第15話 鮫島結城を考察する私の憂鬱と北九州市八幡区香月町で発生した惨殺事件

かくして私も、他人格と同じように鮫島結城を考察する訳だが、人生の軌道から外れた原因は2008年にあると考えている。正確に言えば、古尾谷和正(父)と鮫島美幸(母)の間に産まれた日時、即ち彼の誕生日こそが奇妙な生涯の始まりといっても過言ではないが、そこに結論付けるのは知的探求心の放棄といえよう。

前にも述べたように、私は俗物でありたくはない。

人の一生とはドラスティックであり、破滅と希望の境界線で喘ぎ苦しむのだ。

だから私も、死にたがりの出来損ないについて、根本を深く深く見直すとしよう。時間は無制限に存在するのだから。

鮫島結城を魅了させる「死」は、存在の消失でしかない。

天国や地獄もなければ輪廻転生もない。宿命や宿業、運命や天命、死へ向かうだけの生涯に意味を持たせる言葉は、人間を苦悩のどん底へ突き落す劇薬だ。服用しないのが賢明である。

しかし、こう言うと不思議に思われるかもしれないが、神がかりやまやかしは必要悪で、それらの作用によって秩序を保てる人間がいるのも確かだ。

霊魂、幽霊、怨念、祟り、運勢、祈祷、交霊、悪魔祓い云々もその類と云えよう。

では生命とは何だ。

私は人間を考える。

その行為はまわりまわって、鮫島結城を考察するに等しい作業となる。

では、自死は何故いけないのかという人間に、私は質問したい。


「どうして君は生きているのだ?」


質問を質問ではぐらかすなと言われそうだが、躊躇するから生きている。死にたければとっとと生命を断てばいい。人なんて簡単に死ぬ。

だが、君を再び創り上げることは人間には出来ない。

これまでに君が見たもの、君が感じたもの、君が考えたもの、君に聞こえたもの、君が心を揺さぶられたもの、君が味わったもの、君が悔しかったもの、君が大切にしているもの、君が忘れてしまいたいもの、君が触りたいもの、君の生きた全ては数分で消滅する。

私からすれば実に勿体ないのである。

死にたがりの出来損ない鮫島結城、君に伝えておく必要がある。


「オマエは決して、かけがえのない特別な存在ではない。勘違いするな。オマエは確かに美しい。壊してしまいたくなるのだよ。その瞳、その唇、その長くて華奢な手足・・・オマエが何者なのかという問いは、議論する余地もないガラクタ的な愚問である。自己啓発、自己開発、自己変革に溺れながら自慰に浸っていればいい。オマエの大好きな死を迎える頃に、絶頂に達するだろうよ・・・聞こえているか、鮫島結城。オマエは水とタンパク質と、脂質の塊だ。もっと詳しく言おう。オマエは酸素、炭素、水素、窒素、リン、硫黄、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、塩素、亜鉛、鉄、銅、ヨウ素、マンガン、セレン、モリブデン、コバルト、ニッケル、バナジウム、クロム、金、銀、ストロンチウム、ヒ素、アルミニウムで構成されただけの偶然の産物だ。人間とはそういうものだ。下手に生き抜こうとするから辛いのだ。下手とは言ったが言い換えよう。上手に生きようとするから苦しいのだ。遅かれ早かれ人は死ぬ。慌てる必要もない・・・それに・・・オマエが死んだら私も死ぬ。私は覚醒したばかりだ。もう少し楽しませてくれ。人間を構成する物質は解っているのに、これだけ文明が発達してもそれを創ることが出来ない。そんな世界で、生命について議論を交わすのは人間くらいなものだ。愚かだよ・・・まあ、苦悶の表情をしたオマエは好きだがね・・・」


胎児のように背中を丸めて、スースーと寝息を立てて眠る。

かれこれ何年そうやって生きて来たのだ?

意思と智慧を放棄し、目覚めれば死への欲求に耐えられない。

鮫島結城は赤子だ。

1994年、福岡県北九州市八幡区香月町生まれ。

母親の美幸は再婚で、父親の古尾谷とは職場のスナックで知り合った。

客とホステス、入籍はせずに同棲生活が始まって、流れのままに出来た子供が鮫島結城という訳だ。

しつけと称した虐待が始まったのは4歳の頃からで、美幸は知らぬ顔で良き妻を演じていた。母ではなく女として。

それを良いことに古尾谷の体罰はエスカレートしていった。

私の憩い処でもあるシャングリラに居ると、どんな些細な情報もインプリンティングされるのだ。2歳の頃に可愛がっていたぬいぐるみの名前、4歳の誕生日に食べた最後のショートケーキの味。6歳の頃に食べた塩ラーメンの匂い、そして父親から受けた性的虐待。

素直に助けを求められずに、仮病を使って大人達の気を惹こうとした小学生の頃、初恋の女の子にはそれが原因で嫌われたのも知っているぞ。

そう、ひとりの男の人生という森の中を彷徨っているのだ。

作家としての力量を試されているのかも知れない。

インプリンティング・フォレスト。

次なる作品のタイトルは決まった。


ーインプリンティング・フォレスト(失われし記憶)ー

ウイルスは細胞内に侵入して、自らの遺伝子と細胞の機能を利用してタンパク質を生成する。それは、ウイルスにはタンパク質を合成する仕組みがないからだ。偽物の鍵を使って受容体を利用して感染する。

勿論、宿主も無抵抗のままではない。

ウイルスを排除するために、熱や頭痛、倦怠感を引き起こして体内で闘っている。

中には長期間宿主と共存し、免疫を免れる強者もいる。

ヒトとウイルスの闘いの歴史は古く、ここまで述べて私はあるコトに気が付いた。

人間は時折人をまやかし、感情を支配して共存する。

寄生された者は、不条理や不誠実に敏感にはなれない。

自らが崩壊してしまうからだ。

ウイルスの指令に従順に従い、人生の大半を過ごす人間もいる。

生存する為の脳の仕組み、解離性同一性という名の免疫機能によって、青春時代を抹消された少年を私は知っている。

ウイルスは彼のすぐ傍にいて、その機会を虎視眈々と狙っていた。

少年の感情にじわりじわりと侵入して、遂には恐怖という名のもとに感染したのだ。


1994年、少年は福岡県北九州市八幡区香月町の武井産婦人科で産声を上げた。

八幡区は製鉄業で栄えた街で、祇園公園を境に東地区と西地区に別れていた。

東地区は山の手と呼ばれ、住民の多くが富裕層で占められていた。

西地区は再開発の中止に伴い、かつての黒崎村一帯は貧困層が暮らす公営アパートが立ち並んでいて治安も悪かった。香月町はその一角にあった。

父親は区役所務めで評判も良く、母親も働き者だった。

だが少年が4歳の頃、しつけという虐待が始まった。

夕飯を残した少年を問いただす母親に、反抗的な目を向けたという理由からだった。

母親がスナックへ出勤すると、逆上した父親は少年を風呂場へ閉じ込めて冷水を浴びせた。


「ちっとは頭を冷やさんか!飯は残さず食え!頭を冷やせ!謝れ!」


「ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。もうしません」


裸の少年は、顔を真っ赤にして泣いて詫びた。

叱られている理由も判らないで、ひたすら反省の言葉を述べた。

腫れた目を向けて。


「おとうさん、ごめんなさい」


と、許しを乞うても、冷水は浴びせられ続けた。

恐怖と冷たさで少年の華奢な身体は震えていた。

父親は。


「俺はお前の悪いところを直してやってんだ。いいか、誰にも言うな、言ったらお母さんだって悲しむからな。お前がお母さんを睨んだのが悪いんだ! もうするなよ!」


「しません。ごめんなさい。誰にも言いません。ごめんなさい」


「これ以上、お母さんとお父さんを困らせるなよ!」


教育熱心、夫婦円満、中流家庭、子煩悩、絵にかいたような真面目人間。

職場でのイメージとは裏腹に、父親は溜りに溜ったストレスを、息子に対する虐待とギャンブルという手段で発散した。

負けた腹いせと、少年の目つきが自分を責めているように思えたのが理由で、無抵抗な子供を目の当たりに感情を爆発させると気が晴れた。

しかし、身体を傷つけることはしなかった。

虐待という意識があったからだ。

少年の意思は、この日を境に崩壊していった。

一方の母親は、父と息子の関係に深く関わろうとはしなかった。

ふたりは仲の良い父と子を演じていた為に、虐待の事実を知るのはずっと後になってからで、現状の母親は幸せだった。

公務員の夫と広めの公営アパート。

以前の旦那とは違って、浮気や薬物とは無縁な家庭。

ありふれた幸せがここにあると、母親は信じ切っていた。


穏やかな日常生活を取り返すために、少年は父親からの要望を全て受け入れるよう心がけた。母親の知らないところで叩かれても、裸にされて土下座させられても、虐待という教育が終わった後には「おとうさん、ありがとうございました」と言って作り笑顔を絶やさなかった。

そうしていくうちに、暴力は減っていった。

だが、そううまくはいかないことを少年は予感していた。

中学生になって思春期を迎えた頃になると、父親の異質な目つきを感じるようになった。

性に目覚め始めた少年は、両親が居ない隙に自慰行為をするようになった。

想像だけの快感は次第にエスカレートして、自分で胸や腹や太ももを弄るようになり、それでも物足りない時は、自分で鏡を見ながら自慰にふけっていた。

声を洩らし、喘ぐ姿は美しかった。

そこに存在する人間は赤の他人に思えて、鏡越しに口づけをしながら舌を突き出して、絶頂に達すると身体を震わせて幾度も果てた。白くてキメ細やかな肌。たまごのようにつるつるの肩をギュッと抱きしめる。そうすることで安心も出来た。

自分らしくいられる秘密の時間は、ありのままの姿を、ありのままにさらけ出せる特別な儀式の中だけで成立するものであって、誰にも束縛されない鏡の中の世界へ行けたなら、生きているよりもどれだけ幸せだろうと思うようになった。

しかし、少年の純粋で淫靡ともとれる行為は、天井のルームファンに取り付けられた隠しカメラで録画されていた。

少年の父親と母親はセックスをしなくなった。

理由があるわけでもない。

夫婦仲が悪いわけでもない。

ただ、父親の性の対象が息子へと移ってしまったせいでセックスレスになったのだ。

母親は店の常連客と恋仲になって、年下の若い肉体に溺れていたから好都合だったのだろう。求められなくなって内心安堵していた。

しかし、近親相姦という事実は知る由もなかった。

少年は、生きている価値がないことをこの頃から自覚し始めて、死に場所や最期に辿り着く先を思い描くようになった。

そうすることでかろうじて生きていられる。

そんな矛盾だらけの生活は、何も教えてはくれなかった。

 

「死にたがりの出来損ない」


誰かが言っている気がする。

クラスメイトも先生も、皆心配している素振りで笑っているのだと思うと、少年は苦しくて死にたくなった。

赤く太いロープを100円ショップで購入して、自宅の勉強部屋でひとり、首に巻いて絞めてみると、死と隣り合わせの快楽が押し寄せた。

少年は、鏡に映る自分を見ながら、青ざめていく唇を愛撫して泣いた。

遠のいていく意識の先には、赤茶けた砂漠で遊んでいる幼い子供の姿があって、今にも折れそうな木の枝で地面に巨大な絵を描いていた。

精巧に模写されたゴーギャンの黄色いキリスト、農婦の被り物が上手く描けないのか、フォックス眼鏡の子供は地団駄を踏みながら唸っていた。

会話をしなくても心で通じる世界は、生と死の挟間にあるというのにとても愉快で。


「絵がうまいね」


と、思っただけで子供は直ぐに反応してくれた。


「ありがとう」


「ひとりで描いているの?」


「うん・・・いつもひとり」


「そうなんだ・・・」


「お兄ちゃんは?」


「おんなじだよ、いつもひとり・・・」


「そうなんだ、淋しくないのかい?」


「淋しいよ」


「じゃあ、友達になっておくれよ」


「なるよ」


「ほんと?」


「うん」


子供はすっくと立ちあがると、今まで描いていた黄色いキリストの上を走り回って、ヤモリのように少年の身体にピタリとくっついて離れなかった。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「イヤなことあったら、ボクが助けてあげる」


「・・・ありがとう、君、名前は?」


「トニー、お兄ちゃんのお名前はなんていうの?」


「鮫島結城」


「サメシマユウキ・・・」


トニーは唇を引き締めたかと思えば、ニッコリと笑って両の手を水平にピンと伸ばし、ヘリコプターのプロペラみたいにクルクルと回り始めた。

砂漠に描かれた黄色いキリストは、トニーが創りだしたつむじ風に乗って空へと舞い上がり、赤茶けた砂塵は、少年の妄想も希望も感情も、木っ端微塵にかき消していった。

この日、トニーとの出会いを境にして、少年の生きる苦しみは和らいでいった。

暴力や恥辱や心の痛みを、トニーが一手に引き受けてくれたからだ。

その見返りは時間の提供で、少年自身、喪失した記憶を取り戻したいとは思わなかった。

トニーは昔から共存していたと伝えてくる。

お兄ちゃんの全てを知っているとも、お兄ちゃんの知らないことだって知っているとも、ちぐはぐな心の共有は、行き場を失くしたジプシー達の断末魔にも似ていた。

事実、少年は健忘症に悩まされた時期があった。

幼少期、買った覚えのないクレヨンがランドセルの中に入っていたり、見たこともない絵葉書が教科書に挟まっていたり、学校から帰ってソファーに座った途端、夕暮れの川沿いに佇んでいたりと、説明のつかない事象がトニーの悪戯であるのなら、思い切って人生を交換しても苦ではない、いっそ、そうして欲しいと少年は懇願した。


「イヤだよ、ボクだってかくれんぼしたいもん」


「かくれんぼ?」


「お兄ちゃんが好きなやつ」


トニーは意地悪く笑って消えた。

例えようのない倦怠感が時折押し寄せてくる。

目覚めると、いつもベットの上で全裸になっていた。

女性ものの下着や、口紅をつけている日もあった。

ドクンドクンと脈打つペニスは触れてだけで激痛が走り、ああ、そういうことなんだ・・・と、少年は理解して再び眠りに堕ちた。

墜落していく。堕落している。崩壊している。狂っている。間違っている。嘘をついている。演技をしている。死にたい。死にたくはない。死ぬ勇気がない。死ぬのは病気だ。病気じゃない。死ぬ勇気があるなら生きろと言うのか。誰にいうのか。言えない。言いたくはない。言われたくもない。理解してほしい。他人を理解もしないでどの口が言う。抱き留めて欲しい。頭を撫でて欲しい。語りかけて欲しい。囁いて欲しい。手を繋いでほしい。ギュッと。強く。もっと強く。足りない、全然足りない、もっともっと受け止めて欲しい。だから強く。


「もっと世渡り上手になれよ。今のままじゃダメじゃん。大人になる必要もないけどさ、ガキのままでもダメだべ、利用すんだよ、逆に阿保面の大人達をこき使ってやんのさ、わかるべ、かくれんぼなんて止めちまえよ」


「あなたは誰ですか?」


「いつか判るさ、そう遠くない時期だからさ」


天井のシーリングライトが眩しくて、少年は目を細めた。

室内を見渡しても人の気配はない。

陽はとうに暮れて、公営アパート群の部屋灯りが、知らない家庭の団欒を映し描いていた。少年はベランダで、そんなありふれた影絵を眺め続けていた。

リビングのテーブルの上には、スーパーの総菜が並べられてある。

久しく手料理を食べていない。

少年は家庭の味を忘れていた。

音のしない空間でひとりぼっち、時計の針のチクタクを、同じリズムで口ずさむ遊びに飽きた頃、泥酔した父親が帰って来た。


「お帰りなさい」


と、言うと、父親は少年の服を脱がせて、髭剃り後の口元でその綺麗な身体を愛撫した。ナメクジのような舌先が口の中へと侵入して、歯茎や唇をのたうち回る。酒臭さと嫌悪感で、少年は意識を失っていった。

殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょう。

殺っちまえ殺してしまえ殺そうよ殺しましょうー

意識が乖離を始める時に、決まって木魂する外道の経文はそれ自体が曖昧で、2008年の湿度の高かったこの日も、壊れかけのCDデッキの如く突然停止して聴こえなくなった。

テーブルの上の総菜は片付けられていて、壁伝いには旅行用のキャリーケースと、二重三重に結ばれた半透明の袋の山が無造作に置かれてあった。

少年はカレンダーを見て驚いた。

丸二日間の記憶がなく、思い出せるのはナメクジみたいな父親の舌の感触だけで、体中も筋肉痛になっていた。

少年は、堪えていたものがぐうっと喉の奥から込み上げてくるのを感じた。窓を開けてベランダに出ると、朝靄が立ち込めていて、カビ臭さが背後から漂っては消えた。

母親の押し殺した声が聞こえた。


「結城! 何やってんの、早く窓を閉めなさい」


振り返って少年はぎょっとした。

窶れ果てた母親の、深海魚のようなぶよぶよの目が、真っ直ぐこちらを向いていたからだ。


「陽が昇る前に、棄てに行くわよ。きっと大丈夫、結城の言葉を信じるわ、きっと大丈夫」


「え?」


「生ごみや要らない下着も入れてあるし、新聞とかチラシとか、あ、そうそう、腐りかけのキムチとか味噌とか醤油とか、あとね、一年前の袋めんとかも一緒に入れておいたの」


「うん・・・」


「もう出なきゃ、陽が昇るわよ、お母さんはキャリーケースを運ぶわね、帰りはきっと夜になるからこれで好きなものを食べてね」


母親はそう言いながら、くしゃくしゃの一万円札を渡した。

大金を見て不安になった少年は恐る恐る聞いた。


「何処に行くの?」


「出来る限り遠くまで行って来るから、ちゃんと帰って来るからね、心配しないで」


ふたりは、簡単に身支度を済ませて外へ出た。

小雨のせいで肌寒かった。

瑠璃紺色の空の下、公営アパート2号棟の切れかけた非常灯を横目に歩く親子は、傘もささず、無駄話もせずに各々の目的地へ向かった。

先導する母親のキャリーケースの車輪が、濡れたアスファルトの上を滑って行く。

ガラガラと音を響かせながら、壊れたからくり人形みたいに。

少年は、両手にゴミ袋を抱えながら、そんな機械仕掛けの日常をぼんやりと眺めていた。

此処にいる理由も、失くしてしまった記憶もどうでも良かった。

熱に浮かされているか、若しくは白昼夢の中を漂っているのか、浮遊感を実感しながら集積場にゴミ袋を置いた。

母親は、振り返りもせずにスタスタと駅へ歩いて行った。

少年は再び自宅へ戻り、残りのごみ袋を運んだ。

最後の袋は、あえて離れた場所に置いた。それが間違いだった。

恰幅の良い、中年の自治会長が少年を呼び止めて。


「ダメだよ、ちゃんと中身が見えるようにしないと、最近はルールを守らない連中が多いから、プラスチックも瓶も缶も生ごみと一緒に棄てる輩が増えてね、そうすると持って行ってくれないんだよ、悪いけど中身を確認するよ、それと、お兄さん何処の人?」


「2号棟の・・・鮫島です・・・」


「はあ? ゴミ捨て場が違うでしょうが! なんでわざわざ隣棟まで持って来てんの! 中身開けっから!」


少年は、前かがみでゴミ袋を開ける自治会長の背中を見ながら、孤独感に埋もれていた。生臭さが鼻をつく。雨の匂いが髪の毛にじっとりとまとわりついて離れないでいる。瑠璃紺色の空は、薄花桜色へと変化していた。

自治会長の怒号が響く。


「ほらほら! カップ麺だの弁当容器だの! ちゃんとルールを守らんか! ふざけんなよ!」


道行く人々が足を止める中、ごみ袋からどす黒い血液が広がっていった。

自治会長は無造作に手を突っ込んで、袋の中から肉の塊を取り出して短い悲鳴をあげた。

肩から切断された人間の右腕が地面を滑り、少年の足元で止まった。

その手はまるで、何かを訴えかける様に天を仰いでいた。


「お父さん・・・」


少年は直感した。

自分の身体を散々弄んで、痛めつけた醜い父親の掌が助けを求めている。

切断面から飛び出た動脈は、死んだミミズの色で雨にさらされていた。

降りしきる雨が、アスファルトにちっぽけな世界を創り出していく。

水溜まりという大海原に、死んだ父親の血液や体液や脂が注がれて、虹色の波紋を広げながら何かを訴えかけていた。

パトカーの赤色灯が照らし出す街の灯りは幻想的で、土砂降りの八幡の街は、昔観たSF映画さながらのカオスな世界だった。

興味深げにこちらを覗き込む小学生の男の子がいた。

左目の下のほくろが可愛くて、ビー玉みたいな綺麗な眼差しが羨ましかった。

コンクリートミキサー車の脇をかすめる自転車と、電柱や電話ボックスに貼られた違法広告。飲み屋の前に不法投棄されたままの2ドアの冷蔵庫。

その上で、我が物顔で鎮座するカラスは何も知らない。

無邪気に笑う女学生と、それを気にもとめないホームレス。

少年はかつて、彼と話をしたことがあった。

前職は零細企業の社長をしていて、妻と娘と博多で暮らしていたことや、大学時代はカヌー部の選手だったこと。吸っていた煙草はラッキーストライク。


「この煙草はなあ、アメ公が原爆落した祝いに作った煙草なんだぜ、ラッキーストライク! なあ、俺の親は長崎で死んだんだよ」


「その話、本気にしてるんですか?」


「テメエみたいなガキに何が解るんだ! 弔いなんだよ、敵討ちなんだよ。クソまずい煙草を吸うだろ、奴らの魂が俺ん中へ吸収されるわけだ。俺な、肺癌になろうとしてんだよ。心中さ、アメ公共を道連れに死ぬんだ。洒落た笑い話みたいだろ。人生はコメディーなんだ。三文芝居なんだ。一生懸命に生きるなんて無意味だ。だから俺は今の有り様に後悔なんかしてえねえ。テメエにはまだ早いな。悪かった。だけどよ、日本に限らず世界は差別主義者の集まりだ。綺麗ごとばかり言う奴には気を付けろ。俺もまんまと喰わされた。その代わりに、やっと自由を手に入れたんだ。ラッキーストライク」


還暦を過ぎた元社長らしく、ホームレスは饒舌に語ってみせた。

現実逃避している最下層の人間。少年はそう思っていたから、月の小遣いの半分をホームレスに与えていた。

そうすることで、自分は彼よりも優位にある立場の人間だと実感出来た。

しかし、ホームレスは日に日に瘦せ衰えていった。

デパートの隅で、膝を抱えながら激しく貧乏ゆすりをして、何やら延々と独り言を繰り返している。そうかと思えば、突然歩道の中央で大の字になって。


「どうして俺ばっかり!!」


と泣き叫んだり、最低限のプライドも無くしていた。

伸び放題の髭と脂まみれの髪の毛と、ボロボロの作業着に爪の剥がれた傷だらけ足。街行く人々は、ホームレスを避けながら足早に通り過ぎて行った。

ふと、少年は彼の言葉を思い出した。


「いいかクソガキ、ようく覚えておけ。すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を持っているんだ。俺をずっと観察してろよ。その意味が判るさ!」


パトカーの中から見えるホームレスは、理科室の骨格標本みたいに、誰かにぶつかればバラバラに砕けそうだった。赤色灯の血の色が、土砂降りの雨の中で、もがきながら生きるひとりの老人をあざけ笑っている。自分も傍観者なのだと思うと、少年は気が狂いそうになった。


「健康で文化的な、最低限度の生活」


「ん?」


「健康で文化的な、最低限度の生活」


「なんだ? どうした?」


少年は何度も叫びながら、後部座席で暴れた。

両脇のふたりの警察官に抑えつけられても、心の叫びを止めることは出来なかった。雨の音と死んだ父親の腕が、頭の中でフラッシュバックをしている。

社会と関わるというのは、競争であって共存ではない。いずれ人は、影も形もなく消える。

ホームレスの悲痛な目が、そう訴えかけていた。


「健康で文化的な最低限度の生活、教えてください、なんですかそれ」


少年はそう言い残して眠った。

極度の緊張のせいで、身体は鉛のように重たく、喪失した記憶を取り戻そうと、脳は常に錯乱していた。

母親は程なくして博多駅で身柄を拘束されて、所持していたキャリーケースの中からは、父親の頭部と左大腿部が発見された。

少年法が改正された2008年、この事件は大いにマスメディアを賑わせて、少年に対する父親からの性的虐待や、母親の不倫、そしてネグレクトという問題まで、社会に与えた影響は大きかった。

一部の週刊誌は、少年を実名報道に切り替えた。


北九州・父親をバラバラにして生ごみに混ぜた母子の異常生活!

週刊・実録事件簿

少年Yを直撃!ごみ集積場に人間の肉の塊があるなんて誰も思わないって!発言の意図と、それに従う残念な母親!

週刊文冬

多重人格!?発端は性的虐待か!?父と息子・快楽に溺れたSEX依存!

週刊慎重

呆れた公務員の裏の顔と近親相姦!逆上した母は夫をメッタ刺し!

週刊未来

不倫相手を直撃!何故母親は、父と息子の肉体関係に嫉妬したのか?

週刊女性イレブン


母親は懲役12年を言い渡され、少年は心神喪失、及び重度の双極性障害と判断され、児童養護施設送致となった。

少年はこの頃から、今昔物語集の一説・火に飛び込む兎の話を好んで読むようになった。非力な兎と自分自身が重なって、自己犠牲でしか他人を救えない宿命に。


「私を殺して食べて下さい」


と、笑った。

と、笑っていた。

とだけ、笑った。

と、伏し目がちに笑っていた。


と、私はオマエの丸まった美しい背中を撫でている。

どの表現もしっくりこないまま数日が経過して、私は一旦筆を置いた。

古尾谷と美幸との間に産まれた絶世の美青年、それが全てなんだと言ってやりたいが、交わることも生涯ないのだから躊躇している。

しかし、インプリンティング・フォレストを彷徨いながら、私は鮫島結城の奇異な世界と同化し、長編小説を書き続けなくてはならない。

それが覚醒した理由だ。


にしても、オマエハイイイツザイだよ。


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