第43話 夢のあと

大皿に積み重なった唐揚げを前に、翔子はぼんやりと、昼下がりに見た夢の内容を思い出して、その原因を探っていた。

鮫島結城の中に潜む三宅リヨツグという人格は、性別を超越した色香を漂わせて、関わった人間を結果的に不幸に陥れる。

翔子自身も、取材中に惑わされた記憶があった。

シャツから覗く、綺麗な鎖骨を目にしてドキリとしたのもそのひとつで、夢から覚めた後は下着が濡れていた。

起きて直ぐに熱いシャワーを浴びても、ほのかな欲情は頭から離れずに、久方ぶりに浴室で自慰に耽っては嫌悪感に苛まれてしまった。


「本来の鮫島結城とは、どんな人物なのだろうか?」


翔子は考えた。

自分の身体を借りて、別の人格が好き勝手に振る舞う行為の恐ろしさを。

知らない誰かと恋に落ちる。

痴情の縺れの果てに殺人を犯す。

窃盗を繰り返す。

身体を売る。

それを自分は知らない。

なんて不幸な人生なのだろう。

しかも、そんな男の担当医・瀬戸際大楽は血も涙もないサイコパスで、治療目的で鮫島結城に接近させた若い研修医は、自慰行為中に死んで自死扱いにされた。

遺体の傍らには、ボイスレコーダーが転がっていた。

そこに記録された、トイレ内での情事を思い返しながら死んだのだろうと瀬戸際は言っていたが、顔色も変えずによく言えたものだと、翔子は内心憤慨していた。

私生活では、恋人の哲也の浮気と嘘に深く傷付いた。

何よりも許せなかった嘘は、流行病による給与カットを打ち明けられずに、内緒でフードデリバリーのアルバイトをしていたことで、それを母親の野の花に言うと。


「あんた、そんなこと言ってるけど、ほんとは浮気をされたのがいちばん悔しかったんじゃなかと?」


「はあ!?」


「だから前からお母ちゃん言ってるがね、内縁の妻もいいけど・・・」


「ユニオンリーブルよ!」


「どっちでもよか、ここは日本じゃ! そうやってうろちょろうろちょろしとるから、男ん人だって逃げるんだよ。あんたね、まだ若いって思ってたら大間違いだからね、あっという間だよ、40になってごらん、誰も見向きもしないよ!」


「そんなことなか! お母ちゃん古いよ! どっちの味方ね!」


「夢から覚ましてあげようとしてるんだがね、あんたね、さっき起きた時泣いてたよ!」


「泣いてないが!」


「泣いとった!」


「泣いてなか!!」


「泣いとった!!」


「泣いてないもん・・・」


冷静になって考えると、野の花の言葉も一理あると翔子は思った。

自分を偽りながら生きている。

ストレスに晒さる毎日に、突然現れた非日常の世界。

深入りし過ぎた為に、理性が侵食されてしまったのだろう。

そう結論付けることで、解決策は出なくても安心できた。

1年ほど前まではパンデミックもなく、哲也との交際にも支障はなかった。

ユニオンリーブルと言ったところで、何れは結婚して子供を育んで、歳を重ねて死んでいくのだと頭の片隅では想像していたが、それを実感するのは恐怖でしかなかった。

しかし翔子は、鮫島結城の取材の中で、平凡な日常のありがたみを思い知らせれもした。

グラスに入った湯の中に、芋焼酎がゆっくりと注がれていく。

皺の増えた野の花の手はやさしい色をしていた。

翔子は、初めて嗅ぐ甘い香りに微笑みながら。


「なにこれ、よかね」


「そうでしょう、酒屋のせいちゃんに薦められたんだよ。ロックや水割りも良いけどねお湯割が最強。ふんわりしてるの。あたしはね、もう毎日焼き芋焼酎だよ、三岳も良いんだけどね、しばらくはこれでいくが」


「焼き芋焼酎?」


「そうだよ、東京にはないでしょう」


「多分無いかもね、ネットとかではあるんだろうけど」


「ま。よかが。飲むが飲むが」


幾つになっても好奇心旺盛な野の花を見て、翔子は苦しみからやっと解放されるのではないかと期待した。

唐揚げをつまみながら。


「お母ちゃんはさ、鹿児島でずっと独りだがね。時々淋しくなったりしないの? なんだろ、例えばさ、東京に来ていっしょに暮らすのは嫌なの?」


「いやよ」


「なんでね?」


「都会暮らしは合わんの。歩くスピードが違うがね。電車の乗り方も解らんし、今更訛りは変えられん。標準語は無理じゃ」


「なんね、かごんま弁のまんまでよかよ」


「いやよ」


「なんでね?」


「東京シティーガールじゃなかがね、そいやったらかごんまに居た方がよか。それにね・・・」


「うん」


「あたしはひとりじゃなかよ。遠く離れとっても、翔子、あんたがおるがね。だからぼっちじゃなかよ」


「そうだけど・・・」


「それにあたしはまだまだモテるんだよ。薩摩おごじょじゃ。誰かと恋に落ちるかもしれんどぉ」


「酒屋のせいちゃん?」


「まさか、せいちゃんは85じゃ、あたしは年下がよか」


「ウケる! あんだけ男は懲り懲りじゃ言うちょったのに、なんね、ひったまがった、で、誰け誰け?」


「言わん」


「ないごてね?」


「恥じらう乙女に、情けをくいやい」


野の花はそう言うと、ぐいっと焼酎を飲んだ。

幼い頃は泣き虫で、仮病を使って小学校を休みがちだったひとり娘が、親の目の前でしっかりと意見を述べている。

野の花は華やぐ心を抑えて、翔子に胡瓜と人参のぬか漬けを勧め、空になったグラスに湯と焼酎を注いでやってから。


「まだ呑めるでしょう?」


翔子は一口、口をつけて。


「お母ちゃんの言う通りかもしれんね。向こうとこっちじゃなんかね、時間の流れ方が違うよね。人間関係もドライだし・・・だけど、それはそれで良いなって思う時もあるんだけどさ、たまになんだけど、わっぜ人恋しくなるのよ、変な意味じゃなかよ、人肌じゃないからね、人が恋しくなるの」


「わかっちょっが」


「だけどさあ、向こうだとその人がいないのよ・・・」


「なんね、前からおらんのね? 哲也くんも違ったの?」


「全然違う。今になってわかった、私無理しちょった、素直じゃなかったがよ、強いおなごでいたかったのけ? もうね、お母ちゃんのせいだよ」


「ないごてね?」


「お母ちゃんのDNAのせい!」


「なんねそれ?」


野の花は首を傾げて笑った。


「あ〜あ、もう鹿児島に帰って来ようかなあ」


「いつでもウエルカムじゃ、無理せんで戻ってこんね、だってアレでしょう? 作家先生だけでも充分なんじゃないの?」


「そうだよね」


「翔子が戻って来たら、またお店やろうかしら?」


「まだ働くつもり?」


「美人親子の焼酎バー、流行るよお」


「飲食は厳しいがね。そうそう、お母ちゃんはちゃんとワクチンは打ったのけ?」


「もちろんだよ、あんたはね?」


「とっくに打ったよ、でもみんな、あんまりマスクもしなくなったがね・・・」


「ほいでよ!」


「ほんのこつ」


「ま、でも大丈夫たっが! 日本政府がイギリスから取り寄せたワクチンでしょう。舶来品に頼るのも情けないけど、これで安心じゃ」


野の花は頬を赤らめながら、愉快そうに笑った。

翔子はそんな母の姿を見て、今の自分は幸せなのだと言い聞かせた。







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