第11話 精神科医・瀬戸際大楽
ぬるま湯で丹念に手を洗い、ウイルスが付着しているかもしれない蛇口に水をかけて消毒液で手を拭う。今年に入ってからというもの、職場だけでなく日常生活でもこのルーティーンを守り続ける瀬戸際大楽は、やれやれと云った表情で化粧室を後にして閉鎖病棟へ向かった。
開放病棟から別館の閉鎖病棟へ向かうには、一旦外に出なくてはならない。
花壇に植えられた色とりどりの植物たちには目もくれずに、ポケットの中から鍵束を取り出すと、職員通用口の外扉を開けて院内へ入って行った。
正午を過ぎて小一時間は経っているが、とりたて急を要する診療もなく、長い廊下を歩きながら無理に怪訝な顔をして歩く姿に、看護師一同はまたかという顔をした。
瀬戸際自身も、笑われている自覚はあった。
威厳と貫録を表現してる訳ではないが、この閉鎖病棟へ入るとどうにも表情が強張ってしまうのだ。
職業病だろうか。心療内科に診てもらわねばならぬ・・・そう思うと自然と笑みがこぼれていた。
1階は主に給湯室や職員室、倉庫や私物保管庫が設けられており、ホールを抜けてエレベーターで2階に上がると、スタッフステーションや病室が見えてくる。その奥は保護室、準保護室があって、厳重に施錠されてはいるが、低い天井と吹き抜けから差し込む日差しで閉塞感はない。
瀬戸際は、子供だましの医療における建築コンセプトを鼻で笑いながら、患者と医療従事者との対等な関係性を鑑みて設計された、低すぎるスタッフステーションのカウンターに肘をついて、お気に入りの女性看護師に声をかけた。
「今日飲みに行かない?」
「それ、パワハラですよ」
「なんで?」
「私、プライベートと仕事は隔離したいんです。瀬戸際先生のキャラだからこの現場では許されますけど、違うとこだと訴えられますよ」
「くわばらくわばら・・・」
続けて瀬戸際は、最年長の女性看護師に声をかけた。
「高取さん!」
「ヤです」
「まだ何にも言ってないけど・・・」
「無言の圧力です、訴えますよ」
「くわばらくわばら・・・」
瀬戸際は笑いながらスタッフステーションを後にした。
コミュニケーションとは、信頼と安心と、安全という土壌が確保された領域でのみ存在するもので、威厳や執着や搾取という問題もあるが、上手く立ち回りさえすればそれなりの生活は送れる。
しかし、此処の患者はそれなりが出来ない。
心と脳に大きな疾患を抱えているからだ。
瀬戸際大楽は、帝北神経サナトリウム病院の沢口院長より、己の名声が世間に知れている事実を肌で感じ取っていた。
というのも、過去数十年にわたって触法患者を受け入れ、治療を行ってきた成果を称賛する声は高かったからだ。
事実、重犯罪が発生する毎に、コメンテーターとして多くのメディアから意見を求められてきた。
帝北神経サナトリウム病院は、統合失調症をはじめ、鬱病、適応障害、パニック障害、アルコール依存症、解離性障害と云った、精神科疾患全般の外来、入院治療を請け負っており、それら全てを掌握し、適切な指示や指導をする立場にあるのが医長を務める瀬戸際だった。
その目に止まる、閉鎖病棟内ではあり触れた光景。
保護室手前の廊下で、うずくまったまま動かないでいる小柄の中年男性は、内藤靖子医師に説得されていた。
「ほら、お部屋に戻ろう」
小柄の中年男性の身体は微動だにせず、それはまるで、元からそこにあった何かのように空間と同化していた。
瀬戸際は男の肩を軽く叩いて。
「どうしたの? 宮原さん?」
「・・・」
「部屋に行きたくないの?」
「・・・」
「一緒に行こうか?」
「・・・」
「ん?」
「・・・温めていませんよね?」
「何を?」
「何でもないです」
宮原はふらふらと立ち上がって、内藤靖子医師に支えられながら病室へ戻って行った。
瀬戸際は、患者の個性と此処に至るまでの経緯を概ね理解していた。
統合失調症の宮原は、幻聴に苦しんだ挙句自宅に放火した。
そのせいで、家族とは絶縁状態になってしまった。
治療を続ける中で、病の底に沈む本来の人間性を垣間見ることがある。
気配り上手で責任感の強い真面目な人。宮原は、周囲の心ない人間達によって搾取され続けた結果、鬱病から統合失調症を発症した。
瀬戸際の胸に、昨日自殺しようとした鮫島結城の失意に満ちた顔が浮かんだ。ベットを立て掛けて、脱いだズボンで首つり自殺を図ろうとしていた処を、瀬戸際と看護師達に取り押さえられたのだ。
鮫島は泣きながら。
「死んじゃいけない理由を・・・お願いですから・・・教えてください・・・」
と、言っていた。
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