第30話 沢口院長の回診とフラッシュバック
白衣に身を包み、各病室を見回る沢口は、脳神経内科医師の長谷川勝敏、医療ソーシャルワーカーの矢内みのり、作業療法士の一色総一郎、そして、薬剤師の勝己弘人と、認知症認定看護師の加藤聖子らを従えながら、久方振りに参加したカンファレンスの光景を思い返していた。
窓から差し込む陽射しの中で、色良く白くなった頭髪と、それなりの恰幅、眉間に出来た皺の数と低い声は、参加した医師らに威厳を知らしめたことだろう。
ふかんで万事を捉える。
それは、沢口の愛する言葉だった。
東京の国立大学医学部を卒業し、40歳で付属病院の助教授になって、父親の跡を継ぐ形で帝北神経サナトリウム病院で教授になり、そして院長にまで上り詰めた半生、外部からの嫉妬や権威争いに打ち勝てたのは、愛すべき言葉を糧に生きて来たからであると沢口は信じていた。
人一倍小心者で、評価や認知に過敏だった少年時代、そんな境遇を救ってくれたのは家柄で、地元の有力者であった父を頼りに、自宅へと足繁く通う大人達を推察しては、この世界は、地位と名誉と対価で成り立っていると感じた。
見返りを求め、蝿のように群がる権力者達を蔑みながら、内心では己の人間観察力を過大に自己評価して喜んでいた。
ふかんで万事を捉えるは、こうして沢口の生涯理念として形成された。
患者達に声をかけ、目を通しておいたカルテと照合し、不安の有無や、健康状態を本人の口から探り出す。その時間は沢口にとって治療ではなく、威厳のアピールでもあった。
瀬戸際のいない回診はやり易く、普段より時間をかけても苦痛ではなかった。
沢口はひと通り回診を終えると、病室に居ないふたりの患者、統合失調症の宮原文雄と、解離性同一症の鮫島結城の元へ足を向けた。
内藤靖子医師によると、デイルームで向かい合わせに読書をしているらしく。
「それは結構なことだ。後で私から向かうから、そっとしておいてあげて下さい」
「宜しいのでしょうか? お手を煩わせて申し訳ありません」
「いやいや、自然体が一番だよ。私のことは気にしないでくれたまえ。患者さんが第一だからね。うむ、実に結構じゃないか、鮫島さんと宮原さんは別段変わったことはないかな?」
「はい」
「それは良かった」
沢口は、デイルームの片隅に座っているふたりを眺めながら、前から気に入っていた内藤医師に、瀬戸際大楽を上回る威厳を見せつけたことに満足げな笑みを浮かべ。
「穏やかな光景じゃないか、おっと、鮫島さんは、今は三宅リヨツグかな?」
と、取り巻きの医師らに言って笑った。
向かい合って座る宮原は、夏目漱石の坊ちゃんを読んでいた。
愛読書の表紙はボロボロで、日焼けした紙は所々に擦り切れている。
継ぎ接ぎだらけの背表紙は、セロハンテープで補強され、それは瀕死の重症患者の様にリヨツグには映っていた。
リヨツグは、タブレットを片手に、ペイントアプリで想い出の光景を描いていた。
鮫島結城の脳内で覚醒した人格達は、それぞれの人生を経験している。
三宅リヨツグは、代々和菓子屋を営む夫婦のもと、南国のちいさな街に長男として産また。妹思いの優しい少年は、将来、絵描きになることを夢見て、母親が趣味で始めた家庭菜園の茄子や、オクラや、ズッキーニをスケッチしては、小学校の担任の先生に見せて、上手だねと褒められるのが嬉しかった。
何処にでもある、平凡で幸せだった家庭は、夏休みに発生した単独航空機事故によって崩壊し、犠牲となった母と妹の跡を追って自殺した父親は、リヨツグを連れて行ってはくれなかった。
親族の家をたらい回しにされた挙句、いじめられ続けたリヨツグは、人間を信用しなくなった。
自分の名前も嫌いになった。
陸に次ぐと書いてリヨツグ。
家族が死んだ理由は、名前のせいではないかと思い、空を恨んで大地を呪った。
居場所のない青春時代、リヨツグは家出を繰り返し、その度に警察の厄介になった。放浪癖はこの頃からだと瀬戸際には説明して、そこで知り合った若い巡査と肉体関係を持ったのが、バイセクシャルだと自認出来たきっかけだった。
人生は予測不能だからと言っていた巡査は、未成年だったリヨツグとの関係が発覚した後に、懲戒解雇され電車に飛び込んで死んだ。
それは、若手俳優kyo-ji、研修医の知念正也共に、リヨツグに心を奪われた男達の末路だった。
「あ、あ、あ、あんな弱虫は、お、お、お男じゃないよ。温めていませんよね、な、なんでもないです、な、な、な、なんでもないです」
宮原の声がした。
リヨツグが驚いて顔を上げると、宮原は咄嗟に目を伏せて、再び読書のふりをした。
「ままま、全く御殿女中の、の、生まれ変わりかなんかだぜぜぜ、こここ、ことによると、温めてませんよね・・・あいつの、お、お、お、親父はゆゆ、湯島の陰間かも知れない、かかか、陰間、陰間、ここにいる」
宮原はリヨツグを指差して言った。
微笑みを向けながらリヨツグは。
「かげま? 陰間ってなに?」
「知っている。綺麗すぎる男は陰間、なんでも知ってる。お前、陰間。男か女かわからないから、綺麗すぎるから陰間、陰間、陰間」
「調べてみるね」
そう言うと宮原は大人しくなって、ウトウトと眠り始めた。
リヨツグは、ペイントアプリを閉じて、タブレットの辞書で「陰間」を調べると。
陰間、男色を売った男娼の総称。 美少年による売春のこと。 陰間は、男性相手が主。女性を客に取ることもあった云々の表記と一緒に、近年の代表的な陰間の事件簿といった文明現代の記事が表れ、鮫島結城の顔写真と、ごみ集積場の画像がリヨツグの視界に飛び込んだ。
同時に、意図しない映像が脳内に描かれていった。
生臭さが鼻をつく。
雨の匂いが髪の毛にじっとりとまとわりついて離れないでいる。
瑠璃紺色の空は、薄花桜色へと変化していた。
怒号が響く。
「ほらほら! カップ麺だの弁当容器だの! ちゃんとルールを守らんか! ふざけんなよ!」
道行く人々が足を止める中、ごみ袋からどす黒い血液が広がっていった。
肩から切断された人間の右腕がアスファルトを滑る。
その手はまるで、何かを訴えかける様に天を仰いでいた。
「お父さん・・・」
「陰間、ここにいた。見つけた」
容赦のないフラッシュバックで、現実世界が区別できなくなったリヨツグは、慚愧の念に耐えかねて咽び泣いた。
知念正也を弄んだ卑猥な言葉や、互いに絡み合わせた生温かい舌先と、不自然にやさしく思えた指先の感触が記憶から消せない。
それは苦痛でしかなく。
「大好きだったのに、置いていかないでよ、みんな大好きだったのに、置いてかないでよ。ひとりにしないでよ!」
流れ出る涙を拭い切れないまま、同じ台詞をリヨツグは呟いて、ふっと目を閉じたかと思えば、爪を噛んで舌打ちを繰り返す。
こうして鮫島結城の人格は、三宅リヨツグからカシイアヤメへと交代した。
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