第三十九節 人生をやり直せるとしたらやり直したいですか?#17


 病室の外は暑い空気で包まれている。それは換気の時の窓を開けた時に分かる。蒸し暑い温風が体にブワッとくる。病室ではキンキンに冷えた冷房が作動しているので、体温調節には問題ない。此葉は大丈夫だろうか、こんな暑さの中で平気に暮らしているだろうか。だけど、此葉のような金持ちは問題ないよね……と心のどこかで思ってしまう。きっと冷房とビニール袋に入った氷で何とかしのいでいるだろう。


僕はあの日――つまり此葉が荷物を届けてくれた日――から音楽を聞いたり、スケッチブックに絵を描いたりして過ごしている。ゲーム機は流石に使えなかったけど。

最近は風景画以外も描くようになった。テーマは紫桔梗や母さんが見舞いの時に持ってきた林檎リンゴ、病院食など様々だ。沢山バリエーションが増えて、僕は大喜びだ。母さんにも少しくらい感謝はしている。水彩画だけでなく、近頃は色鉛筆画にも手を出し始めた。色鉛筆も此葉にちゃっかり持ってきて貰っていた。色鉛筆は水彩画と違って丁寧に塗れるから良い。色混ざりもしないし、やり直しも出来る。きっちり枠組みを描いてから細かく繊細に塗ってってる。


此葉にあげたい絵が1枚あった。それは僕自身の絵だった。僕が僕を描いた。それはナルシストとかそういうんじゃない。此葉は僕のこと好きだと思うし、きっと喜ぶと思う。鉛筆で描いた。人物画は描いたことあるが、自分を描いたのは初めてだった。だって恥ずかしいし、あげる人がいなかったから。此葉と僕のツーショットは描いたことあった。


 風の流れのように午前が過ぎ、昼ご飯の時間がやってきた。


白米を箸で摘まもうとする僕に看護師が告げたのは意外な言葉だった。


「もうすぐ退院だからね」


えっ、それほんと?


「いつですか?」


「あと1ヶ月くらいで退院になると思うよ」


あと1ヶ月ってことは今日は7月30日だから9月。よっしゃ。夏は此葉と過ごせなかったけど秋は過ごせるのか……そう思えるだけで幸せだった。実感は湧かなかったけど此葉に会える気がして待ち遠しかった。箸が食材を摘まむスピードが自然と上がる。


「ごちそうさまでした」手を合わせて合掌した。


食事が終わり、病室を出ようと思った。室内で絵を描いていても楽しいけど同じ行為の繰り返しだし、音楽聞いてても心休まるけど引きこもりがちになってしまうから、たまには外に出ようと思った。


目的地は談話室だ。シェアルームみたいな場所だ。リオちゃんと喋った懐かしの場所でもある。懐かしといっても先月のことだけど。場所は覚えてる。


 着いた。やはりリオちゃんはいなかった。いなくてもいい。中山さんに伝授してもらった言葉があるから。僕は一人じゃない。一人だとしても生きてゆける。


読書したことはあまり無いけど、読書癖の無い僕でもたまには読んでみるのもいいかなと思い、本棚を見通した。難しい本から子供向けの絵本まで幅広くあった。ジャンルも沢山あった。本だけでなく、漫画や雑誌もあった。過去の自分が載ってた僕の嫌いな雑誌もあったが、無視した。


漫画に逃げたい気持ちを抑え、1冊の本を手にした。ミステリーやサスペンスでもない、恋愛でもない、文芸でもない哲学書。


僕はタイトルに惹かれた。これは自分が手にするしかないと瞬時に判断した。僕の為にあるような本。病院というこの場所で出会うべくして出会った運命の本。そう感じたが過大評価しすぎてるのかもしれない。


タイトルはずばり【人生をやり直せるとしたらやり直したいですか?】。今の僕は迷わず、やり直したいと答えるが読んでからだとまた変わってくるだろう。


僕は病室にその本を持って帰った。何故か背後から視線を感じた。その時は気にしなかった。


 まず、ページを開いてみた。最初に書いてあったのがこれだ。


『人生をやり直せるとしたらやり直したいですか?』

『何年前からやり直しますか?』

『もしやり直せたらあなたの人生はより良いものになれますか?』

だった。


読む前はやり直したいと思った。いつからかと聞かれれば、不祥事を起こす前、いや生まれる前からやり直して差別されない家庭に生まれたかった。もしやり直せたら人生がより良いものになるか。それはやり直してみないと分からないだろう。


僕が僕らしくいられるのはやっぱり今のほうかなぁ。だけど、ガラリと変わった僕も見てみたい。


次の項に書かれていたのは

『目をつむってください。やり直した後の人生を想像してみてください』

だった。


目を瞑って想像してみた。すると普通の会社に入ろうとするサラリーマンの僕の姿が浮かんだ。何故、モデルじゃないのかと聞かれると多分モデルになったら、あの事件を起こすんじゃないかという不安や妄想が渦巻くからだった。一つ気になることがあった。家に帰っても此葉はいない。そもそも家自体が此葉の家じゃない。そうか。人生をやり直したら今ある家族も違う人に入れ替わっていて、此葉と出会わないのか。


此葉と巡り逢わないのは嫌だ。でも、国民の恥になるのも嫌だ。警察のお世話になりたくない。僕にとって人生をやり直すかやり直さないのかは究極の選択だった。


 何で本を読むだけでこんなに悩まされなきゃいけないんだろう。今、決めなきゃいけないことでもないし、そもそも人生なんてやり直せるはずないのにひたすらベッドに顔をうずめて考えてる僕がいた。


此葉と騒動を起こした後でも出会って楽しい日々を送るか、綺麗さっぱりに何事もなくスムーズに人生を歩むか、どっちにするか。


僕が出した答えはただ一つ。やり直さないだった。読む前はやり直したいと強く思ってたけど、読んだ後はやっぱり今のままがいいと。


此葉は僕に色々なことを教えてくれた。人といる時の態度、デートの楽しみ、喧嘩からの立ち直り、料理の作り方やこんな姿になった今の僕でも応援してくれるファンがいるってことも。全部此葉に教わった。此葉と一緒に時を過ごすだけでこんなに世界の見え方が違うなんて想像さえもしてなかった。


今の僕には仲間がいる。リオちゃんも中山さんもいる。中山さんにも生き方を色々教えてもらった。


やり直した後で此葉に出会えるならいい。だけど、出会えるかなんて分からない。もし仮に出会えたとしても前と同じ出会い方が出来るとは限らないだろう。僕は財布からの相合い傘という出会い方が良かった。バーでのキスも忘れちゃいない。此葉と会えない人生を送りたくなかったからやり直さないを選択した。


完読して選択肢が変わった。その本の後にやり直すかやり直さないかを記入する欄があった。正で多数決を取ってあった為、僕はやり直さないに横線を引いた。何でか知らないけど、みんなやり直すに選択していてやり直さないは僕一人だけだった。なんだかパッとしない気持ちになり、モヤモヤした。


 だけども、みんなと違ってても今の人生を大切にし、存分に味わうことに決めた。たとえそれが、間違った選択だったとしても。もう過去にはとらわれない。人生はやり直しが利かないから、なるべく後悔が残らないよう過ごしたいと思う。


やり直さないの1人目としてこれから先の未来を少しでもより良いものになれたらいいなと思った。


完読したので本を返しに行こうと思った。この本には人生をやり直せるとしたら以外にも色々な哲学が載っていた。最後の晩餐や無人島に持っていきたい物、今日で世界が終わるならどこに行きたいか、生まれ変わったら同性になりたいか異性になりたいか等。色々、心の中で答えてみた。


 談話室に行くとどこか見覚えのある子が居た。


「お兄ちゃん、久しぶり」


その可愛らしい声は間違いなくリオちゃんの声だった。


「久しぶり~。だけど、僕とは話しちゃいけないんだよ」


つらい決断だとしてもそれはリオちゃんの為にならないから。ごめん。


「もしかして、さっき僕のことを見てたのってリオちゃん?」


「そうだよ。ずっと見てたんだよー」


やっぱり。視線を感じると思ったら。


「もうこれで話はおしまい。僕は本返したら病室戻るから、じゃあね」そう言って手を振ったら、リオちゃんは半べそかいた顔をして僕を見た。


「やだ。喋らなくていいから一緒に折り紙しよ」


誘われ、折り紙を1枚渡された。


何も喋らず、ただひたすら折り紙を折った。


リオちゃんは千羽鶴を折っていた。小さな手で。それにざるようにしてつられて僕も黙々と鶴を折った。


 今、横をちらっと見て気づいたことだが、リオちゃんの鼻の下にチューブがしてあるのに気づいた。前はそんなこと無かったのに。重篤化したのかなぁ、心配になった。


夢中になって鶴を折っていたら時間が過ぎてしまった。本はちゃんと返した。

そんなこんなで1日が過ぎた。














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