第41話 Everything's Gonna Be Alright
野の花は多額の借金を抱えながら、離婚後も小料理屋・いであを経営していた。
古民家風の店内には、テーブル席と立ち飲み式のカウンター、そしてテラス席が設けられていて、大半は常連客で占められていた。
女性ひとりでも入りやすいようにと、リニューアルされた店内は至ってシンプルで、木目調の壁と間接照明。ポスター類は一切無く、手書きのメニュー表はちいさな冊子になっていた。
過去を葬り去りたい。
改装は、野の花の決意の表れでもあった。
いも焼酎をワイングラスで飲むスタイルは、地元紙で紹介されるほど注目されていたが、心無い客はそれをネタにして野の花を揶揄った。
中には、好意を寄せる者もいたが。
「男はもうこりごりだよ」
と、野の花が言うと、男たちはそれ以来店には現れなかった。
翔子が大学を卒業して、都内の雑誌社に就職すると同時に、野の花は店をたたんで雀の涙ほどの年金で質素に暮らすようになった。
母屋は司令室、灯りの消えた小料理屋・いであは秘密基地だと翔子は言っていたが、野の花はたいそう気に入ってその言葉を好んで使った。
元々野の花は読書家で、あらゆる書物を読み耽っていた学生時代、プラトンの哲学書と出会い、理解困難な内容に人生の無意味を見つけた。
なんとなくな答えは、今でも変わりなく。
人間の本質は誰も見ることは出来ず、理解することも不可能で、生きていることの意味など全くないのだから、自分探しなんてやめてただ生きてみよう。辿り着く先がシャングリラであるとしても、それは果たしてユートピアなのだろうか?
等々、秘密基地にしてしまえば全てがしっくりくると考えて。
「私の終焉の地は秘密基地である」
と、遺言書にもこっそり認めていた。
飛行機事故で亡くなった両親がしてくれたように、野の花もそうした。
お陰で、財産分与で揉めることもなく、親族とは疎遠になったものの、それはそれで有り難かった。
遺言書
遺言者、鴻上野の花は次の通り遺言する。
1、私は、私の所有する別紙1の不動産並びに、別紙2に記載されてある秘密基地及び地下施設(小料理屋・いであを含む不動産)を、娘翔子に相続させる。
2、私は、私の所有する別紙3の預貯金を、娘翔子に相続させる。
3、私は、この遺言の遺言執行者として、次の者を指定する。
住所 鹿児島県鹿児島市新屋敷町2丁目 職業 弁護士 氏名下水流誠
尚、私の終焉の地は秘密基地であるから、それらに関わる一切の出来事や脳内の記録は他言無用である。
遺言者 鴻上野の花
「シャレです」
と、遺言作成時に、野の花は弁護士に言って退け。
「ま、堅苦しくなくて、良いかも知れませんね」
と、若い弁護士も笑っていた。
母野の花と、娘翔子の想い出は、事実地下室にしまい込んであった。
別離した夫が趣味で作ったこの部屋は、元は映画鑑賞用の娯楽施設で、プロジェクターとスクリーン、ワインセラーと巨大な業務用冷蔵庫が置かれてあった。
しかし夫の蒸発後は、映画館としての役割は終わり、アルバムや高価な焼酎の保管庫となって、店をたたんだ後は、業務用冷蔵庫のみが唸りを上げる部屋となった。
生い先短い人生、脳幹をピストルで撃ち抜く運命にはないなと、野の花は微笑んで、廃れた庭に足を踏み入れた。
この土を踏むと、決まって頭痛に悩まされるのだが今日は違う。
愛娘との再会の為に、大好物の唐揚げをこしらえなければならないのだ。
野の花は足早に、そんな忌み地を後にした。
翔子が母屋に着いたのは昼過ぎで、中からは香ばしいニンニクの香りが漂っていた。揚げ物をこしらえる油の音は、幼い頃の記憶のまま、色褪せることもなく気持ちを和らげてくれる。運動会や遠足の時も、必ず入っていた冷めても美味しい手羽元の唐揚げは、小料理屋・いであの人気メニューでもあった。
大学時代に帰省すると、翔子はいつも店に立たされて、看板娘の重責を、拙い微笑みとよそよそしい相槌でやり遂げた。常連達は、気さくな母親とは真逆な娘の態度を快く迎えた。不器用ながら、社交的に振る舞う姿に好感が持てたのだ。
荒れた庭には目もくれずに、玄関ポーチの石段を上がるや否や、野の花の声がした。ふと、梁にかかる防犯カメラを見て。
「ああ、そういうことか」
と、翔子は納得して我が家に足を踏み入れた。
リビングに配置された家具はどれも背が低くて、そのお陰もあって天井は高く見えた。
ファンシーリングライトは、規則的なリズムで室内の空気を循環させている。
クーラーからの冷気と、カウンターキッチンからの熱気。
翔子はその心地良さを身体いっぱいに浴びながら、スウェーデン製のロングソファーに身を投げた。
日本製のコンパクトラジオスピーカーからは、90年代の洋楽ヒットソングが流れていて「Everything's Gonna Be Alright」のフレーズに合わせて、野の花もいっしょに歌っていた。
「テレビは見ないがよ、もうねえ、いつも流行病のニュースばかりで疲れた」
そう言っていた野の花は、24インチのテレビを棄てていた。
「お母ちゃん、ワクチンは打ったの?」
「打ったよ、だから安心だがね、マスクもね、してない人が多いよ、東京はどうなの?」
「東京はぼちぼちだね」
「なんね、ぼちぼちって?」
「半分半分、ま、どっちでもいいが、だってよお、私の取材してる人達もしたりしなかったりだよ、あくまで要請だからね、好きなようにするが」
「そうそう、好きなように生きなさい」
「はいはい」
翔子にとって、流行病のパンデミックはどうでもいい現実だった。
変異型天然痘ウイルスによって世界は分断された。
一部のメディアからは、研究施設と国際テロ組織との関与も取り沙汰され、アメリカとロシアは責任の擦り合いをしている。
日本政府は、アメリカの製薬会社からのワクチン供給をいち早く受け入れられた為に、変異型天然痘ウイルスによる死者は、年間で一万人弱と抑えられていた。
だが、そんな話題は庶民にはどうでもいい内容で、失業率や自殺率、生活困窮者やひとり親家庭の金銭的援助、ハラスメントに苦しむ人々の救済こそが、生きる上での大問題だった。
翔子は、くるくる回るファンを眺めながら考えた。
鮫島結城も、そんな見捨てられた人間のひとりなのだと。
居場所のない人がいる。
駅のホームで見かけた若い女性のホームレスは、いつもスマホを握りしめ、徐々に艶の無くなっていく髪の毛を、愛おしそうに指で絡めながら目を閉じていた。
語りかける勇気を持ち合わせていない自分を、ジャーナリストなんて呼べやしない。だから翔子は、自分のことをライター、若しくはウェブ作家と名乗り続けた。
野の花の声が聞こえる。
「ま、ゆっくりしとかんね、疲れたでしょう、起こしてあげるが」
「うん、あんがと、お母ちゃん」
翔子は微睡みながら、自分は幸せなのだと言い聞かせていた。
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