俺達に似合っているというものだな」フィルが独り言のように呟いた。「やはり、俺とお前には、こういうシチュエーションが提供されないと困る」
「何が、どう困るの?」
「色々と」フィルは説明する。「牡丹餅が、ちゃんと棚に仕舞われているようなものさ。それが、冷蔵庫とか、宝箱とかじゃ駄目なんだ」
月夜は牡丹餅が宝箱に入っている光景を想像する。ちょっとだけシュールな感じがして、けれど魅力的に思えないこともなかった。冒険の先に待っている宝物が牡丹餅なら、少しはやる気が出るかもしれない。
「フィルは、牡丹餅が食べたいの?」
気になったから、月夜は彼に訊いてみる。
「俺か? 俺は、何も食べたくはない」
「じゃあ、どうして、棚から牡丹餅、なんて言ったの?」
「この現状が、まさにそんな感じだったからだよ」彼は言った。「こんな時間に、こんな場所で、お前とデートできるというのは、棚から牡丹餅と表現する以外にないだろう?」
「よく、分からない。ごめんね」
「いや、いいんだ」フィルは横を向く。「俺の、自己満足だから……」
月夜にとって、フィルは一人の知り合いだった。といっても、彼女には知り合いがあまりいない。学校に友人がいないのは当然だし、彼女には家族もいなかった。だから、フィルは彼女の数少ない支えともいえるかもしれない。けれど、仮にフィルがいなくなっても、自分一人でも充分に生きていける感覚が、月夜の中にはあった。それはフィルに対する軽視とは違うが、それに似たようなものかもしれない。彼女は彼が好きだが、自分の傍にいるかどうかは、あまり重要ではないと考えていた。
途中で大通りから逸れ、人気のない裏道に入る。住宅街に切り込みを入れたような細い道で、街灯の明かりがぼんやりと先を照らしている。ただし、向こうまで見渡せるわけではない。照明の光は脆弱で、遠くまで見通せるほどの威力はなかった。
「こういう道を歩いていると、お化けに遭うかもしれないって、思ったことはないか?」
フィルに質問されたから、月夜は答える。
「ない」
フィルは顔を上げ、月夜をじっと見た。
「本当か?」
「うん」
「口裂け女とか、塗り壁とか、いつか会えたらいいな、と思うことがときどきある」フィルは話す。「きっと、彼らは、本当は幻想的な存在なんだろうな。滅多に出会えないということは、希少価値があるということだ。まあ、彼らに出会ったが最後、そいつは恐怖を味わうことになるのだろうが……」
「口裂け女と、塗り壁は、妖怪で、お化けではないと思う」
「じゃあ、お化けとは何だ?」
「フィルは、どう考えているの?」
「今言った通りだ。俺の中では、口裂け女も、塗り壁も、等しくお化けだ」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
月夜は黙って考える。
「もとの存在がいて、それらが化けた姿、だから?」
「いや、違う」フィルは薄く笑う。「なんとなく、そんな気がするからだ」
「なるほど」
「月夜にとっての、お化けとは何だ?」
「フィル」
「俺か?」
正面を向いたまま、月夜は頷く。
「俺は、お化けではない」フィルは話す。「俺は、あくまで、物の怪だ」
月夜には、お化けも、妖怪も、そして物の怪も、すべて等しい存在だった。等しいというのは、イコールという意味ではなく、等値、等価という意味に近い。それらは、すべて人間の空想の産物という意味で共通している。実在すること、あるいは実在しないことを証明するのは困難だが、おそらく、創作されたものであることは間違いない。
ただし、その内の例外が、彼女の隣にはいる。
彼が自分でそう言ったように、フィルは生き物としての存在ではない。一度死んで、それでもなおこの世に留まり続ける存在、つまり物の怪らしい。彼が自分でそう言っているだけだから、それだけでは説得力に欠けるが、月夜には、それがおそらく本当であることが、感覚的に分かっていた。
裏道を進み、途中で左に曲がって、少し広い道路沿いに出る。ここは、車はほとんど走っていなかった。歩道に沿っていくつか商店が並んでいるが、すべて閉まっている。鰻屋の前から暖簾は消え、酒屋の前にはシャッターが下りていた。
横断歩道を渡り、先ほどと同様の進行方向に戻る。
商店街に入った。
「そういえば、テストはどうだったんだ?」フィルが唐突に質問してきた。
「終わった」月夜は答える。
「結果は?」
「結果は、良好」
「それなら、よかったな」
「特に、よかった、とは、思わない」
「努力の成果が出たんだろう? じゃあ、よかったじゃないか」
「努力をした覚えはない」
「お前は、本当に冷たいやつだな、月夜」
月夜は少しだけ顔を横に向けて、フィルを見る。
「うん……。どうしようもないから、仕方がない」
「いや、それでも、俺はお前が好きだよ」フィルは話した。「だから、何も心配しなくていい」
「心配は、していない」
「してくれ、少しは」
「どうして?」
「理由はないが、俺がそうしてもらいたいんだ」
「分かった」
「そういうところは、優しいんだな」
「もう、私のことは、大体、分かっているんじゃないの?」
「まあな」
「どうもありがとう」
「なぜ、感謝する?」
「なんとなく……」
「さっきから、会話が成り立っていない気がするな」
「そう?」
「ああ」
「それは、ごめん」
「いや、すぐに謝らなくていい」フィルは苦笑いする。
「会話をするのが、苦手だから」
「それなら、無理に話さなくてもいいさ。俺が何か訊いても、無視してくれて構わない。答えたいときだけ、答えてくれ」
「答える、とは、どういう事態か?」
「は?」
フィルの言う通りに進行方向を決めているが、月夜には、彼がどこに向かおうとしているのか、薄々分かっていた。彼が目的地を設定している場合の話だが、彼の傾向からして、そこに向かおうとしていると考えるのは、妥当な気がする。
商店街も、今は静かだった。こんな人気のない時間が、月夜は好きだ。どれほど周囲に人気がなくても、その場所に自分だけは存在するから、完全に人気がなくなることはない。人気の「人」に自分が含まれないという条件があるとか、あるいは、そもそも自分が人ではないとか、そういう可能性ならいくらでも考えられるが。
商店街を抜けると、再び大通りに出た。先ほどの大通りと、こちらは並行しているイメージだ。ただし、こちらは先ほどのものよりは交通量は多くなかった。時間が関係しているのではない。どの時間帯でも、こちらを利用する人はあまりいない。
通りのすぐ傍に、モノレールの線路が走っている。ただし、列車は運行していない。線路を支える脚がいくつも立ち並んでいる光景は、人工的だが、それが却って儚くもあった。人間が誰一人としていなくなり、都市が蛻の殻になっても、きっとそれらの建造物はずっとここに残り続ける。
横断歩道を二回渡って、反対側の歩道へ。
目の前に、広大な敷地の入り口があった。
「こんな時間に、ここに来て、大丈夫?」
入り口の前で立ち止まり、月夜は隣のフィルに尋ねた。
「お前なら、大丈夫さ」
「どういう意味?」月夜は訊き返す。
「深い意味はない。ただ、誰も俺とお前のことは気にしないし、捕捉もされない」
そうかもしれないと思ったから、月夜は頷いた。
この先には、人工的に作られた砂浜が広がっている。一言でいえば小規模な海水浴場で、海の向こう側には工場が散見できる。この海水浴場は、それらの工場の敷地の一部でもある。工場は人工島の上に建てられており、その実験段階の場所として、この砂浜が形成されたという噂だった。
石畳の道を進み、カーブして左手に逸れる。海水浴場全体は、大きな弧を描いて展開されている。弧の右側にはバーベキュー施設が点在しており、弧の内側に海が、外側には草原と松林が広がっている。とても開放的な場所だが、それらはすべて人工的に作られた産物にすぎない。すぎない、と否定的な印象を受けるのは、どうしてだろうか、と月夜は考える。
石畳の道は、砂浜と松林の間を通っている。道幅はかなり広く、自動車が横に並んで四台くらいは走れるだろう。その中心に立って、月夜は正面をじっと眺めた。
「どうして、ここに来たの?」
月夜はフィルに尋ねる。
彼は小さな顔を上に向け、月夜の顔を下から眺めた。
「さあ、どうしてかな?」
「何か、用事があるんでしょう?」
フィルは可笑しそうに笑った。
「なんだ、気づいていたのか」
「何を、するつもり?」
「それは、あとでのお楽しみだ」フィルは言った。「まあ、いいさ。お前に気づかれるかもしれないとは、当然考えていた。ただ、何も言わなかったから、まだ気づいていないのかと思っていたんだ」
「私に、できること?」
「さあ、どうかな」フィルは曖昧に答える。「それは、やってみないと分からない」
フィルが砂浜の方に向かって足を進めたので、月夜は彼についていった。途中でしゃがみ込み、彼を自分の腕の中に抱く。砂浜の細かい砂が足に付くと、払うのが面倒だからだ。月夜は、今日はスニーカーを履いていたから、砂の上は少し歩きづらかった。
心地の良い風が、二人を攫うように吹き抜けていく。
遠くには、工場の赤い光。
そして、静かな波の音。
海に特有な生臭い匂いは、ここではしない。
すべて、作り物だから。
そんな寂しさが、辺りに漂っているような気がする。
今日は、空は晴れていた。雲も浮かんでいるが、その密度は小さい。星が見えたが、月は見えなかった。月も、星の一つなのに、区別したがるのは、人間の本性だろうか。
途中にあった手近な岩に腰をかけ、月夜はフィルと一緒に休憩した。
「夜の海は、素敵だ」フィルが呟いた。「こんなストレートな感想は、言うもんじゃないな」
「じゃあ、どうして言ったの?」
「言いたかったから」
月夜は頷く。
「たまには、こういうのも悪くないだろう? 月夜も、家で勉強してばかりだと、逆に頭が悪くなるぜ」
「うん、そうかもしれない」
「なんだ、やけに素直じゃないか」
「じゃあ、そうじゃないかもしれない」
「どちらも、言っていることは同じだ。つまり、不確定」
沈黙。
ここには今は誰もいない。遠くの方で、海へと続く階段が、波の飛沫を受けている。
正面を向いていた顔を左に向けて、月夜は遠くの方を観察する。
カーブした海水浴場。
その弧の左の終点には、少し小さめの斜張橋がかけられている。
そして、その先。
橋の向こう側には、人工島が連結されている。
その上にあるのは、湾曲した金属で構成された奇妙な建造物と、天に向かって伸びた鉄塔。
海水浴場の先には、遊園地が存在していた。
「その遊園地が、今回の目的地だ」
黙って景色を眺めていると、フィルが声をかけてきた。
月夜は彼の頭を撫でる。
「そこに、行くの?」
「ああ、そうだ」
「何をしに、行くの?」
「行けば分かる」
「いつ、行くの?」
「もう少ししたら」フィルは目を瞑る。「俺と、お前の時間を、堪能し終えたらだ」
遠くから船の汽笛が聞こえてくる。こんな時間でも、労働をしている者がいる。ただ、そういう人たちは昼を休息の時間に当てているのかもしれない。月夜は学生だから、昼間は学校に通わなくてはならないが、将来的には、そんな束縛のない生活ができたら良いな、と彼女は考えていた。夜に活動して、昼は休息というふうに制限を設けるのではなく、そうした制限から解き放たれた、自由の確立された生活をしたい、という意味だ。
しかしながら、その一方で、ある程度の制限は必要だと考える彼女も、月夜の中に同時に存在していた。自由は、それだけ見れば素晴らしいが、他者の自由とぶつかることで暴走することもありえる。それを防ぐには、やはり自分で自分に制限をかけるしかない。そうした癖をつけておかないと、いざというときに対応できなくなる。
「そんな制限は、自分で作ろうとしなくても、いくらでも存在しうるさ」
フィルが呟くように月夜に伝えた。
「本当に、必要かな?」
「制限がか?」
「そう」
「自分で、今、そう考えたんじゃないのか?」
「そうだけど、それすらも、私という制限がかかった頭で考えた、意味のない思考かもしれない」
「それはそうだ。しかし、今のところ、その束縛から解放される術はない。そうだろう?」
月夜は頷く。
「今は、自分を信じるしかない。自分で考えた結果すら疑ってしまったら、もう、何も信じられなくなる」
「フィルがそう思えるのは、自分を信じているから?」
「そうかもな」
月夜はフィルから顔を逸らし、頭上の天界に視線を向ける。
「私は、まだその段階に至っていない」
「それは時間の問題だろう。俺は、少なくとも、お前よりは長く生きたから」
「どうして、時間が経つと、解決できるようになるの?」
「自分なりの答えを出すことに成功するか、問題と向き合うことを放棄するか、そのどちらかを選択せざるをえなくなるからだ。人間なら、それらを促すのは、やはり寿命という名の制限だろう」
「フィルは?」
「俺の場合、その制限がないことが、すでに制限になっている」
「それでも、自分を信じられる?」
「俺はな」フィルは話す。「お前がどうかは分からない。月夜は、答えを出すときに、いつも理由や根拠を必要とするからな。俺にはそうした傾向は認められない。俺は、理由がなくても信じられるし、根拠がなくてもそれでいいと思える」
「私も、理由や、根拠がなくても、フィルは信じられるよ」
「自分は信じられないのにか?」
「そう、だと、思う」
「それは致命的だな」
「うん……」
フィルは自分の前脚を舐める。
「それでも、少しは前進できていると、そう感じているんじゃないのか?」
月夜は再びフィルを見た。
「どうして?」
「なんとなく、そんなふうに見える」
月夜はまた前を向いて考える。
たしかに、そんな感じがしないこともなかった。程度の大小は分からないが、様々な経験を通して、少しずつ前の自分とは変わっているような気がする。以前よりは世界を客観的に捉えられるようになったし、自分に対しても、少しは許容する術を習得したように思える。
けれど、それが本当に前進と呼べるのかは、月夜には分からなかった。変わることが必ずしも良いとは限らない。環境に適応するのは生物の特性だが、環境そのものが悪い方向に変化しているのであれば、それに合わせて変化する生き物は、果たして良い方向に向かっているといえるだろうか。
考えても答えが出るような問題ではないと判断して、月夜は一時的に思考を中断することに決めた。こんなふうに、何かを諦める方法を彼女は知っている。ただし、それが自分のこととなると、そんな簡単にはいかなくなる。そういうのを、自分が好きだというのかもしれない。それは間違えていない。ただ、いつまでも考えてしまうのは、自分が好きだから、と簡単にまとめてしまうことはできない。それは、やはり、自分が好きだからにほからないのだが……。
「さて、では、そろそろ行こうか」フィルが言った。
「もう、いいの?」月夜は尋ねる。
「ああ。短くても、良質な時間を過ごせたからな」
「良質?」
「お前とこういう話ができる時間が、俺は好きなんだ」
「フィルにとって、何かいいことがある?」
「物質的な利益は得られないが、楽しければそれでいいんだよ。どうだ? 人間的な判断だろう?」
「いつものフィルと、変わらないと思う」
「そうか。それなら、もっと褒めてくれてもいいんだぜ」
「フィル、凄い」
「そんな言い方はないだろう」
立ち上がり、月夜は軽く伸びをする。制服に比べると、私服の生地は柔らかくて、幾分身体が自由に動くような感じがした。
砂浜を歩く。海から溶け出した水分を含んで、砂は微かに湿っている。
弧のカーブに沿うように、こちらにも松の木が立ち並んでいた。この環境で生えているのは不自然ではないが、やはりどこかわざとらしい感じがする。
「月夜は、人工的なものと、自然なものなら、どちらが好きなんだ?」
肩に載ったフィルが、月夜に尋ねた。
「どちらとも、好きでもないし、嫌いでもない」
「どちらかというと?」
「うーん……。たぶん、人工的なものが、好き」
「ほう……。それは、なんというのか、意外だな」
潮風が吹く。衣服と肌の間に空気が通って、気持ちが良かった。
「意外?」
「月夜は、どちらかというと、風情を重視すると思っていた」
「風情とは?」
「そういう質問は、しない方がいいんだがな」フィルは話す。「まあ、ある事物がその状況にある状態を、肯定的な立場で捉えて許容する、みたいな感じじゃないか」
「人工的なものに、風情は適用できないの?」
「できるかもしれないが、そういうのは普通風情とはいわない。もともと、その場所にあったわけじゃないからな。人の意思で作られたものだから、それがその場所にあるのは必然の度合いが高くなる。いってしまえば、風情が偽造されているようなものだ」
「私は、そういうものも、許容する必要がある、と思う」
「ほう。なぜだ?」
月夜は黙り込む。
「たぶん、そうしないと、自分が困るから」
フィルは首を傾げる。
「どういう意味だ?」
砂浜が終わり、石畳の道に合流する。弧の形をした海水浴場の、左の端に向かうところだ。道は左右に分かれていて、左に行けば、弧の外周を歩くことができる。一番外側にある松の林は、入り口から繋がっている石畳の道と、今目の前にある石畳の道で挟まれた形になっている。ちょうど、バナナの実が皮で包まれているような感じだ。
月夜は道を右に進み、先ほど見えた斜張橋がある方へと向かった。
「こっちでいいの?」月夜は尋ねる。
「ああ、そうだ」フィルは答えた。
この辺りには、釣りができるスペースがいくつかある。ただ、人工的に作られたこの島で、どんな魚が釣れるのか、月夜は知らなかった。人工的、人工的、と繰り返し考えていると、この世界に存在するほとんどのものが、人間の手によって作られてきたような気になってくる。そういうところから、人間は神に近づきたい、あるいは神になりたいと思うようになるのかもしれない。
若干道が開けて、左手に階段が出現する。その先にはモノレールの駅が存在するが、月夜はそちらには向かわなかった。
さらに道を進み、もう一つ階段が現れる。それを上がり、右に曲がると、人工島への連絡路となる斜張橋が、さらにいえば、フィルが目的地として定めた遊園地への入り口が、二人の前に姿を現した。
月夜はその前で立ち止まる。
彼女の肩から飛び降り、フィルは地面に軽々と着地した。
「ここの門が、夜に開いていることは、稀だな」フィルは呟いた。
「それも、君のせい?」
「さあ、どうかな」彼は不敵に笑う。「俺も無関係ではないが、完全に関係がないものは、どこにも存在しないからな」
「この先に向かえばいいの?」
「それ以外に、どうしろと言うんだ?」
「引き返して、家に帰る」
「月夜がそんなことをするとは思えない」フィルは話す。「では、俺から改めてお前にお願いしよう。一緒に、この先に向かって、ある人物に会ってほしい」
「待っている人がいるの?」
「まあな」
月夜は無表情で呟く。
「それを、先に言ってほしかった」
夜の斜張橋は、どこか重厚で、威圧感がある。夜に校舎を見上げても同様の感覚を抱くが、こちらの場合は、それよりも幻想的に見えた。一本の支柱から複数本のワイヤーが伸び、それぞれが力を合わせて、橋全体を支えている。社会の構造と同じだが、それより協力的に見える、とでも表現すれば良いだろうか。
月夜は歩く。
彼女の隣に並んで、フィルも一緒に進んだ。
「遊園地は、もう、やっていないみたいだね」
顔を上げて、フィルは月夜に尋ねる。
「なんだ? もしかして、何かアトラクションにでも乗りたかったのか?」
「メリーゴーラウンドに乗ったことがないから、一度乗ってみたかった」
「乗れるさ、すぐに」
「どうして?」月夜はフィルに尋ねる。
「お前のすぐ隣に、由緒正しい王子様がいるのを、知らないのか?」フィルは言った。
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