文字書き依存症のいち症例

01_前提。そして私のありふれた日常

 これは創作論ではない。

 創作をする人にとって参考になるような内容は一つも無い。創作に対して心掛けていることを語ることも、拘りを語ることも無い。また、全て真実ではあるけれど深刻な話でもなく、こんな妙ちくりんも世界の何処かに生きているのだと思いながら笑ってもらえるコンテンツであればいいと思う。ただし本人は至って真面目に生きていることも是非忘れないで頂きたい。

 まずは表題としている『文字書き依存症』について説明したい。此処で述べる『文字書き』とは、『文章によって創作すること』を指している。『小説を書く』と簡単に言い換えても良いと思うけれど、私は私の拙い作品を小説と呼ぶことに照れがある為にこの形に逃げている。照れ以外の理由も無いわけではないが、此処では主題から逸れるので割愛しよう。

 では改めて『文字書き依存症』について。「こんな病気は存在しない」と、知識が無い為に言い切って良いものか迷うものの、少なくとも私は聞いたことが無いので、無いという前提で進めようと思う。

 私の本職は全く文学に関係が無い。私は現在IT系のしがない会社員だし、大学でも理系を専攻し、日頃は小説も全く読まないという、文学に対してはまるで不勉強な人間と言える。しかし物語を書いていないと落ち着かない。仕事以外はいつも書いていると言っても過言ではない。暇さえあれば物語を思い描き、たった三分の隙間時間でも、書ける時間があるなら書いていたい。何なら一分でも良い。書くことが楽しくて幸せでならない。そして手を止めている間の不安感がそこそこ酷い。何一つ締め切りなどは無いにもかかわらずだ。私を駆り立てているものが何なのか、正直のところ分からない。書いていたい、その気持ちだけがいつもある。私にとって文字は二酸化炭素のようなもので、生きているだけで溢れて出てくる。吐き出さずにはいられない。これが、表題としている『文字書き依存症』の概要になる。

 とは言え、私の症状に対して『依存症』とは明らかに大袈裟な言葉であり、ふざけて言っている。今まさに何かの依存症と闘っている方は、このエッセイからは離れて頂いた方が賢明だ。ただし私がこれから語る内容を見た有識者の方が、私には本当に治療が必要と感じた場合には、教えて頂けると嬉しい。重篤さは自分には分からないものだから。それでも私はこの症状がありつつも特に不都合なく生きているので治療の必要は無いと思っている。何より私は幸せに生きているのだから。他の依存症の人が同じことを言っているのを聞いたことがあるという記憶は、一旦横に避けるとして。

 また、私は私自身を天才などと言うつもりも一切無い。生きているだけで文字が出てくるが、出てくるだけだ。私はずっと書いているが、書いているだけだ。先にも述べたが、出来上がったものは拙いの一言に限る。天才とはどの分野においても『優れた者』を指すだろう。私はそれにはまるで当てはまらない。大変ありがたいことにサイトに載せている作品を評価して下さる方は確かに居るけれど、ひいき目に見ても、多いとは言い難い。天才と言えるほどに私がもしも優れていたのなら、ジャンルや機会を問わず、とっくのとうに持て囃されている。私は優れた文字書きではない。


 以上の前提で、改めて私の症状として、今回は一日の過ごし方を説明しようと思う。

 平日の朝、起きたらまず仕事に行く準備をしなければならない。始業は九時だ。職場が幸い近い為、八時に出れば八時四十分までには到着できる。今は某感染症によってほとんどテレワークになってしまったが、そうなる前は六時に起きて、八時に家を出ていた。支度時間が随分長いと思われることだろう。実際、私は支度に少し時間が掛かる方だけれど、それだけでは無い。そう、文字を書くのだ。支度や朝食をどれだけのんびり済ませても三十分は猶予がある。私は家を出るまでの間、文字を書く。勿論、通勤中も電車の中で書く。その為、私は自分の書いている未完のテキストは全てクラウドに上げており、それを直接編集する為のアプリをスマートフォンに入れている。最近はテレワークの為、六時に起きることを続けながら、通勤で使っていた四十分もパソコンで文字が書けるので大変捗っている。さて、まだ始業前のことしか語っていないので、引くのは一度我慢して、もう少し聞いてほしい。

 仕事中は勿論書けない。頭を使う業務が多いので、一時的に物語が頭から消えることもある。けれど、一時的だ。これはちょっとした特技なのだけど、私は複数のことを同時に思考できたり、複数の会話が同時に聞き取れたりする。聖徳太子のようなトンデモ特技ではなく、三つから五つ程度のことだ。幸か不幸か、この特技が症状にも深く関わる。ざっくりと私の中には四つのレーンがあると仮定しよう。その内三つのレーンで三つの仕事をそれぞれ動かしながら、余った一つのレーンで私は物語の続きを考えている。隙間時間が出来た時、即座に文字を起こす為だ。手を止めていたくないから、続きを『考える』時間は極力減らしたい。これは仕事をさぼっている行為だと非難する人も居るだろうし、繁忙期は流石に、会社に申し訳ないので全てのレーンを仕事に使うのだけど、一つのレーンしか使えない上にレーンの動きがやけに遅いような人達が私と同じ給与で働いているので、そこは許されたい。

 お気付きだろうか。私がしているのはまだ午前中の話だということを。つまりまだお付き合い頂きたい。

 このように過ごしながら昼休みに至るとようやく隙間時間となり、私は二、三分で昼食を済ます。おにぎり一つか、サンドイッチ一つが私の昼食だ。栄養バランスについては朝食と夕食で整えているので心配は要らない。繰り返すが頭を使う仕事の為、午後、満腹によって眠くなると困るので、昼食は控え目であるだけだ。こちらも主題ではないので置いておいて、十三時に至るまでが楽しい文字書きの時間となる。流石にフルでは使用できない。食後の運動や、午後の仕事準備もあるので、大体三十分前後。だけど私が文字を書くには充分な時間で、いや、三分でも文字は書きたいし、許されるならずっと書いていたいので満足のいく時間ではないものの、朝九時から十二時過ぎまで、三時間以上も書くのを我慢したのだから嬉しい時間であることには違いない。出勤の日はスマートフォンを使って書き進め、テレワークの場合は自宅のパソコンを使って書き進める。

 午後は午前より長いので少し辛いが、午前同様、余っているレーンがあれば続きを考えて過ごす。どうしても忘れたくないネタが出て来てしまった時にはトイレへ行くついでにメモを取ることもある。あまり休憩も取れない職の為、これは本当に稀なことだけど。定時が来て、すんなり帰れたら気分は最高だ。帰宅後に家事を一通り済ませたら早速パソコン前に座り、勿論、文字を書く。寝るまでに取れる時間は多くて三時間。手が痛くなるほどずっと勢いよくキーボードを叩いていることもあれば、穏やかな雨のように静かにのんびり叩く時もある。どちらの場合も、手の止まっている時間は少ない。あるとすれば、書いたものを読み直している時間だろうか。

 ようやく一日分の説明が終わったので、引いて頂いて構わない。これが私のありふれた日常だ。当たり前の一日で、決して特別な日を切り取っていない。これが基準であって、正直もっと酷い場合もある。もっと変わった症状が出ることもある。その辺りはこれからまた、ゆっくり紹介していきたい。

 繰り返すが、これは深刻な話ではなく、私の依存ぶりを滑稽だと笑ったり、時には引いたりして、楽しんで頂けるエッセイになればいいと思う。

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