第8話 弟と女


 衛尉酈商は兄の食其とは違い、学問を志したことはなかった。かといって、学問に興味が無かったわけではない。弟である彼の目から見ても、兄があまりに変人であったため、同じ道を歩むことが憚られたのである。


 若いころの酈生は、世間からつまはじきされる存在であった。兄は孔子の学説に傾倒し、それを理解しない者を口汚く罵倒した。


 そもそも孔子の説く儒学とは、人に対する礼儀を建前としたものであった。しかし、それを広めようとするはずの酈生がそのような態度であったので、彼の言うことを真剣に聞こうとする者は皆無である。人は陰で酈生のことを「狂生(気違い書生)」と呼び、父老たちは彼を門番とした。城壁の外に立たせておけば、無用な人との衝突が避けられる、と考えたのである。


 しかし意地悪な者がそのことを揶揄すると、彼は烈火の如く怒り、暴力沙汰を起こした。


 酈生は身の丈が八尺もある大男であった。その彼が渾身の力を込めて人を殴ると、相手はたいてい、起き上がれない。それがひとの恨みを買い、その害が弟の商に及んだのである。


「今日も路地裏で殴られたぞ、兄上! 彼らが兄上の志す学問を理解できないからといって、むやみやたらと殴るのはやめてください! 私は、その仕返しを受けねばならないのです」


 商の痛切な訴えは、幾度となく続いた。それは商自身の若き日の思い出ともなっている兄との会話であった。


「兄上は、私が人になんと呼ばれているのか、知っていますか」


 食其は無言で、その質問に答えることはない。よって、商は自分で質問しておきながら、自分で答えるのが常であった。


「狂生の弟と呼ばれているのです!」


 まったく、一族の中に変人がいるとは迷惑なことで、自然、商は兄を憎むようになった。彼は兄のみならず、兄の志す学問さえも否定したく思うようになった。


「身に付かない学問なら、捨ててしまえばいいでしょう。礼儀を学んだはずの兄上が、なぜ人に暴力を奮うのか。その理由はただひとつ! 身に付いていないからだ。そんな学問など無用ではないですか」


 そこまで言われても食其は無言である。商はさらに食い下がるのが常であった。


「なんとか言ったらどうだ!」


 その会話は何度も繰り返されたが、食其が答えたのはただ一度のみである。そのとき、彼はこう答えた。


「大いなる目的のためには、小さな屈辱や痛みには耐えねばならぬ」


 商は食其の抽象的なその返答に、唖然とした。一瞬の自失のあと、それは怒りに変わった。


「耐えているのは兄上ではない。この私なのです。いったい兄上のいう大いなる目的とは何なのですか」


 その質問は一度しかしたことがなかった。ゆえに食其が答えたのも、一度きりである。


「善悪の峻別だ」


 しかし、商にはその言葉の意味がよくわからなかった。


――悪は兄上、あなただろう。


 酈商はそう思ったが、このときの酈食其の言葉は不思議と彼の中で重みを持った。そのせいか、以後は屈辱を受けても兄にそれを言いつけることができなくなった。


 そして酈商は劉邦の軍に参じて現在に至っている。学問を志した兄とは違い、彼は純粋な武官として数々の戦いを経験し、相応の地位を築いた。が、善悪の峻別という兄の言葉の意味は未だ解明できずにいる。



「私に言えることは、兄は兄らしく死んだ……本望だったろう、ということだけです」


 酈商は召し出された場でそう自分の考えを述べた。


「お前は、ことの仔細を知っていて、そう言っているのか?」


 劉邦は聞いた。あるいは皇帝である自分に対する遠慮が、彼にそう言わせたのではないか、と勘ぐっているのである。


「知っております。陛下が兄に使者としての任務を与えながら、楚王韓信に攻撃命令を出していたこと……楚王は兄が使者として臨淄に滞在していることを知って攻撃をためらったが、配下の弁士である蒯通かいつうの言を用い、結局攻撃したこと……一連の出来事はすべて聞き及んでおります」


 劉邦はこれを受けて、安心したかのような素振りを見せた。


「では、お前は兄の死に関して誰をも恨んでいない、そういうことか? そう捉えてよいのだな?」


 聞かれた酈商は、少し悩んだ表情を浮かべたが、やがて心の中のおぼろげな思いを押し出すように、言葉を継いだ。


「誰かを恨んだところで……兄が帰ってくるはずがありません。生前の兄は……学問を追究するあまり……とらえどころのない人物でした。弟の私が言うのですから、それは間違いありません。……兄は、死ぬ運命を承知で臨淄に向かった。そして望みどおり死んだ……兄の意思がどういうものか私には未だにわかりませんが、兄には兄の望む死に方があったのだと思います」


 劉邦はこれを聞き、今度はあからさまに安堵の色を顔に浮かべた。威厳がないようにも見えるが、これは少なからず酈食其の死に責任を感じていた彼の気持ちをよくあらわしていたと言える。


「では、わしの指令に間違いはなかった、と?」


「私に陛下の詔を評価する権限はありませぬ。また、たとえあったとしても……陛下のご判断に間違いはなかったと思います」


 酈商の態度はまったく不自然さがなく、それによって劉邦も蕭何も、この言葉を信じた。



 しかし彼らの質問はまだ続く。

 蕭何がその口火を切った。


「実際に君の兄を煮殺した斉の王室に対しては……とりわけ一族の最有力者であった田横についてはどう思う?」


 やや酈商の表情は固まった。そして額には汗が浮かぶ。


「田横……楚王韓信が討ち漏らした男、ですな!」


 酈商の眼光の鋭さが増したように、二人には見えた。落ち着いて兄の死を受け止めているように見えた彼にとって、唯一虚心でいられない相手が田横、ということになるのであろうか。


「田横を恨んでいるか? 憎いか?」


 蕭何の問いに酈商は目を閉じた。自ら眼光の鋭さを消し、それによって次第に心が落ち着いていく様が傍目にもわかるようであった。


 やがて彼は答えて言った。


「憎くないか、と言われれば憎い。ですが憎いかと問われれば、そうでもありません、とお答えしましょう。今、陛下が私に田横を討てと命令されれば、私は無心でその命令を実行します。しかし、命令が下されなければ……なにもしません」


 劉邦と蕭何はこれによって田横を懐柔しようと決めた。兄を殺され、誰よりも田横を恨んでいるはずの酈商が「討つことに乗り気でない」と言っているのである。情を優先させたような形ではあるが、必要以上に争いごとを起こす余裕は、政情が未だ不安定なこの時期の漢にはない。


 しかも酈商が「指令に間違いはなかった」と言っている以上、劉邦としては無理に田横を討つ理由がなくなった。胸のつかえがとれた劉邦は、海上の島にいるとされる田横に対して使者を送り、罪を許すと宣言した。そして一度上洛して顔を見せよ、と指令を出すに至る。


 しかしそれを聞いた田横の胸中は複雑なものだった。



 田横がたどり着いた島は、即墨そくぼくの東の海上にある。島にはある程度の住民がいたが、田横は意に介さなかった。住民の多くは、斉地を本拠に活動する漁師の家族であり、その中には大陸と島の間を行き来して生活する者もいた。


 つまり田横の顔は、まだこの島では利くのである。


 住民たちは「田氏の王さまがこの島にやってきた」と騒ぎ、揃って貢ぎ物を差し出したりした。しかし、その貢ぎ物の中身がどれも魚であったことは、田横を落胆させた。


 ――当面三食どれもが魚、という生活が続きそうだ。


 並み居る豪傑たちと覇権を争い、人を人とも思わぬような人生を送ってきた自分が行き着いた場所……それが三食魚づくしの島だった、ということに思い至ると、彼としては苦笑いするしかない。


 ――これが天罰だとすると、軽いものではないか。


 そう考えると、苦笑いが本気の笑いに変わる。なんと滑稽な顛末。一種の喜劇ではないか、とも思えてくる。


 ――しかしこのまま終われば、総じて私の人生は幸福なものだったといえるかもしれない。


 だが、このまま終わるはずがないとも思う。あるいは自分はこの島を足がかりにして、もっともっと東の海上へ逃れなければならないのではないかと。そして大陸に住む者の誰もが知らない土地へたどり着き、そこで自給自足の生活を営むしか生き残る術はないのではないか、と思うのであった。


 もちろんそんなことは出来るはずがない。仮に見知らぬ土地にたどり着いたとしても、名族に生まれた自分が畑の土をあさり、素潜りして魚を捕って生活するなど、出来ようはずもなかった。気位の面もあるが、それ以前に技術的な問題がある。彼は泳いで魚を捕るだけならまだしも、作物は育てるものではなく、人に命じれば勝手に育つものだと思っていた。この段階に至り、ようやく彼は庶民の逞しさと、自分の人生の浅はかさを後悔したのであった。


 にもかかわらず、つき従う五百名の部下たちは自分にとてもよくしてくれる。もう自分には彼らに与える土地も、金もないというのに。


 名目的な爵位さえも与えることができない。それは自分があえて王侯を称さなかったからであった。


 ――普通の人間として、生きたい。


 田横はそれを強く願った。そして心の片隅で、自分にはそのような小さな願いを持つことすら許されないのではないか、と思っていた。


「お気を確かに。王であろうとなかろうと、あなた様があなた様であることに変わりはございません」


 海を眺めながらひとり物思いに沈む横に、不意に背後から声がかけられた。


 女の声であった。


 声のする方向を探して振り向いた横の目に、記憶の底にある姿が飛び込む。それは……かつて兄の儋の儀式の相手をしていた女のひとりであった。


「お前は……たしかあのときの……莱族の女ではないか。ここでなにをしている」


 横は驚きを隠せなかった。島を訪れて早くも退屈を感じ始めていたこともあり、訪れた衝撃に彼は喜びも覚えた。


「莱族は嫌いですか。蔑みますか」


 女は聞いた。その口調は、すこし悪戯っぽい。


「別にそんなことはない。逆に興味深い。……島の暮らしに退屈を感じ始めていたところだ。少し話し相手になってほしい」


「はい。喜んで」


 女は快諾した。


「うむ。ではまずお前の名を聞こう」


「はい。胡青こせいと申します。胡という姓は、えびすという意味に由来していて、私自身は好きではないのですが、青という名は気に入っています」


「青……君らしく謎めいた魅力を感じさせる名だ。では、最初の質問に戻ろう。君は、なぜここにいるのか」


 青という名の女は、その質問に、遠くを見るような目をして答えた。


「導きによって。以前に私たちが得たお告げは、田儋さまを指導者として仰ぎ、その行く末を共にせよ、というものでした。田儋さまのお命は不幸にも尽きましたが、私たちの神は、その続きをも見通しているのです。田栄さまの死、あなた様の迎えた運命。そしてあなた様の未来……さらに言えば、私たちの未来は、あなた様にかかっているのです」


「私の存在が、君ら莱族の未来を左右するというのか。それはいったい……」


 青は、聞こうとする横の口を右手で優しく覆い、話を止めた。


「口で話すよりも、私たちの言葉で話す方がいいでしょう。場を設けていただけますか?」


「君たちの言葉……?」


 横は青の言っていることがよくわからなかった。それだけに不安が膨らむ。


 しかし青の表情と態度は、包み込むように優しい。彼女は、まばゆいばかりの笑顔で横の不安を吹き飛ばした。


 だが彼女の次の言葉は、やや横を不安にさせるものであった。


「儀式のことです。あなた様も、いまとなっては自分の未来を受け入れることができることでしょう」



 あるいは退屈しのぎか。横は島の端にある屋敷の一部屋を儀式の場にあて、青をその場所へ誘った。海の見える場所。夕暮れ迫る時。かつて横が儋の儀式に立ち会った際とほぼ同じ条件で、それは行なわれることとなった。


 青は隣の部屋に引き下がると、以前と同じように、目の荒い網で作られた衣裳に身を包んだ。そして寝台に横たわる横の体を、まるで舐め回すようにまさぐっていく。


 横には、それがとても心地よく感じた。全身から力が抜け、すべてを青に預けた感覚だけが残る。彼は次第に恍惚状態となり、現実と夢との区別がつかなくなった。


 脳裏には幼き日に見た懐かしき風景が浮かび上がり、そうかと思えばいままで見たこともないような異様な景色が映し出された。それを意識の中で反芻することは難しかったが、ひとつだけ強く意識に刻まれたものは、この島の住民たちが自分の墓を眺めている風景である。しかし、それが島にあるものなのか、それともそれ以外のどこかにあるものなのかは、このときの横にはよくわからなかった。


 そして自分が墓に入ることになった経緯も、よくわからない。誰かに殺されることになったのか、それとも単に老い朽ちただけなのか……しかし、もはやそれを心配する気持ちも、このときの横の頭の中からは失われた。目の前、頭の中に見える景色をただ受け止める……それが現実であるか、それとも単なる夢であるかは問題ではない。ひたすらに受け入れ、それに対する感情を捨て去ることを、横は快く感じた。


 いま、ここに見える風景は、すべて正しいことなのだ、私はこの通りに行動しなくてはならない……すべてを捨て去った横は、限りなく素直な気持ちになった。


 彼は、世にはびこる善悪の概念を捨て去ったのである。なぜならそれらのほとんどが、実は偽善、偽悪の類であり、ひとりの人間が自由に生きる権利の妨げとなるものだったからである。


――ああ、人とは生きるべきときは生き、死ぬべきときは死ぬ。為すべきとは為し、為さずときは為さず。ただそれだけの存在に過ぎず、またそうであるべきなのだ。


――私は、死ぬべきときに死ぬ。そうでなければならない。


――自分の罪深さを素直に受け入れれば、死の瞬間でさえも後悔すべきことはない。


 そのような思いが横の頭脳を巡った。そうすると、自分の身の回りの人や物のすべてが、いとおしく感じられた。


「青よ」


 目覚めた横はそう呼びかけると、目の前の青を招き寄せ、網目の服をすべて脱がせた。そしてその感情のまま、彼女の体をもてあそび、激しく抱いた。


 その感覚。先刻のような、力が抜けていくものではない。現実に目の前の青は存在し、そのすべすべとした皮膚や、柔らかい乳房もすべて現実のものであった。すべてが夢ではなく、実在する。その事実こそが、人生であった。


 物質としてありもしない感情や、見栄や誇りといった自己顕示欲の類い。それらは人の行動を妨げるもの以外の何ものでもない。また、他人の定めた決まりや慣わしに従って生きる肩身の狭さ、体制や時流に沿って少しでも長く生き延びようとする堅苦しさ……それらをすべて否定すれば、他人の行いもすべて、許すことができる。そうなればきっと人は充足し、必要以上に欲を出すこともなくなろう。


 横は、青との触れ合いの中で、儀式とは別の悟りも得るに至った。



 かくて悟った田横の前に、漢からの使者が姿を現した。体制を否定し、自由に生きることを望んだ横としては、なぜ放っておいてくれないのか、という思いがある。


 しかし、それをそのまま主張することは憚られた。世の人々がすべて、横のような悟りを得ている事実はなく、横自身もそのことを承知していたからであった。


「私はかつて……陛下の使者の酈食其を無惨にも煮殺してしまった。聞くところによると、酈食其には弟がおり、漢の将軍となっているそうじゃないか。しかも、なかなか有能な男だと聞く……。彼は私を恨んでいるだろう。それを思うと、とても恐ろしくて上洛などできぬ。勇気がないのだ。笑ってくれてもいい」


 しかし、もちろん使者は笑うことなどせず、真剣な表情で返答した。


「陛下は貴殿の罪を許す、とおっしゃっています。陛下が許すのですから配下の将軍に過ぎない酈生の弟がそれに逆らうことは出来ません。どうかご安心なされよ」


 田横は、このような人の社会の決まりごとを否定したかった。なぜ、血を分けた弟の怒りが、「陛下」と呼ばれる人物によって掣肘を加えられることになるのか。彼は明らかに酈生を殺し、罪を犯した。だから、弟の怒りを買うことは当然だというのに、世の中には罪に対する怒りをも妨げる権力というものが、存在するのである。


 だが、やはり自分は罪深い、とも思うのである。彼は殺されるべき立場にあるというのに、できるだけそれは避けたいとも思っている。弟がこの場に彼を殺しにやってくれば、逃げるつもりでいた。……しかしそれも人としての素直な感情である。


 よって彼はできるだけ口上に気をつけて、使者の感情を逆立てないようにしながらも、通達を否定した。


「許される、ということであれば……どうかもう私のことはもう忘れていただきたい。平民として、海中の島にとどまらせていただくことをお許し願いたいのだ。……そう陛下にお伝えしてほしい。お願いだ」


 この言葉を使者は受け入れ、会談は物別れする形で終わった。


 このとき田横の前に現れた使者は、強権的に無理を強いる形の交渉をする気はなかったらしく、その点が田横の心を動かした。彼に、考える余裕を与えたのである。


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