第39話 8月の鹿児島

鴻上翔子は、汗ばんだ額をタオルで拭うと、深く息をついてドルフィンポート跡地を横目に、早朝の湾岸道路を走り抜けた。

知念正也の葬儀のあとで、鹿児島へ帰省したのは半ば思い付きで、鹿児島中央駅に到着すると、タクシーを拾って山の上の老舗旅館に一泊した。

どうしても、そのままの足で、母親に会う気にはなれなかったからだ。

都会の暮らしで学んだのは、早く歩くことと無関心を装うこと。

そうすれば、心を痛めずに済むと思っていた。

しかし、哲也の浮気と別れ、知念の自殺と瀬戸際大楽の心無い言動によって、翔子は憔悴しきっていた。

母親に会えば、きっと甘えてしまう。

余計な心配はかけたくないから、間をおくのは最善だと考えた。

宿に着いて露天風呂に浸かり、下着一枚で缶ビールを飲むと、翔子は声をあげて泣いた。

保ち続けていたプライドが、夏祭りの綿菓子みたいに溶けてく。

はじめからそうしたかったのだ。

気が済むまで涙を流したかった。

女将が食事を運んで来たのは、そんなさ中で。


「あらあら、今夜は桜島でん眺めながら、ゆっくり眠らないといかんね、焼酎でも飲んだらケロッと忘れられるが」


翔子は、言われるがままに御膳の小鉢を口にしながら泣き続けた。

つけっ放しのテレビからは、ローカル局にありがちな情報番組が流れていて、名も知らないタレントが方言で話をしている。そのイントネーションは心地良かった。

いつから自分は、標準語で話すようになったのだろう?

あんなに嫌っていた故郷は、こんな裏切り者でもあたたかく迎えてくれているのに。

きびなごの天ぷらと鳥刺しの味が、涙と鼻水でよくわからないでいる。

それでも、翔子には充分だった。

散々泣き腫らすと、気分は次第に落ち着いて、頑なに守り続けていた恋愛観や人生観も馬鹿らしく思えて、不甲斐ない自分を笑えるようにもなっていた。

立ち上がって窓を開ける。

錦江湾に浮かぶ桜島のシルエット。

月光のあたる海面は、台風の過ぎ去った夏夜の星々を、ゆらりゆらりと瞬かせながらフェリーを目的地へと誘っている。

終日運行の桜島フェリーだ。

遠い昔に、船上で眺めた夏の花火大会の思い出と、うどんの味が翔子の脳裏にまざまざと甦る。

さつま揚げとネギだけの素朴なうどんは、デパートの屋上レストランのナポリタンよりも美味しかった。だが、そんな本音など誰にも言えないまま、今日まで歳を重ねたことを今更ながら後悔していた。

明日、船に乗って昔を取り戻そう。

そして、久々に走ろう。

翔子はフロントへ出ると女将に礼を言って。


「あの、この辺でランニングシューズを売っているお店はありませんか?」


「へ? 今の時間ですか?」


「いえいえ、明日の朝でもいいんですけど」


「朝は流石に開いちょらんねえ、山の下に石川靴店ってありますけど、10時からですからねえ、あ、ちょっと待っちょってください、足のサイズはおいくつですか?」


「25です」


「そんなら良かった」


女将は奥へ下がると、ピンクのラインの入ったスニーカーを持ち出して。


「これで良ければ差し上げますが、私のなんですけど、パンデミックのお陰で走る気力もなくなってしまいました、サイズも同じですがよ」


「いえ、それは申し訳ないです」


「申し訳なくないですよ、使ってもらった方がこん靴も喜びますが」


女将はそう言いながら笑った。

目尻の皺に気苦労が見えた。

翔子は重ねて礼をのべて、その夜はぐっすりと眠りに就いた。


ドルフィンポートはバンガロー造りの商業施設で、飲食店や土産物店を中心に、かつてはカップルや家族連れで賑わっていた。

ところが、パンデミックによる売り上げ縮小と、鹿児島県との定期借地契約終了に伴い、運営会社はあっさりと撤退して、今では更地となっている。

翔子は、そんな空っぽの光景を目にしたくはなかった。

息の詰まる想いでその場を後にしたものの、久方ぶりのジョギングに疲れた翔子は、海の見える公園のベンチに腰掛けて、スポーツドリンクを飲みながら、人間なんて気まぐれなものだと笑った。

昨日まで、桜島フェリーの記憶に黄昏ていたのに、いざ朝起きてみると今度は無性に母親に会いたくて仕方がない。

既に連絡はしておいたから、加治屋町の実家に戻れば懐かしい味と、屈託のない笑顔が迎えてくれるだろう。

その証拠に、LINEのメッセージには。


「なにが食べたい?」


の文字と、使い慣れていない場違いなスタンプが残されていた。

波の音が、さやさやと聞こえる。

蝉の大合唱がはじまる。

鼻頭の汗が唇へと伝う。

その味を揶揄いながら、翔子は再び鹿児島の街を走り始めた。























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