第10話 雒陽への道


 馬車は尸郷しきょうにある駅に着いた。ここからはもうすでに雒陽は三十里である。横はいよいよ心構えをせねばならなかった。


「ひと休みしましょう」


 王鄭はそう言いながら馬車を降りると、大きな伸びをして空を眺めた。それにつられて田横も空を眺めた。この日は晴天であり、馬車で長旅をするには日差しがきつい。


――もう秋だというのに……。


 盛りを過ぎても輝き、熱を送り続ける太陽に恨めしさを感じる田横であった。なぜならそれは、すでに滅びた斉国のもと君主である自分の姿と重なるように感じたからである。


「迷惑な日の光だ」


 横は、自嘲するように独り言を発した。


「なにか申しましたか?」


 田横の呟きは小さなものであったが、王鄭は耳聡く聞き返す。横は、それも迷惑に感じた。


「なんでもない。ただ、人の気も知らず輝き続けることのできる日の光が、羨ましいと思っただけだ」


「どういう意味です?」


 田横は、その王鄭の問いに答えなかった。


「…………」


「自責の念にでも、駆られているのですか」


 田横は、その言葉にどきりとした。王鄭が自分を糾弾していると感じたのである。


「だったら、どうだというのだ」


 へそを曲げたような言い方をした田横に対し、王鄭はこともなげに返事をした。


「どうもしません。もしあなたが過去の自分に嫌悪感を抱いているとしても、それはあなたご自身の問題であって、他の誰かがどうこうできることではありません」


「妙に冷めた言い方じゃないか。まあ、いまの私は虜囚のようなものだから、邪険にされても仕方ないが……」


「そういう意味で言っているのではありません。私は、皇帝でさえもあなたの意志に立ち入ることはできない、と言っているのです」


「……つまり……?」


「皇帝があなたの過去の行為を遡って断罪することはない、と言っているのです」


 田横は、腹立たしく感じた。


「私は、私自身に苛立ちを感じているのだ。皇帝から処罰されることを恐れて、そのようなことを考えているわけではない」


 王鄭は、両手を挙げて討論しない意志を示した。おどけた表情をして場を和ませようとした彼に対し、横は鋭く言い放った。


「ごまかそうとしても無駄だ!」


 突然そう言われた王鄭は、動揺した様子を見せた。


「な、なにをごまかすというのです? この私が……」


 すると田横は表情を改め、謝意を示した。


「……いや、すまぬ。私の思い違いであったらしい。どうかしばらく……ひとりにさせてくれないか」


 そう言うと田横は、駅舎にある馬糞臭い厩舎の中へ入り込んでいった。王鄭はそれを目で追ったが、口に出しては何も言わなかった。



――私は、まったく悟ってなどいなかった。この期に及んでなぜこうも気が揺れるのか。皇帝に私への殺意がないとわかれば、ただ泰然としていればよいというのに……。


 横はひとり物思いに沈んだ。馬たちが嘶く中であったが、それを気に留める様子はない。


――しかし、たとえ皇帝が許すといったとして、それをありがたく受け入れるだけの図々しさは、私にはない。死んでいった者たちに申し訳が立たないばかりか……だいいち、それを受け入れれば、漢に敗れたことを私自身が認めることになるのだ。


 だとすれば、自分は戦うべきなのか。剣をふるい、拳を突き上げ、兵を募るべきなのか……。いや、それはあり得ない。良識ある者は、戦うべきときに戦うべきであり、そうでないときに戦おうとする者は、単なる天下の大罪人である。


 いま、田横の目から見ても、天下は漢の旗のもとに定まろうとしている。田横率いる斉は滅び、項羽が率いた楚もすでに滅んだ。だとすれば、自分がとるべき道は、降伏することのみなのだろうか。


――いや、もと斉の指導者として、漢の支配を受け入れぬ気概を見せる方法が、ひとつだけある。


 田横はそう思ったが、その先を考えることはやめにした。そのとき、島で自分の帰りを待つ胡青の姿が脳裏をよぎったからである。


――帰りたい。


 それは、本心であった。できることなら自分の過去をすべて捨て去り、島で新たな人生を、愛する胡青とともに過ごしたい。それが個人としての田横が望む人生であった。


 では、公人としての自分はどうか。


 漢の使者である酈食其を殺し、斉の独立性を保つために何度となく戦場に立っては、人を殺した。漢の皇帝とは、いわば政敵同士の関係にある。ついこの間まで対立の姿勢をあらわにしていたというのに、天下が漢に定まったからといって、へらへらと仲睦まじくなどできようか。それでは、いままで自分のために死んでいった兵士や、ふたりの兄に対して顔向けできない。


 そう思いながらも、帰ることのできない立場にある田横であった。


「田横どの。そんなところにいつまでもいらっしゃると馬の臭いが染み付きますぞ。屋根のかかった休み所がありますから、日陰に入りたいのでしたらこちらへどうぞ」


 王鄭は田横を気遣い、誘った。しかしこのとき田横は、そのことが癪に障った自分に気付いた。


――ああ、私はもともと……人に哀れみをかけられるような存在ではなかった。そして最後まで、そのような存在であるべきなのだ。やすやすと、自分自身を変えてはいけないのだ……。私自身がその変化を受け入れても、かつて私を慕ってくれた人々が、それを許すはずがない。


 そう考えた田横であったが、傍目には思い詰めた様子を見せずに、王鄭に対した。


「いや、すっかり服が馬臭くなってしまった。このままではとても皇帝の前に立つことはできない。……人臣たるこのわしが、天子に目通りするためには、みそぎをすませ、髪も洗わなくてはいけない。そうだな?」


 田横の発言は、確かに当時の貴人に対する一般的な作法を話したものに過ぎない。このため王鄭は、これをまったく不自然なものとして捉えなかった。


「そう言われれば、そうでしょうね」


「では、ぜひそうしたい。また、気晴らしに供の者とその辺りを散策もしてみたいのだ。少しの間、我々だけにしてもらえないだろうか」


「承知いたしました」


 かくて田横は随員の食客ふたりを連れて、王鄭の前を立ち去った。



 食客のふたりを連れた田横は、どこへ行くというわけもなくさまよい歩いた。連れのふたりは同じ道を何度も行ったり来たりする田横に、いつもとは違う様子を感じざるを得なかった。


「禊をすませるのではないのですか?」


 彼らは口を揃えてそう聞いたが、田横は答えない。あるいは「禊」にはこのような作法があるものなのだろうか、と彼らがいぶかっていると、唐突に田横は叫んだ。


「よし。決めた」


「なにを、でございます」


 まるで憑き物がとれたように表情を晴れやかにした主君の様子に、彼らは驚きをあらわにして聞いた。しかし、それに対する田横の返答は、短く、端的なものであった。


「死ぬ」


「は?」


「死ぬのだ」


 田横にとっては考え抜いたうえでの決断に違いないが、供の者たちにとっては寝耳に水の話である。彼らは横がいったい何のことを話しているのかが、よくわからなかった。なぜ、横が死なねばならないのか。


「……なにがどうしたのか知りませんが、お考え直しください。ここで死なれては、島に残してきた者たちはどうなるというのです。彼らはあなた様のお帰りを心待ちにしているのですぞ」


 彼らにとってみれば、主君たる横に死なれてしまうと、その後の生活を保障してくれる存在もなくなることになる。よって、説得も必死であった。


 だが、横はそれに取りあおうとしない。


「皇帝が問題にしているのは、私だけだ。島にわしが誰を残し、その者たちがどういう素性の者かなど、興味はないさ。島の者に危害が加えられることはなかろう。それより……聞け。皇帝はかつて漢王であり、私はほんの少しの間であったが、斉王であった。ともに臣下を前に南面して座り、余と自称する身分であったのだ」


 田横は聞け、と言う割には二人に背を向けて話している。その姿は、討論はしない、説得には応じない、という意識のあらわれのようであった。 


「それが今に至り漢王は皇帝となり、私は……何者でもない。私は皇帝を前に北面して座らねばならぬ。はたしてこれが耐えられることだと言えようか」


――本当だろうか。


 二人の食客たちは、田横の発言を疑う表情をした。ついこの間まで島で平民として暮らしたい、と言っていたはずなのに。


 しかし、田横の独り言は続く。


「我々はとらわれの亡命者として、彼に仕える……その恥辱は実際ひどいものだ。また、私は人の兄を殺しておきながら、その弟と肩を並べて主君の前に跪くことになる」


 ――まだ、そのことを……。


「皇帝は酈商に私のことを理由に騒乱をおこすな、と命令したらしいが、そんなことは問題ではない。酈商が私を許すか、許さぬかは問題ではないのだ。問題なのは私の心なのだ」


 田横はここで食客たちに向き直り、言い諭すように言葉を継いだ。


「酈商が天子の勅命を憚って何ごとも起こさないとしても、私はそのことを自らの心に恥じる。それに皇帝が私に一目会いたいというのは決して私と話がしたいというわけではなく、単に私の顔つきがどんなものか見たいだけだ。ここから雒陽まで三十里、早駆けの馬で走れば、私の首も腐乱すまい。容貌もまだ崩れず、よく観察していただけるだろう」


「しかし……」


「使者の王鄭にもよく観察させてくれ。きっと彼は、思うところがあるだろう」


 そう言った後、田横は胡青を始めとする、彼の帰りを待つ人々への思いを断ち切り、一気に自らの首をかき切った。


 討論はしない、説得には応じないという意志を形にしたのだった。



 王鄭は絶句した。あろうことか、ほんのわずかの間に田横は命を絶ち、首だけの存在になってしまっていたのである。食客の二人が抱えた田横の首は目が見開かれたままで、それが自分を睨んでいるかのように感じられた。


「なぜ……こんなことになったのか。君たちはとめなかったのか。彼には、自分の死を悲しむ人がいなかったのか」


 そう言いながら彼は田横の目に手を伸ばした。


「せめて、目を閉ざしてやったらどうなんだ」


 しかし、食客たちは王鄭の腕を押さえ、それを遮った。


「目が閉じられていては、田横様本来の姿を皇帝にお見せすることは出来ません」


 彼らの主張に王鄭は手を引っ込めた。しかと見開かれた目は、田氏三兄弟の最後の気骨ある姿なのか、と自問しながら。


 王鄭は仕方なく、道を急いだ。


 自分が使者としての使命を完全な形で果たせなかったことを悔やんだのは確かであったが、心の内に他の感情が芽生えたことも否定できなかった。しかし、それが何なのかは自分でも説明できない。


 まったく、生を軽んじて死を簡単に受け入れるということは難しいことのようで、楽なことでもある。死を恐れず果断に行動する、ということは勇ましさの証のようなことである。しかしひとたび人が死ねば、それを受け入れるのは生き残った側の者なのである。そのことを考えると、自決という行為はやはり自分勝手な行為であると言うほかない。


 それまで饒舌だった王鄭が、このあと雒陽に到着するまでひと言も発しなかった。


 食客たちは、その道中を横の首を抱きながら、泣きはらして過ごした。



「由緒ある田姓に生まれながら、かの三兄弟は秦末の動乱時には平民であった。それが三人とも相次いで王となったのは偶然ではない。彼らが他ならぬ彼らであったからこそできた芸当だ。やはり立派な男たち、と言うべきではないか……」


 雒陽で劉邦が田横の首級と対面したときの感想がこれである。劉邦は乱世で王を称する苦労がよくわかるのであろう。首だけになった田横に同情し、涙さえ流した。


 劉邦はさらに、田横に随行した食客の二人に都尉の名誉を与え、自らの兵卒二千人を動員して田横の葬儀を執り行なった。これは、王者を葬る儀礼であったとされる。


 しかし、儀礼は丁重を尽くしたにもかかわらず、二人の食客はその後、田横の墳墓の脇に穴を掘って自分たちを埋めた。田横と同じように、自分たちの首をかき切り、穴に飛び込んだのだ。


「なんという忠節だ。田横は、見事に臣下の心をよくとらえていたようだ。いまもしこのわしが死んだからといって、あとを追って命を断つ者が何人居よう? そうそう居まい。……このうえは、田横がどの程度人心を得ていたのかを確かめてみたい」


 そう周囲に語った劉邦は、ひとつの指示を発した。


「未だ即墨の沖にある島にいるとされる田横の五百名の臣下たちに、この事実を知らせ、雒陽に呼びよせよ。彼らに主君の供養をさせるのだ」


 あるいは、劉邦の中にある底意地の悪さが表に出た指示だったかもしれない。田横の死を、彼らがどの程度悲しむのか……それを見届けたいと思ったのだろう。


 皇帝劉邦は、このとき明らかに田横に嫉妬したのだった。


 しかしこの行為は、過ちであった。劉邦は、彼らを放っておくべきであった。



 長旅を終えた彼らが目にしたものは、田横の首が埋められた塚であった。


「ああ、なんという……」


「我らは、この先どうすればよいのか」


 彼らは口々に横の死を悲しむ言葉を放ち、それは叫びとなった。周囲にいた漢の宮殿の者たちは、それを恐れ、あるいはこれが叛乱のきっかけになるのではないかと疑った。


 しかし、それらは杞憂に終わった。彼らはひとしきり大声を発したのち、揃って皆泣き出したのである。地べたにひれ伏して泣き悶える者、肩を落として立ち尽くす者、頭を抱えて跪く者……五百名が五百通りの嘆き方で、主君の死を悼んだ。


 そして彼らは自らの気を落ち着かせたあと、示し合わせて自分で自分の首を斬り落とした。皆、主君である田横に殉じたのである。


 ひとりの男の死が、ふたりの男を死に至らしめ、さらにそれが五百名の死を生んだ。歴史上他に類を見ない集団自決が、ここに発生したのである。


 皇帝劉邦は、その結果に驚愕した。このとき彼は周囲の高官たちに対して言ったという。


「よく人心を得るということとは、こういうことなのか。ではわしよりよほど人心を得ていた田横が国を失い、わしが漢の旗のもとに天下を定めることができたのはなぜだ」


 難しい質問であった。しばらくの沈黙のあと、相国である蕭何がひとつの解答を示した。


「陛下は必要以上に人の心に寄り添わなかったからこそ、大事を成し遂げられたのでしょう。田横は人の心に惑わされ、それによって目的を達することができなかった……意志が弱かったと言えます。優しすぎたのでしょう」


「ふむ……」


 大いなる目的は、人の心を踏みにじって達成できるものである。それが出来ない者には、結果は与えられない。田横の死は、そのことを証明する出来事であった。


 しかし一方で、人の心を踏みにじってまで目的を達成することの虚しさを示す出来事であった、ともいえる。


 それを痛感したのは、皇帝である劉邦自身であった。

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