番外編 バセット家の日常
ノアは読んでいた本をパタンと閉じて枕元の明かりを絞った。けれど決して消しはしない。小さい頃からの癖で未だに真っ暗な場所では何故か震える程の恐怖を覚えるのだ。その原因が何なのかは未だに分からないのだが。
枕に頭を預けて小さな欠伸を落としたノアの耳に、控えめなノックが聞こえてきた。
「あいてるよ」
その声を待っていたかのようにそろりとドアの隙間から顔を出したのはアリスだ。
「どうしたの?」
「うん……あのね」
モジモジと何も言わないアリスの胸にはしっかりと枕が抱かれている。
無言で返事を待つノアにアリスは意を決したように言った。
「さっきは……ごめんなさい。まだ怒ってる?」
「さっき?」
「うん。厨房で……」
あんなにもノアに叱られたのは一体いつぶりだろう? 思い出そうとしても中々思い出せない。それぐらい昔だ。父はノア以上にアリスに甘かったので、アリスの躾はほとんどこの兄とキリとハンナがしてくれていた。
「ああ、もう怒ってないよ。何が悪かったかちゃんと分かったんでしょ?」
「うん」
「じゃあもう怒らないよ。今度からはちゃんと気を付けようね。明日も早いんだから早く寝るんだよ?」
「うん……兄さま、あのね……あの……一緒に寝てもいい?」
「……アリス」
ノアはアリスがしっかりと胸に抱いている枕を見て思い出した。アリスはノアがこんな風に叱ると、その日の夜は必ず一緒に寝ようと言い出していた事を。本当にアリスは小さい頃から何も変わらない。
「いいよ。蹴らないでね」
「け、蹴らないもん!」
「どうだか。アリスは寝相が悪いから」
そう言って毛布をめくると、アリスが嬉しそうに潜り込んでくる。
こんなアリスだからノアは一生結婚など出来ないな、と思う。もし出来たとしても、絶対に妻や子供よりもアリス優先になるのが分かっているからだ。
ノアは毛布の中で丸くなるアリスを抱きしめて、おでこにおやすみのキスをする。
「僕の可愛いアリス、おやすみ」
「うん。おやすみなさい、兄さま」
アリスはノアの胸に頬を寄せて目を閉じた。
こうしていると心がとても落ち着いていくのが分かる。気が付けばノアから小さな寝息が聞こえてきて、それにつられるようにアリスも夢の中に吸い込まれていた。
「お嬢様、ノア様、いい加減起きてください」
朝、二人が一向に起きて来ないので一抹の不安を覚えてノアの部屋に入ると、案の定アリスはここに居た。珍しくノアもまだ気持ちよさそうに惰眠を貪っているので、相当いい夢でも見ているのだろう。
それにしても十六歳と十四歳の男女がいくら兄妹とは言え同じベッドで眠るものだろうか? 普通はそんな風に思うのだろうが、バセット家の人間は、いや、バセット家を知る人は誰もそんな事は思わない。
何故なら、この二人の仲の良さが常軌を逸している事など既に皆が知るところだから。だから今更一緒に寝ていようが一緒に風呂に入ろうが誰も何も思わないのだ。
「ノア様、お嬢様! 朝ですよ!」
どれほど声を掛けても起きない二人を見かねてキリが毛布をはぎ取ると、急な冷気にアリスは暖を求めてノアにへばりついた。突然強く抱き着かれたノアは相当驚いたのか、パチリと目を開けてふと窓の外に視線を向ける。
「朝……」
「おはようございます、ノア様」
「おはよう、キリ。ちょっとこれはがすの手伝って。苦しい」
そう言ってノアはギュウギュウ締め付けてくるアリスをキリと共に無理やり引きはがすと、そのまま洗面所に向かった。大きく伸びをして顔を洗って寝ぐせを直していると、部屋からキリの怒鳴り声とアリスの寝ぼけた声が聞こえてくる。いつもの平和な朝だ。
「おはよう、アリス」
「おはよう、兄さま」
まだムニムニと眠い目を擦ってベッドの上でボーっとしていたアリスのおでこに、ノアがおはようのキスをしてくれた。
キリに急かされて顔を洗ってまたボーっとしていると、ノアがアリスの寝ぐせがついた髪を丁寧に梳かしてくれる。
「アリス、髪梳かすからちゃんと座って」
「うん」
ソファにきちんと座ったアリスの髪をノアが今日も丁寧に梳かしていく。
二人が学園に入る前からこうやってアリスの髪を乾かすのはノアの役目だった。
バセット家にはメイドはハンナしか居ないし、ハンナはアリスの身支度を整えているほど暇ではなかったのだ。幼かったアリスは不器用すぎて自分で長い髪を洗ったり乾かしたり梳かしたりする事が出来なかったし、何よりも頼りの母は既に居なかった。
そんなある日、不器用すぎるアリスを見兼ねてとうとうハンナはノアにブラシを握らせて言った。
『坊ちゃん、お嬢様のお世話はお任せしましたよ。あなたにしか出来ない大事なお仕事です』
真剣な顔でそんな事を言われては、ノアが断れるはずもない。何せ幼い頃から自他共に認めるアリス厨なのだから。
そして今に至る。今のアリスは流石にもう自分で頭も洗えるし髪を乾かす事も出来るが、ブラシかけだけは未だにノアはアリスに譲らない。
「まるでお姫様ですね、お嬢様」
呆れたような視線で言うキリにノアは苦笑いを返した。
「アリスは見える所しか梳かないからね。放っておいたらすぐに毛玉が出来るんだよ」
これがアリスにブラシを譲らない理由だ。
バセット家の象徴とも言える金に近い茶色い髪は癖っ毛で猫っ毛だ。ちょっとでも手入れをサボるとすぐに絡まってとんでもない事になる。ましてやアリスは背中よりも少し長いぐらいの髪の長さなので、手入れを怠ると刈り取るのを忘れた羊のようになってしまうのだ。
「だって、後ろ見えないんだもん!」
「はいはい。今日は森に入るって言ってたから髪は上げておこうか。キリ、手伝って」
「……はい。ほんっとうにいいご身分ですね、お嬢様は」
「今度キリの髪、私が梳かしてあげようか?」
朝からしっかり嫌味を言ってくるキリを見上げて言うと、キリはそんなアリスを鼻で笑った。
「いいえ、結構です。お嬢様にやらせたら毛が全部抜け落ちてしまうかもしれないので」
「じゃあ僕がやってあげよう。キリは僕達と違って芯がしっかりしてるし、ストレートだからいいよね」
「いえ、ノア様にしてもらうのは流石に……」
「そう? 結構得意なんだけどな。はい、出来上がり。着替えたら朝食食べに行くよ」
「うん! ありがとう、兄さま、キリ! ごっはんだごっはん~~♪」
歌いながら制服に着替えるアリスを置いて部屋を出たノアとキリの前を、隣室の部屋の生徒たちがヒソヒソと話しながら去って行く。それを横目に待っていると、ようやく制服に着替え終えたアリスが出て来た。
「お待たせ~! 朝ごはんいこ~」
「アリス、リボンが曲がってるよ。本当に不器用だね」
「リ、リボンがワンタッチじゃないのがいけないんだもん!」
琴子時代に着ていた制服は着脱式のリボンだったのでこんな苦労は無かった。記憶が蘇ってから思い出した事だが、アリスはどうやら琴子時代からずっと不器用だったようだ。
そしておそらくこれから一生、リボンをまともに結ぶ事は出来ないだろうと悟った。
食堂に行くと、そこで食堂から出ようとしていたキャロラインに出会った。今日もキャロラインはキラキラ眩しくて、思わず目を細めたアリスにキャロラインは微笑む。
「おはよう、アリス、ノア。ギリギリじゃない」
「おはようございます! キャロライン様はもうご飯終わったんですか?」
「ええ。このまま教室に行くつもりよ。ルイス達はまだ食べてるわよ、ノア」
言われて食堂の奥の席に視線を移すと、ルイスがこちらに向かって軽く手を上げた。
「ありがとう、キャロライン。じゃあ一番遠い所で食べようか、アリス」
「……あなたね」
相変わらずなノアに苦笑いを浮かべたキャロラインは、そっとアリスにカードを差し出した。
「今から食べるんでしょ? まずはここから改善出来るようルイスと話していたのよ」
「ありがとうキャロライン様! そしていつの間にかルイス様のこと呼び捨てになってる!」
今までキャロラインはルイスの事は敬称をつけて呼んでいたのに、気づけば呼び捨てになっている事に気付いてアリスは目を輝かせた。
「そ、それはほら、婚約者だし、いい加減他人行儀なのは止めようって話になって、それで」
「うんうん! 仲良き事は美しきかな! ヒューヒュー!」
「も、もう! その口を縫い付けるわよ⁉」
「!」
アリスは急いで口を覆うと首を振ってその場を後にした。手にはしっかりキャロラインに借りたカードが握りしめられている。相変わらずちゃっかりしているアリスである。
「カード、ありがとう。後で教室で返すね」
「ええ。ノアも好きなもの頼んでいいわよ」
「ありがとう」
それだけ言ってキャロラインはミアと共に食堂を後にした。
キャロラインは随分変わったものだ。公爵令嬢だけあってマナーや礼儀に対しては元々厳しかったが、根は優しかった。そこから爵位という偏見が取れただけでこうも変わるのか。
ノアはしばらく歩き去るキャロラインの後ろ姿を見ていた。
席についてしばらくすると選んだメニューが運ばれてきた。
「兄さま何にしたの?」
ノアが選んだ食事を見ると、ノアはどうやら自分のカードを使ったようで、運ばれてきた食事はコーヒーとサラダとパンという簡単なメニューだった。いや、アリスは簡単だと思っているが、本来朝食とはこういうものだ。というか、朝から夕食のメニューを頼むのはおそらくアリスぐらいだろう。
「アリスは朝から本当によく食べるね」
「だって今から森入るんだよ⁉ ちょっとやそっとじゃ出て来れないからね! しっかり食べておかないと!」
「一応言っとくけどアリス、授業が終わったらちゃんと森から出て来るんだよ?」
放っておいたらそれこそキリではないが、夜まで出てて来ないアリスである。ノアが不安に思いながらもコーヒーを飲んでいると、おもむろにアリスがノアのパンを弄りだした。
「何してるの?」
「ホットドッグ作ってるの。これでね、こうしたら……はい、兄さま」
「?」
アリスが作ったホットドッグという食べ物には、パンの間に野菜とローストビーフが挟んである。
ノアは差し出されたパンを受け取るとそれにかじりついた。うん、美味しい。これならこのままでも食べられそうだ。
ノアは昔から何もついていないパンが苦手で、スープなどがないといつまでも飲み込めない。
元々朝はサラダとコーヒーだけで十分なのに、学園の朝食にはどれもパンがついてくる。しかしスープはない。だから朝はいつもパンを部屋に持ち帰り、わざわざ夜にスープを自炊して食べていた。残すとアリスが怒るし、学園にはずっとアリスが居なかったので苦肉の策だったのだ。だからノアの部屋には必ずコンソメを粉末にしたスープの素が置いてあった(これを考えた人は天才だと思っている)。
けれどアリスが学園に来てからは、パンはアリスに食べてもらっていたのだが、どうやらアリスはそれではいけないと思ったようだ。
「ありがとう、アリス。これで昼までもつよ」
「うん。また明日も作ってあげる」
そう言ってアリスはマナーが悪いとジロジロ見て来る周りの人達の声など全て無視して、一心不乱に朝には不釣り合いな豪華な食事を食べ始めた。
「ノア! どうしてこちらに来ない! ん? なんだ、それ」
「おはよ~二人とも。ノア美味しそうなもの食べてるじゃん。そんなメニューあんの?」
「おはよう、ルイス、カイン。これはアリスが作ってくれたえっと……何だっけ?」
「ホットドッグだよ。皆さんおはようございます! それではごきげんよう」
チラリと視線を上げて適当に挨拶をしたアリスはまた食事を再開しだした。そんなアリスに二人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべている。
「清々しいほど適当な挨拶だな」
「こらアリス! その骨は食べちゃ駄目!」
「んんーー!」
骨を取り上げられそうになったアリスは一生懸命抵抗して何とか骨を飲み込む事に成功した。ついでに付け合わせのエイブルフラワーもパクリと食べる。この学園では誰も食べないが、エイブルフラワーは食べられる為に育てられた花だ。――味などほとんどないが。
「ははは! 相変わらずだな、お前たちは。それじゃあ、後でな」
ルイス達は骨まで食べるアリスとそれを止めるノアの攻防に笑いつつ食堂を後にした。
「さて、じゃあ僕達もそろそろいこうか」
「うん! それじゃあまたお昼休みにね、兄さま。キャロライン様にもお礼言っておいてね」
「もちろん。それじゃあキリ、アリスの事お願いね。とりあえず森の中で野生に帰ってしまわないようにアリスをしっかり監視しといてね」
「はい。お任せください」
「……」
なんて注意のされ方だ。本当にアリスの事を猿だと思っているな? キッと睨んだアリスを見てノアは柔らかく笑って去って行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます