14話:恋かどうかは分からないけど

 5月1日。以前うみちゃんと、実さんがが出るコンクールを聴きに行こうと約束をしていた。今日がその日だ。待ち合わせ場所に行くと、約束していない望も居た。そしてもう一人、よく知る女性が。


「よっ。ちるちゃん久しぶり」


鈴歌りんかさん」


 首からカメラをぶら下げて白いTシャツにジーンズというラフな格好をした、髪の長さはセミロングで大学生くらいに見えるこの女性は加藤かとう鈴歌りんかさん。歳は10歳上の25歳——今年で26歳で、うみちゃんの伯父さんの幼馴染の子供という一見遠そうな関係だが、私達のことを幼い頃から面倒見てくれた近所のお姉さんの一人だ。ちなみに職業は漫画家。BL、GL、HLと、性別を問わない恋愛物を主に描いている。ちなみに、HLというのは男女の恋愛を表すヘテロラブの略。ノーマルラブの略であるNLが使われる方が多いが、男女愛をノーマルと称するのは差別ではないかという声もあり、最近ではこっちの表記が増えているらしい。そして、彼女の作品にはHLでも作中で当たり前のように同性カップルや同性愛者が出てくるのが特徴だ。彼女の描く世界では同性愛は特別なものではなく、普通の恋愛として描かれている。本人は当事者ではなく、ただのBL好き——いわゆる腐女子だが『BLはファンタジーだから楽しめるのであってリアルのBLは苦手』というタイプではなく、現実の同性愛にもちゃんと向き合ってくれる人だ。

 BLやGLというジャンルを好む人の中にも、現実の同性愛に対する嫌悪感を持つ人は少なくはない。むしろ『私は同性愛物好きだからそういうの理解している』と、自分は差別をしていないと思い込んでいる人ほど厄介だ。差別をしていないと自信を持って言えてしまう人間の大半は自分がしている差別に気付いていないだけだから。


「で、鈴歌さんなんで居んの」


「んだよいちゃ悪いか?」


「別に悪いとは言ってないっすけど」


「あたし、コンクール好きなんだよ。特に課題曲があるやつ。同じ曲でも弾く人によって全然違って面白いよ。ヘッタクソだけど面白い演奏する人もいるし、めちゃくちゃ上手いけどつまらない演奏をする人もいるし。コンサートと違って、同じ曲を人を変えて何回も弾くから十人十色の音を比べて聞ける。それを聞いてるとインスピレーションが沸いてくるんだ」


「…ふぅん」


 分かるような分からないような。




 会場に入る。当たり前だが実さんの姿は無い。しかし彼女のバンド仲間は全員揃っていた。空美さんが私達に気づき、手を振ってから手招きをした。席は決まっていない。彼女達の近くに行き、席を取ると、空美さんの隣に座っていた女性が振り返る。目が合うと「おはようございます」と軽く頭を下げた。北条さんだ。挨拶を返す。そういえば財前さんが実さんと同じヴァイオリン教室に通っていると言っていた。彼女の応援だろうか。


「あれ?先生だ」


「久しぶり。みぃちゃん」


「久しぶり」


「…先生?」


「うん。漫画家さんなんだ」


「マジ?商業作家?ペンネームは?」


「鈴の音で鈴音すずね


「鈴音…聞いたことあるような…」


「最近映画化されたよね」


「えっ、マジで?なんだろう」


 そう。鈴歌さんの作品の中にはドラマ化やアニメ化されているものもある。つい最近<僕をクズだと罵ってくれ>という、世間体を気にして異性愛者を装って異性と結婚した同性愛者の話が映画化された。既婚者の男性が元恋人の男性と不倫する内容だと紹介されている。最終的に主人公は妻と別れて元恋人と寄りを戻すのだが、夫が男性と浮気をしたことを許す妻なんて都合が良すぎるだの、奥さんが可哀想だの否定的な意見も多い。私はあのまま妻に嘘を吐き続けるよりはマシだと思うが。

 ちなみにこの作品は実写映画だが、流美さんも主人公の妻の友人役で友情出演している。


「マジで?の人!?」


 きららさんが目を輝かせる。"僕クズ"というのは<僕をクズだと罵ってくれ>の略だ。


「なんか聞いたことあるような」


「話題の不倫BL映画だよー!あたし、あの作品好きです!もう5回くらい見たし、めっちゃ泣きました!あと、本も買いました!」


「おぉ。ありがとー。原作買ってくれるのは嬉しい。ついでに他の作品もよろしくお願いします」


 当たり前だが、映画の売り上げより原作の売り上げの方が鈴歌さんに収入として入る割合が大きい。


「あたし、先生の作品"僕クズ"しか知らないんすけど、他にどんなの描いてるんすか?BLばっかり?」


「色々描いてるよ。今は女子校の王子のGL描いてる」


 今彼女が連載しているのは<王子様の王子様>という、一見BLに見えるタイトルの女子校を舞台としたGL。ヒロインの片方の性格や見た目がどことなくユリエルに似ている気がするが、あれが連載開始したのは去年だ。ユリエルとは出会っていない。


「僕クズと違って重くないから読みやすいと思う」


「本屋行ったら探してみます」


「ありがとー。で、今更だけど君たちはみぃちゃんの友達?」


「あ、はい。あたしらは同じバンドのメンバーで…この子は違うんすけど、今日うちのバンドでヴァイオリン担当してる子と後輩ちゃんが出るんで、応援に来たんすよ」


 それぞれ自己紹介するきららさん達。


「へぇ。一条実さんって聞いたことあるよ。あたしヴァイオリンのコンクール好きでよく見に行くんだけど、よく賞とってるよね。財前美麗って名前も聞いたことある。あたしあの子の演奏好きだなぁ」


「どっち?財前さん?」


「うん。財前さん。…一条さんの演奏って完璧なんだけど…言っちゃ悪いかもしれないけど、なんかこう、いかにもコンクール受けしそうなお堅い感じが苦手なんだ」


「お堅い?」


 部活紹介や体験入部で聴いた時はそんな感じはしなかった。


「まぁ、コンクールの時の実は審査員受けする演奏してますからね」


「うん。あたしらとやってる時は活き活きしてるよね」


「まぁ、聴かせる相手が違うからね。評価される音楽って窮屈だよねぇ…」


 そういえば空美さんは中学生になった頃くらいからコンクールに出なくなった。理由を聞いたら『つまんないから』と言っていた。当時はよく分からなかったが、どうやら評価されるのが嫌なようだ。


「でも聴くのは好きなんだよね。同じ曲でも人によって弾き方の個性があるから」


 鈴歌さんと同じことを言っている。

 と、ここで開催五分前のアナウンスが流れる。パンフレットを確認する。トップバッターは財前さん、トリは実さんだ。

 財前さんの演奏は他の人に比べるとところどころ音が裏返っていた。素人でも分かるほどミスが目立っていたが、弾いている本人は心から音楽を楽しんでいた。鈴歌さんが言っていた"下手くそだけど面白い演奏をする人"という言葉の意味が分かった気がした。ミスが多く、こう言ってはなんだが他の演奏者より明らかに下手だ。が、聴いていられないほどではない。


「ちなみにお嬢様、ヴァイオリンはヘッタクソですがピアノは上手いんですよ。入賞できる程度には」


 演奏が終わったところで、北条さんからフォローが入る。


「相変わらず辛辣だなぁ。でもさ、昔よりは上手くなってると思うよ」


「えぇ。私もそう思います」


「あたしやっぱ好きだなぁ…あの子の演奏」


「…鈴音先生、B級映画好きそうですね」


「あははっ。分かる?」


 北条さんは意外と財前に対して容赦ないが、幼馴染故の愛のこもった言葉なのかもしれない。




 同じ曲を何曲も聴かされ、飽きてきた。曲調がゆったりとしているせいもあって、睡魔に耐えられずに居眠りをしてしまっていたようだ。うみちゃんに起こされた頃にはもう実さんの番がきていた。

 ドレスを着た実さんが一礼して弓を構える。

 出だしから既に財前さんとの実力の差が表れていた。音が澄み切っている。鳥肌が立つ。だけど…なんか違う。『コンクールの時の実は審査員受けする演奏をしている』と柚樹さんは言っていた。その"審査員受けする演奏"というのは私の心には響かない演奏なのだろうか。

 これが鈴歌さんが言っていた"上手いけどつまらない演奏"というやつなのだろうか。


「…実、今わざと音外したな」


 柚樹さんが苦笑いして呟く。同じ曲を今日だけで何度も聴いたが、全く気づかなかった。


「えっ、気づかんなかった」


「あははー。やっぱり?性格悪いことするなぁ実ちゃん」


「…なんだか、今日はギリギリを攻めてますね」


「ははっ。金賞逃したらめちゃくちゃ叱られんのに何やってんだあいつ」


 そう言いつつも柚樹さんはなんだか楽しそうだ。

 私には分からないが…序盤よりなんだが堅苦しさが和らいだような気がする。しかし、やはりバンド内で演奏していた時と雰囲気は全く違う。私の心はときめかない。どうやら私が好きなのは"クロッカスの一条実さんの演奏"らしい。それが分かっただけでも今日は来た甲斐があった。





 それから数日後、ゴールデンウィークが開けた日。

 ユリエルは朝から母親と喧嘩したらしく、降りるはずの駅で降りずに着いてきた。「家出でもする気か?」と私の問いには答えずに俯く。「うち、来る?」とうみちゃんが問うと、その言葉を求めていたと言わんばかりに頷き、スマホを取り出して弄り始めた。すぐに電話がかかってきたが、応答せずに少しいじってからポケットにしまった。

 そのまま家の最寄り的に着き、家の前で彼女達と別れる。


「…いつでも110番出来る様にしとくわ」


「そ、そこまでしなきゃいけないのか?」


「大丈夫…だと思う…」


「だと思うって…」


「大丈夫だよ。またね、二人とも」


 しかし望は心配そうな顔をしたまま動かない。引きずり、彼の住むマンションのエントランスに押し込んでから自分の家に入る。

 食事と風呂を済ませて2階のベランダから外の様子を伺っていると、見慣れない車がうみちゃんの家の前に止まった。中から出てきたのは女性。ユリエルの母親だろう。苛立ちが歩き方やインターフォンの押し方に表れている。

 ユリエルは出てこない。二回目のインターフォンを押す。…来ない。三回目のインターフォンでようやく玄関のドアが空いてユリエルが出てきたが、すぐに閉まる。その態度に苛立ちが爆発したのか、女性は玄関のドアを激しく叩きながら「うちの娘を誑かして!謝罪も無いの!?出てきなさい!」と叫ぶ。


「お母さん、やめて。近所迷惑だから」


「うるさい!元はといえばあなたが悪いんでしょう!」


 止めようとするユリエルを突き飛ばす。彼女は尻餅をついてしまった。


「何よその態度…私が悪いとでも言いたいの?」


 手を振り上げる女性。流石に見てられない。


「おねーさん、今何時だと思ってんの。あんまり騒ぐと警察呼ぶよ」


 上から声をかけ、しっしと追い払う仕草をする。冷静になったのか、意外とすんなり引き下がってユリエルを連れて車に乗り込んで行った。車が見えなくなるまで見届け「行ったよ」とうみちゃんにメッセージを送る。母親が怖くて自分の意見が言えないユリエルは言っていた。家に帰らないというちょっとした反抗も相当勇気を振り絞ったのだろう。

 部屋に戻ろうとすると、うみちゃんの部屋の電気がつくのが見えた。しばらくすると隣のベランダに彼女が出てくる。


「おう。無事だったか」


「…今日はたばこ吸ってないんだね」


「普段から吸ってねぇよ」


「…うん。ごめん。冗談」


「ったく…冗談が言える元気はあるみたいで安心した」


 彼女が弱々しく笑うと、彼女のスマホが鳴った。慌てて確認する。ユリエルだろうか。問うと彼女は首を横に振った。彼女のスマホから何か音が流れ始める。その音は徐々に大きくなる。ヴァイオリンの音だ。


「…これ…実さんの?」


「うん。そう。送るね」


 自分のスマホから流れる曲の再生を止め、少し弄る。私のスマホに音楽ファイルが転送されてきた。


「聴いてきていい?」


「うん」


 部屋に戻り、スマホにイヤホンを繋いでファイルを再生する。風が木の葉を揺らすような自然の音が聞こえる。その音に合わせてヴァイオリンの旋律が流れ始めた。外で撮ったのだろうか。目を閉じると、森の中で演奏する彼女の姿が浮かぶ。しかしよく聴くと、人の声も微かに聴こえる。浮かぶ風景は森から公園に移り変わる。

 あぁ、この感覚だ。彼女の演奏を初めて聴いたときと同じ。胸が高鳴る。やはり、コンクールの時とは演奏の仕方が違うようだ。目を閉じると浮かぶ彼女は楽しそうに時折微笑みながら弓を引いている。

 一曲分なのだろう。ファイルの再生はすぐに終わってしまった。ベランダに出て、うみちゃんに感想を伝える。


「やばい。めちゃくちゃ良い」


 くすくす笑いながら、彼女はスマホを軽く弄る。


「…ありがとうございますだって」


 私の感想をそのまま送ったのだろうか。


「こちらこそ。…目を閉じて音源聴いてたらさ、ヴァイオリンの音に混じって微かに風の音も聴こえて…野外で楽しそうに弾くあの人の姿が浮かんだんだ。で、なんか…今凄くドキドキしてる」


 あの時と同じ感覚。だけど…


「だけど、付き合いたいとか、そういう感情は湧かないんだ。なんというか…好きな芸能人みたいな…。ヴァイオリンを弾いている姿を遠くから眺めているだけで満足…みたいな」


 この感情が彼女に対する恋かと問われると、違う気がする。多分、彼女の演奏が好きなのは確かだ。しかし、彼女のことはどう思っているか分からない。一目惚れという言葉は知っている。けど、私は多分一目惚れはしない。彼女の見た目が好きという感情はない。彼女のことを知らないと恋だと断定出来ない。


「なるほど…でも、好きなことには変わりないんでしょう?」


「そう…だな…好きなのは確かだと思う」


 それは確かだ。彼女の演奏するヴァイオリンが好き。


「じゃあ今は憧れか恋かって無理して答え出さなくていいんじゃないかな。実さんのことを知るうちにはっきりすると思うよ。きっと、焦ったら余計に答えが遠ざかると思う」


「…そうだな」


 明日、彼女に直接感想を伝えに行こう。そこで何か分かるかもしれない。

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