第27話 外套――記憶⑤
魔女になった日が、随分と遠い出来事のように思われた。
魔女になりたくてなる人間などいない。魔女になる理由が戦争のなかで生まれ、様々な偶然が折り重なって魔女になる。そして、破壊に明け暮れてやがて死んでいく。
『おまえの運命を試してやろう』
地獄の底から聞こえてくるような、耳にするだけで震え上がりそうな声だった。
けれど少女は目を伏せることなく、まっすぐに声の主を見上げた。どうせ戦争に蝕まれ滅びを待つだけの身なら、挑んでみようと思ったのだ。自分の運命に。
しかし、絶望が溢れかえる世界で、少しだけ自分の立ち位置を変えてみたところで、見える景色に大差などなかった。そこにあるのは、絶望だけだ。
「あ、これは良さそうだね」
そう言ってルシルの横でエトワールが手を伸ばした。一着の冬用コートを拾い上げて、目の前で広げながら満足そうに頷く。
床は、衣装箪笥をひっくり返したようなあり様になっていた。外套も普段着もよそ行きの衣装も下着まで無秩序に広げられて、ルシルたちでそれを囲んで物色している。
幽霊船の談話室は、かつての瀟洒な雰囲気から一変して、生活感溢れる空間になっていた。魔女たちの個室があったエリアをエネルギー節減のために封鎖したため、魔女たちが談話室で暮らすようになったからだ。
残った魔女は四人。初めの頃は減るたびに補填されていた人員も、いまとなってどこも人手不足なのか一向に欠員が改善されない。クルーに至っては残り三人でかつての六人分の仕事をこなしていて、幽霊船を飛ばすだけでも精一杯だ。おかげで、かつては幽霊船内では気ままに過ごしていた魔女たちも、機内の掃除や炊事洗濯、簡単な設備点検などをこなすようになっていた。
そんななかで、いままでこの幽霊船で過ごし、そしていまはもういなくなった魔女たちの遺品をどうするかという話題になった。
ルシルは死者のものに手をつけたくないと言った。しかし、他の四人は当然のように自分たちで分け合うべきだと反論した。
「いまじゃ物資の配給も少ないし、これから本格的な冬が来たら着るものにも困るかもしれないもの。物を浮かせておくほうが罪が深いわ」
シュネーが当たり前のことのように言うのを、ルシルは顔を強張らせて聞いていた。
「別にわたしたち、暮らすのには苦労してないじゃない」
魔女になる前の、戦争に蹂躙された惨めな暮らしぶりを思えば、いまの生活に不足などなにもないように思える。しかし、シュネーたちは違うらしい。
「貰える物は貰っときましょうって、それだけの話よ」
「そろそろ個室を整理しなきゃいけないと思っていたし、掃除がてらちょうどいいんじゃない? 別に強奪しようってわけじゃないんだし……」
シュネーに同調して、ハナが言い訳がましく言葉を連ねる。ルシルは「好きにすれば」と呟いてそっぽを向いた。
そうして、個室から運び出された持ち主のいない私物が床にぶちまけられた。年の違い少女たちの持ち物だから、衣服はサイズさえ大きく違わなければ充分に着られる。アクセサリーや香水などの小物、手紙を書くつもりだったのか未使用の便箋に万年筆……皆、大した荷物を持たずに幽霊船にやって来たと思っていたが、それなりに身の回りのものを持ち込んでいる。ルシルにはそれらのものが、持ち主を失って静かに泣いているように思えた。
ルシルは最初、皆に混じってそれらを眺めていたが、やがて一人また一人とそこに手を伸ばして物色が始まると、静かにその輪から離れて談話室を出た。
廊下は暖房が止まって、ひんやりと冷たい。照明は薄暮を思わせるような仄暗さで、左右の壁が一層圧迫感を強めてルシルを囲んでいる。
コートを羽織ってくるんだったと、後悔が胸を過る。いま、談話室には戻りたくない。薄手のカーディガンの胸元を右手でかき合わせながら、ルシルは早足に廊下を進んだ。
幽霊船は現在、補給作業中で基地に降りている。基地といっても、なにもない荒野を柵で仕切って必要な設備を簡易で築いただけの仮設の基地だ。幽霊船は垂直離陸と着陸ができるため、飛行と着陸に長い滑走路を必要としない。それで、ちゃんとした基地ではなくこうした場所が待機場所として宛てがわれる。
ルシルたち魔女は談話室での生活に不満はないから良いが、クルーたちは本格的な設備のある基地で、もっと整えられた休息所で休みたいだろう。昼は幽霊船の整備、夜は作戦の遂行と忙しく立ち働く彼らの寝るところを、ルシルは見たことがない。
「魔女なんかがいるせいで……」
細い廊下の向こうの搭乗口は開け放たれていた。外へ出ると、曇天だというのにその眩しさに目が眩んだ。
荒野の地面は草の生え方もまばらで、ところどころでひび割れを起こしている。粗雑に打ち立てられた杭の向こう側に、そんな大地がどこまでも広がっていた。
ここもかつては豊かな牧草地だったのだろうかと、ルシルは考える。否、荒野は初めから荒野だったのだろう。ここが、植物が育つのに適さない場所だというだけで。
幽霊船の装甲を背に、ルシルは地面にしゃがみ込んだ。身を切るような風が吹いている。人々が戦争のなかに停滞しているあいだにも、季節は移ろっていくのかと、まるで置いて行かれたような孤独な気持ちが込み上げて、ルシルは額を膝小僧に押し当てて丸くなった。
「ルシル」
その頭上から、呼びかける声があった。ルシルが顔を上げると、エトワールが笑顔で立っていた。この子はいつも笑っているな、とルシルは思う。どんなに真剣だったり悲しい話をしていても、最後には必ず笑顔になる。どうして。
「寒いね」
そう言って、エトワールはルシルの肩になにかを着せかけた。ほど良く重さがあり、肩に当たる風が遮断される。横目に見ると、それはさっき談話室でエトワールが選び取っていたコートだった。臙脂色のダッフルコートで、裏地がお洒落なチェック模様になっている。
「これ、ルシルにぴったりだと思ったんだ」
「でも、わたしは……」
「ルシル」
エトワールはルシルの言葉を遮ってぴしゃりと彼女の名を呼んだ。すっと、エトワールの顔から笑みが消える。
「ねえルシル、生きようよ」
エトワールはルシルの前にしゃがみ込んで、真っ直ぐに顔を見合わせる。エトワールは左右で少しだけ色の違う青い目をしていた。顔の真ん中に、薄くそばかすが散っていて、それが金髪碧眼の天使のような顔立ちのチャームポイントになっている。
「死んだ仲間の分も、とか気取るつもりはまったくないけど、わたしたちは生きていかなきゃいけないと思う」
「でも、魔女がいるから戦争は激しくなって、長引いているのは事実だと思う。本国も、もう余裕がなくて新しい魔女を造れないんでしょう? いまいる魔女たちが一人残らず倒れたら、戦争は終わらない?」
ルシルの問いに、エトワールは「終わらない」と断言した。
「だって、魔女が生まれる前から人は戦争をしていたんだよ。だったら、魔女がいなくなったからって戦争は終わらない。魔女は、戦争の目的じゃなくて、手段の一つだもの。わたしたちが戦争に対して責任を負う必要なんてないんだよ」
「そんなことはないでしょう」
あれだけ壊して、散々殺して、どう責任を逃れられるのか。
「どのみち、終戦まで生き残ったとして、兵器扱いされたわたしたちに居場所なんかないんだよ。だったら、少しでも被害者を減らすためにもここで死んでしまうべきなんだ」
ルシルは目を伏せ、地面を眺める。ここは良い。誰もいなくて、なにも壊さなくて良い。そういう意味では、この不毛の大地は楽園だ。いっそここで幽霊船を爆発させて、皆で死んでしまえたらと思うけれど、魔女は自死のために力を仕えないという制限がかけられている。攻撃する対象を、自分で選ぶことができない。
「わたしたちは兵器じゃない!」
エトワールの声には怒気が含まれていた。ルシルの胸に、頬を叩かれたような驚きと、悲しい気持ちがじわりと広がる。
エトワールの言葉が続く。
「わたしは生きるために魔女になった。ルシルだってきっとそうだ。なにも願いを叶えてくれないこの世界で、自分で道を切り開けるかもしれないって信じたはずなんだよ。だってそうじゃなきゃ、魔女にはなれないんだから」
魔女の力に適合できるかどうかは、願望する力の強さによると言われている。願う力が強いほど、そして、願いをより具体的に想像できる力のある者ほど、振るう力は大きくなる。初めからすべてを諦めている者は、適合を試す過程で振り落とされていった。
「あなたはなぜ、魔女になったの?」
エトワールが強く問う。
「ルシルはどうしたいの? 魔女である以前の、本来のあなたはどうしたい?」
あの頃の自分はなにを考えていただろう。自らの運命に挑もうとした自分は、いまのルシルのなかにいるだろうか。
「……生きていくのが怖いんだよ。目の前で仲間が死んでいって、明日は我が身と思いながら過ごして、じゃあ、そうやって生き残って自分になにが残るんだろうって、平和になったらわたしたちは用済みで……そう考えたら怖くてたまらない」
迷ってはいけないと思う。魔女であることに迷ってしまえば、力はいずれ失われてしまう。そうやって多くの魔女が死んでいった。
「考えよう」
エトワールは言った。
「わたしに時間を頂戴、ルシル。あなたがいなきゃ……四人で力を合わせなきゃ、わたしたちは生き残れない。どうするのが一番正しいのか、それを考える時間が欲しいの。そのための時間を、どうか」
「……どうして、そんなに前向きでいられるの?」
エトワールはきょとんとした顔をして、それからはにかんだように笑った。ほら、また最後には笑顔を見せる。
「皆で一緒にいたいから、かなぁ」
「だめ?」とエトワールが首を傾げる。
生きるための名目が、そんな単純なもので良いのだろうか。ルシルは呆気にとられてただエトワールを見返すことしかできない。
もしかしたら、ルシルは生きることを難しく考え過ぎていたのかもしれない。得るもののない日々のなかで、絶望ばかりが渦巻く世界で、暗闇を眺めすぎて、そこにないはずのものが見えてしまっていた、それだけなのかもしれない。
そこに、エトワールは光を齎した。闇を貫いて輝く、一等星のように。
その光がルシルたちを導くのなら、ルシルはそれを守る守護者になりたいと思った。
「……わかった」
ルシルが頷く。エトワールの笑顔が、ぱっと弾けて広がった。
翌朝、幽霊船の待機する荒野に初霜が降りた。
長い長い戦争が、終わろうとしていた。
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