第45話 カシイアヤメの迷走記憶

カシイアヤメは混乱していた。

未完成の記憶のパズルのピースは、其々に色褪せていたり、奇妙なまでに鮮明だったりと、鮫島結城の生きた証である生命の証明との整合性がつかないのが理由だ。

例えるならば、チャップリンや黒澤明の映画に、スパイダーマンが登場して、バイオハザードの世界観が繰り広げられていく。

不釣り合いのフォルムに、アヤメは翻弄されながらも、程の良い絵コンテを完成させるしか、己の生き残る道はないと考えていた。

グレイやセピア色をしたピースは、野田秀実と暮らしていた頃の記憶で、当時の主人格は三宅リヨツグ。

しかし、破局の後に再会したコンビニエンスストアの景色は鮮明で、強盗目的にも関わらず、秀実は嬉しそうに微笑んでくれた。

そして途端に意識が喪失したかと思えば、覚醒時に解体された秀実の耳を掌に乗せていた感触は、今でも脳内に残されている。

幾度も愛し合った女の肉片は、形はどうであれそれ自体が愛の証なのだ。

涙を流したか、涙は流れたのかは覚えていない。

だが、虚無感が押し寄せたのも事実だった。

死んでしまった彼女のカケラ、千切れた耳にキスをして想い出に浸りながら、その大部分はSEXの記憶であり、恍惚の表情の秀実の唇や眼差しだったりと、カシイアヤメの愛情は壊れた羅針盤の如く偏っていた。

迷宮世界。

そう呼んでいるシャングリラの記憶もツギハギだらけで、トニーや見知らぬ誰かと、意見交換をしたのもいつの頃かは覚えていない。

だが、最近現れた、自称作家という人格とはウマが合わないような気がした。

アヤメが生命を実感出来るのは、覚醒し、空気を感じ、怒り、悲しみ、喜び、嘆くことで、その中には、チャイムを鳴らして無防備に現れた相手を、皮肉な目つきで罵り、暴力で支配する快楽も含まれていた。

アヤメは、バンドで拘束された四肢の感触を確かめながら、初めて世界に覚醒出来たあの日の光景を、快い甘美と共に思い返した。

それは、マスターベーションにも似た自己的な何かを伴って、気まぐれな波のように打ち寄せては消えた。

2008年。

鮫島結城の父親である古尾谷は、畳の上で白目を剥いて気絶していた。

大量の血液が頭部からは流れ出て、部屋中は錆びついた臭いが充満していた。

妻の美幸は、血に染まるゴルフクラブを手にしたまま座り込んで、肩を震わせながら咽び泣いている。

それがどうにも歯痒くて。


「母さん、自由になれるチャンスじゃん! 今を逃したら後がないって。これからも、殴られたり蹴飛ばされたりするつもり? いつまで血を流すの? もういいって! 充分じゃん! やめようよ、終わらせようよ! こんな奴の奴隷のままでいいわけないじゃん! もう・・・終わらせるべ」


「・・・ゆうくん・・・」


「僕はこいつの性奴隷だったよ・・・僕だって終わらせたいんだ、母さんさ、もう終わりにしよう」


「・・・でも、どうやって?」


「こいつは今、気絶しているよね? 母さん、罪悪感とかある?」


「ゆうくん・・・お母さんわからないわ・・・」


「気絶させたのは母さんだべ? こいつがさ、もし、むくっと起き上がったらどうすんの? 謝るの? ごめんなさい、許してくださいって謝るの!? だけどさ、こんなに血まみれじゃん! 無理だって、だって無理だべ! 自分だったら無理っしょ!?」


「・・・」


「待ってて!」


アヤメはそう言って、押し入れから粘着テープを取り出すと、古尾谷の四肢に巻きつけて、叫ばれないようにと口にも貼り付けた。そして、延長コードを首に巻き付けたところで美幸の声がした。


「ゆうくん! それ以上はダメ!」


激しい口ぶりに面食らったアヤメは、しばらくその場を動けないでいた。これまでに自分が創り上た人生で、初めて他人に威嚇された瞬間、不覚にも萎縮した自分を恥じると、不思議と笑みがこぼれていた。


「母さんさ・・・なんで?」


「・・・」


「てか、なんか言ってよ」


「・・・私がやるわよ」


「出来るの?」


アヤメは用心深く言った。

数度、自分に言い聞かせるように頷いた美幸に。


「だったらうつ伏せにさせて、背中にまたがってさ。首に巻きつけたコードを思い切り引くと良いよ。こいつは見とくからさ、母さんは目を瞑って思い切りやるだけでいい!出来る!?」


「出来るわ」


美幸とアヤメは、古尾谷の身体を転がすようにうつ伏せに寝かせた。

畳に出来た血溜まりで、足を取られた美幸は倒れ込んで嗚咽したが、それはすぐに治って、血で汚れた顔で、瞬きひとつせずに作り笑いを浮かべた。

その時、くうっと咽喉を鳴らして古尾谷の背中が動いた。

咄嗟に馬乗りになった美幸は、コードを引き上げながら呪文のような言葉を並べた。


「あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ、あなたが悪いのよ」


アヤメは、色気のなくなった病室の天井を眺めながら、何故、自分が目覚めると、人間が死んでいるのかを考えた。

この部屋のモスグリーンの所々には、血痕らしき模様があって、囚われの身(アヤメからすれば、患者も囚人も捕虜も同一なのだが)の、苦悩を思い知れされた。


「人間の死というのは、始まりに過ぎない」


かつて所属していた宗教団体の恩師フロイトが、信者達に繰り返し語っていた言葉がある。

この世は仮想現実であって、存在する生命体は全てがアバタイトと呼ばれている。仮想世界と実世界(天宮世)の扉は、月が放つクレイマと、地平線との境に存在しているが、愚かなアバタイトの一部は、その扉・シャングリラルアに気付き始めている。

それこそが終末であって、探究の扉を開けば世界は終わる。

生きるのに執着するのは、死を恐れないということ。

他者は仮想であって、実は存在していないのだ。

即ち、自分のみが真理なのである。


産まれてすぐに、臍の緒が付いたままでコインロッカーに捨てられたアヤメは、人間そのものを嫌悪し、己の存在さえ否定していた。

神奈川の、米軍基地近くの養護施設を出て金を貯め、何の躊躇もなくアメリカへと飛んだ。極東の、ちっぽけな島国に居場所はないと考えていたからだ。

日本の政治や社会、自分を棄てた民族(アヤメはいつしかそう思うようになっていた)への未練はなく、日増しに憎悪と破壊願望が増幅していく。

アヤメにとっての渡米は自己救済で、生きる術でもあったのだ。


「フロイト!フロイト!!!!!!オマエは誰だったんだ!!!!!」


拘束された身体に、憎悪という電流が走り抜けた。

アヤメは叫びながら気を失った。

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