葛藤

 月影邸に上がったさくにまず洗面所に連れていかれ、未使用のタオルを渡された。



「使ったら洗濯籠に入れといて」


「うん。ありがとう」


「ドーモ。ちょっと待っててね」



 さくが炎天下を歩いて汗だくになった体を拭いているあいだ、は台所に行ってスポーツドリンクの500㎖ペットボトル(未開封)を持ってきてくれた。



「はい、飲んで」


「あ、うん。いただきます」


「じゃ、部屋に行きましょ」



 開栓してスポーツドリンクを飲みながらに付いていき、階段を上って2階のの部屋に入ると、冷房が効いていた。


 外気で熱せられた体を冷やして、発汗で失われた水分と塩分をスポーツドリンクで補給──熱中症対策。さくは熱中症になった自覚はなかったが、対策するに越したことはない。


 しかしは頼まれてもいないのにテキパキと世話を焼いてくれて。さくは嬉しかったし、尊敬した。実際、体は思ったより熱中症になりかけていたようで生きかえった心地だった。


 もっとも。


 別の意味で生きた心地がしない状況ではあるのだが。他に誰もいない家の中、のプライベート空間でと2人きり。



 ブォォォォ……


 カリ、カリ……



 室内にエアコンと鉛筆の音だけが響く。座卓にプリントを広げ問題を解く……りっ常磐ときわが欠席している、本来4人でやるはずだった夏休みの宿題をやる勉強会。


 それが始まったのはいいが、が座卓の広さを活かさずに隣に座ってきたので、さくはまるで集中できなかった。


 傍にいるだけでドキドキする。


 なんだか、いい匂いがするし。


 それに一度、隣を見たら。の着ているショートオールが胸当てを肩紐で吊るす形式のため、ガバッと開いた胸元を上から見下ろすことになり。


 胸の形がくっきり見えた。


 ブラジャーしてなかった。


 しかも、もう少しで見えてはいけない(でも見たい)ちくびが見えそうで慌てて目を逸らし、二度とそちらを見れなくなった。


 本人の同意も得ずにそんなところを見てしまっての心を傷つけたくないし、それでに嫌われたくない。


 勃起しているのがバレても嫌われるだろう、座卓の端にお腹をくっつけて、そこがの視界に入らないようにしているが、気が気でない。


 もう、何重にも心臓に悪い。


 こんな状態で勉強できるか。


 それでも一応、解答欄を埋めていくが……と答え合わせしたら案の定ボロボロだった。元から成績は良くないが、いつもよりひどい。



「ほら、ここは、こう」


「そっか、ありがとう」



 間違えたところをに教わる。小さい頃から宇宙飛行士を目指して勉学に励んできたの学力は学年トップクラスで、同じくトップクラスの常磐ときわより上。


 この部屋には望遠鏡が置かれ、壁には月の地図が貼られ、本棚には難しい本がいっぱいで、主の知的オーラに満ちている。


 しかもは教えかたも上手で、友達になってから勉強では世話になりっぱなしで、本当に助かっている。それに、こうして教わっていれば雑念も──



「ほら、ここも」


「ちょ、ちょ⁉」



 消えるかと思ったが駄目だった。さくの間違えた箇所を教える際にが体を寄せてきて、素肌の腕同士がふれあって、結局また心が乱れまくった。


 もっとふれたい。腕の肌でではなく掌での体中の素肌にさわって、揉める所は揉みしだきたい。キスしたい、唇にも他のあらゆる所にも。そして──性交したい‼



(いい加減にしろ僕!)



 せっかくが勉強を教えてくれているという時に、エロいことばっかり考えて身が入らないなんて。そんな奴に、この子とどうにかなる資格なんてない!



(集中、シューチュー、しぅちぅぅっ‼)







「はい、今日はここまで」


「お、お疲れさまでした」



 今日の分のノルマを終えて。別に疲れて見えないにそう言った、さくのほうは本当に疲れてぐったりしていた。動けずにいると、横でが立ちががる。



「アイス持ってくる。2人で食べよ」


「え、僕にもくれるの?」


「ええ。アタマ疲れたら糖分補給よ」


「ありがとう……ごちそうさまです」



 が部屋を出て1階に下りていき、台所から氷菓を持って帰ってきた。プラスチック製チューブに入っていて、それが2つくっついてワンセットになっているタイプのを。



「はい」


「うん」



 がパキッと割ったチューブの片方を差しだしてきたのを受けとる。半分こ、常磐ときわと数えきれないほどしたが相手がだとこんな些細なことでも嬉しくて、こそばゆい。



 ぼすっ



 が自分のベッドに腰を下ろし、チューブの端をちぎって中身──乳酸飲料味の白いアイス──を吸い始める。


 がベッドの上で。


 棒状のものを咥えて。


 白いものを吸っている。



(アレが僕の……だったら──だぁっ!)



 さくは脳内に広がった卑猥なイメージを振りはらって、自分もチューブをすすった。当たり前だが、甘酸っぱかった。


 ……。


 ……。


 2人とも、アイスを食べ終わる。


 するとがポツリと言った。



「ねぇ、たちばな


「ん、なに?」


「大事な話があるの」



 ドクン



 さくの心臓が跳ねた。ついに、この時が来た──のかは、まだ分からないが。それが想像どおりでも違う話でも、にこう言われたら。



「うん、聞くよ。話して」


「アリガト……えっとね」


「……」



 がどう話そうかと思案している様子だったので、さくは急かさないよう黙って待った。やがて、整理できたのかがこちらを向いた。


 視線が合う。


 見つめあう。


 照れるが、今はそれより話をちゃんと聞かなくては。緊張するさくの視界の中で、の唇が動いて……言葉を紡いだ。



「アタシ、トランポリン辞める」


「え──え⁉」



 違う話だったが、これはこれで一大事だ。


 前に聞いたが、が宇宙飛行士を目指す『低重力の月面で高く跳んでみたい』という動機の根底には『自分の足で普通より高く跳んでみたい』という願望がある。


 きっかけは、あのゲーム。


 世界で親しまれる日本発のアクションゲーム、操作ユニットの主人公が超人的な身体能力──特に跳躍力──によって大冒険をくり広げる、あのゲームを遊んで。


 その主人公、オーバーオール姿の配管工のようなジャンプを、自分の体でしてみたいと憧れたから。


 そういえば、が今 着ているショートオールもオーバーオールの一種。彼を意識しているのかも知れない。


 それはともかく。


 宇宙飛行士になって月に行くまで、その欲求が少しも満たされないのでは辛抱できないと、は他の方法でも満たせるなら満たそうとする。


 そのため幼い頃からトランポリンを習っていて、週一で教室に通っている。ずっと生活の一部だったそれを辞める──それだけ重大な決意をした理由がなんなのか、さくは気になった。



「どうして?」


「あのロボットゲーム【こうゆうアーカディアン】がゲーセンで遊べるようになったらアタシたち、そればっかりするでしょ?」


「あ、うん……」


「お金かかるじゃん。この前は総帥にオゴッてもらえたけど、次からタダじゃないし。で、トランポリンの教室も高いんだ。親に両方は出してもらえないから、そっちは切るわ」



 切る──という冷たく聞こえる言葉。


 はあっけらかんとしているが。



「別にアーカディアンは4人一緒でなくても。僕たちに合わせて好きなこと辞めること、ないんだよ?」


「違うわよ。アタシだってアーカディアン気にいったんだから。好きなことを我慢してまで、付きあいで興味ないことやらない。そんなことされても嫌でしょ?」


「うん……申しわけないし」


「そうじゃないから気にすんな、ってコト。実はトランポリン、飽きてるのよ。決まった範囲の上でしか跳べないことを窮屈にも感じてたし」


つきかげさん……」


「毎週は、いいかなって。ちょっと跳びたくなったら、フラッと行って短時間だけ遊べる施設もあるし」


「そっか。なら、いいんだけど」



 確かに、だったらトランポリン教室を辞めるのに問題はない。だが、それなら『大事な話』と断る必要もなかったのでは。



「でもね」



 腑に落ちなかったところにのトーンが落ちて、さくは『ここからが本題』と察した。身を引きしめて、先を促す。



「うん……なに?」


こうどうで実機のクレセントが跳んでるのを見て『自分も乗ってみたい』と思って。ゲームで乗って、ジャンプして。モニターが一人称視点だから臨場感あって楽しかったけど……」


「けど?」


「現実でジャンプする時だったら感じる、体が重くなった感覚。落下中に感じる浮遊感。着地した時の振動──そういうのが一切なかったから。物足りないとも思ったわ」


「うん、それは僕も思った」



 乗物系の業務用アーケードゲームには操作ユニットのゲーム内での動きとシンクロするようきょうたいが揺れたり回ったりする体感型ゲームもあるが、アーカディアンにその機能はなかった。


 だから、さくも。


 実機のアーク【ブルーム試作1号機】に乗った時は機体の揺れを、加速Gを感じて、動いている機体の中にいると実感できた。ゲームにそれがなかったのは少し残念だった。



「だからアタシも実機に乗りたい」



 魔法少女になりたいと願っていたりっは、魔法少女型アーク【スノーフレーク】が気にいり、ゲームだけでは満足できないと実機のそれを操縦したいと願った。


 ハイジャンプしたいは、それが可能な立体機動用アーク【クレセント】を気にいり、やはりゲームでは物足りなかったと実機のそれを操縦したいと願った。


 親友同士の2人、同じ流れ──



「そう、思いはしたけど。アタシはりっと違って、本当に実機に乗る道には進まない。機甲道も、自衛隊も、宇宙飛行士を目指しながら片手間にできることじゃないから」


「‼」



 りっが選んだその道は。


 さくの選ぶ道でもある。



「実機のクレセントに乗ってジャンプしてみても、月でジャンプすることの代わりにはならないわ。重力の少ない月では、落下のスピードも遅くなる……その感覚を、アタシは確かめたい」


「うん……」


「アタシはその夢を、捨てられない。だから、アンタと同じ道は選べない……りっは、選んだのに。これじゃあアタシ、あの子がアンタを想うほど、アンタのこと想ってないみたいじゃない‼」


つきかげさん……」



(これもう、告白されたも同然じゃ⁉)



 りっからも告白同然なことを言われたが、まだハッキリと告白されてはいない。だがはきっとこのあと──と、その時。ピンポーン……と、この家のインターホンが鳴った。



つきかげさん、誰か来たよ?」


「話の途中よ、居留守するわ──そんなの納得できない。りっはたまたま進路希望がアンタと一致しただけじゃない。そんなの、想いの強さとは関係ないわ!」


「う、うん! 分かるよ」


「なのにりっはアンタと職場でも一緒にいられてアタシはあの子ほど一緒にいられなくて、不利になって、そのまま……なんて、冗談じゃないわ。たちばな、聞いて!」


「はっ、はいっ!」


「アタシ、アンタのこと──」



 初めは予想したのと違う話だったと思ったが、違わなかった。は最終的にこの話に繋げるために、ああ切りだしたのだ。


 受けとめろ。


 の真摯な瞳から目を逸らしてはいけない──と、思ったのに。周辺視野に動くものが入ってきてさくはつい目がそちらに向き──震えあがった。



ゆきさん⁉」


「ちょっと、アタシが話してるのに他の──」


「う、後ろ!」


「なによ──ッ⁉」



 さくが指差して、が振りむいた、彼女の背後。そこにはベッドの接した壁にはまったガラス窓……そこに外からりっの、はんにゃのような顔が貼りついていた。



 バンバンバンバンバンバン‼



「(あけて‼)」



 掌で激しく窓を叩くりっの、窓に遮られて少しくぐもった声が室内に浸透してくる。さくは過去最高の恐怖を味わった。生命が危機にさらされた林間学校の日より、よっぽど。


 一方、は初めこそ引きつった顔をしたが、すぐいつもの強気な顔に戻って窓に怒鳴りかえした。



「開けるか馬鹿‼」


「(だったら!)」



 りっが窓を叩くのをやめて、立ちあがった。この部屋は2階、窓の外にある1階部分の屋根に立っている。それだけでも危ないのに、あろうことかりっは片足立ちになった。



(ちょっ⁉)



 窓ガラスを割る気だ! 非力なりっの蹴りでガラスが割れるか分からないが、もし割れたら破片が本人やに刺さる!



たちばな⁉」



 さくは飛びだしてのベッドに上がり、鍵を開けてりっが蹴ろうとしているガラス戸をガラッと開き──直後、飛んできたりっの靴底を顔面に食らって、吹っとばされた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る