愛と呼べない夜を越えたい

長月瓦礫

愛と呼べない夜を超えたい


崩れ落ちた天井から月光が漏れている。

窓ガラスは割れ、壁には無数のシミができている。

この屋敷に人は住んでいない。


ここにいるのは、名もなきバケモノだった。

ドレス、グローブ、かかとに蝶の飾りのあるシューズとソックス、頭からかぶっているベール、何もかもが黒色だった。


男の身体全体にツタが絡まっている。

黒いドレスを着た女性が男の胸にナイフを立てる。


「なんでだ! 俺が何をした!」


男は叫ぶ。特に何かあったわけじゃない。

ただ、ほんの少しだけ眠るつもりでいた。

屋敷に足を踏み入れた瞬間、目の前が暗くなった。


棘には釣り針のような返しがついているらしく、うまく外せない。

もがけばもがくほど、深く食い込む。


「助けてくれ! 頼む!」


森の奥に廃墟があること以外、何も知らなかった。

モンスターの巣が付近にあると聞いてはいたが、建物内であれば侵入してこないだろうと思っていた。


「あなたが何も知らないからよ!」


それだけ叫んで、彼女はナイフを押し込んだ。

植物が汚い音を立てて、男を捕食する。


今日もまた、愚か者が迷い込んだ。

忘れたことすら忘れた人間たちは、これで何人目だろうか。


天井の隙間から見える月は答えてくれなかった。




森の奥にある廃墟がモンスターに支配された。

数十年前こそ数多くの貴族たちが利用したホテルであったが、今はその面影もない。


ホテルの所有者と連絡がつかないことや自治体が多額の解体費用を負担しなければならないことを理由に、手つかずのまま放置されていた。


そして、いつのまにかモンスターたちの巣と化していた。

通りがかった人々を襲い、何人も怪我を負っていた。


ホテルにはモンスターたちを手なずけているボスがいて、黒のドレスを来た人型のモンスターであるらしい。


昼間に罠を仕掛けても、全て破壊され、回収に来た業者が殺される始末だ。

モンスターたちは夜行性で、必然的に真夜中に退治に出かけなければならなかった。


そして、ボスを倒せばレアな装備が手に入るなど、ありきたりな話ばかり持ち上がっていた。根も葉もない話であっても、胸を躍らせる者たちは次々と現れ、全員、無事では済まなかった。


今日もまた、真夜中の森に踏み込む男がいた。

必要最低限の装備をサコッシュに詰め、慎重に進んでいた。


綺麗に踏み倒された雑草たちは、勇気ある者が進んだ道だ。

道に従えば、自然とたどり着く。


雑草を分け入った先にそれは建っていた。

白塗りの壁はシミだらけで、窓ガラスは何枚も割れていた。

木々が建物内に侵食し、一体化していた。


木製の扉はすでに誰かに破壊されていた。

彼は軽く頭を下げつつ、足を踏み入れた。


その瞬間、天井から崩れ落ちかけているシャンデリアに火が灯った。

大広間には、黒いドレスを着た女性が待ち受けていた。


「ねえ、あなたはこの場所を知ってる?」


「知ってるよ。

だから、ここまで来たんじゃないか」


「……そう」


一言呟いて、男に向かって駆け出した。


抵抗する様子はなく、ただ突っ立っていた。

ナイフを男めがけて振りかざした瞬間、真っ赤なバラが咲いた。

何枚も花びらが重なり、咲き誇った。


彼女はそれをナイフで切り裂いた。

散った花びらの数だけバラが何度も咲く。

視界が花で埋め尽くされ、男の姿が見えない。


腕を下ろし、花が完全に落ちるのを待つ。

舞台を終えた主演女優よろしく、彼女の足元がバラで埋め尽くされる。


男は先ほどと変わらず、ただ立っているだけだ。


「ねえ、ふざけてるの?」


表情は歪み、その声は苛立っていた。

ナイフの先を男に向けた。怯む様子も見せない。


「あなたも私を倒しにきたんでしょ!

さっさと戦いなさいよ!」


「違う! 君を助けに来たんだ!」


男はきっぱりと言い切った。


「助けに来た? 笑わせないでよ……ここの人たちは借金を抱えてどこかへ逃げた!

誰ひとり、ここのことを覚えていなかった! 

だから、思い出させてやろうとしたの!」


彼女もかつては受付ホールに飾られ、宿泊客を出迎えていた小さな人形だった。

多くの客でにぎわっていたが、やがて経営が立ちいかなくなり、閉鎖することになった。そのときには、ここの経営者たちは多額の借金を抱えていた。

ホテルを捨てて、こつぜんと姿を消したのだ。


そして、月日はあっという間に過ぎ去った。

建物は森に覆われ、朽ちていった。

ここにいる道具たちはそのような事情を知る由もない。それは彼女も同じだ。


このホテルの風呂場は少し特殊で地下から熱水泉を汲み上げ、その湯を直接使用していた。原因は分からないが、その熱水泉に魔力が流れ込み、装飾品たちは自由に動き回るほどの力を得た。


とうとう彼らは魔物となり、夜の間だけ動き回れるようになったのだ。

青年は静かに耳を傾けていた。


ここのところ続いているモンスターたちによる襲撃は、道具たちによる復讐だった。

誰にも必要とされない事実に悲しみ、誰も覚えていないことに寂しさを感じていた。

それが彼らの怒りでもあったのは言うまでもない。


「そっか、ここをずっと守っていたんだな。

ごめんな。俺ももっと早く気づければよかったのに……」


彼は天を仰いだ。

崩れたシャンデリアの炎は揺れ、静かに風が吹き抜ける。


「何で貴方が謝るのよ」


「君は知らないかもしれない。

俺もまだ子どもだったし、ここには滅多に来なかった」


少年は受付に飾られていた人形に心を強く揺さぶられた。白のドレスを着て、ベールを被っていた。いつか絵本で見たお姫様がそのまま現れたようだった。


実際、幼い女の子たちが欲しいとねだり、家族を困らせていたのを目にしていた。

そんなこともあって、遠くから見ているだけで十分だった。


他の夏の思い出と共に、彼女の思いも色褪せることはなかった。

今となってはいい思い出だ。幼い頃によくある勘違いだと皮肉ながらに笑えるようになった頃、ホテルが閉鎖されたと聞いた。


それを聞いてから、彼女に対する思いはより強くなった。

記憶にある美しい姿をもう一度見たくて仕方がなかった。


彼女を求めて古道具屋を何軒も訪ね歩いた。どの店を探してもその人形は見つからなかったし、ホテルを経営していた関係者の痕跡すら見つけられなかった。


ある日、青年はひらめいた。

そのホテルは今もあり、人形もまだそこにいるのではないか。


ひどく破損していたとしても、彼は連れて帰るつもりだった。

所有者のいない道具ほど、可哀想なものもない。


あの時は欲しいと思うこと自体、とんでもないと思っていた。

当然、女の子たちに混ざって駄々をこねるわけにもいかなかった。


まさか、こんな形で再会することになるとは、何とも不思議なものだ。

モンスターの巣窟と化してはいたけれど、ホテルはまだそこにあった。


「あの時とその思いは変わらないことにやっと気づいたんだ。だから、助けに来た」


ここは捨てられた場所だ。

ここにいても、誰も帰ってこない。

それは彼女も分かっているはずだ。


「本当に綺麗だと思うの? こんな姿でも?」


白かったドレスは薄汚くなり、ボロボロの布切れ同然だ。

顔は埃の化粧をつけ、かつての白さはどこにもない。

髪もばさばさで櫛も通りそうにない。


ホテルが繁盛していた頃の姿はどこにもない。

風雨にさらされ、埃にまみれ、いつ壊れてもおかしくない。


「綺麗だよ。俺は今でも君をお姫様だと思ってるんだ。

どんな姿をしていてもそれは変わらない」


彼は手を伸ばした。私をようやく見つけてくれた。

一緒に行っていいのだろうか。


室内ががやがやと騒ぎ始めた。

ここにいる道具たちも祝福してくれている。背中を押してくれた。


彼のまっすぐな瞳を見て、彼女はその手を取った。

手を強く握って、長い夜を超え、二人は森を抜けた。


その日から、廃墟にいたモンスターたちは大人しくなり、森に平和が戻った。


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