第3話 臨済の戦い
「兄は狄県の県令を始末し、自ら王を称しました。これは極めて暴力的な手段であり、決して褒められたものではありません。にもかかわらず兄は賞賛され、斉の住民たちはこぞって彼のもとに馳せ参じました。人々は秦の強権的な支配を憎み、誰もがそれを覆したいと思っていた。しかしそれを実行に移せたのは、兄しかいなかった。人々は兄の権力掌握における手法よりも、その結果を重視したのです」
「確かにその通りかもしれないが、それはなにも田儋に限ったことではない。この乱れた時代の中で人々を導く為には、清廉さだけでは対処できない。楚の項羽は自らたてた王を弑逆した上で天下に覇を唱えたというではないか。かくいうわしも、領民を食わせる為にはこそ泥のような真似をはたらくときもあるのだ」
「ですが、兄の清廉さは斉の権力を掌握したあとに発揮されました。兄はいたずらに領土を拡大しようとはせず、斉という国家を、小さくもよくまとまった国に仕上げました。その噂は国境を越えて語り継がれ、危機に陥った国々は兄の英明さを頼るようになります。そして兄は、それに応えようとしました」
「それが、田儋が滅びるもととなったわけだな」
「ええ。そして悲しいことに、兄は自身が滅びることを知っていたのです」
一
田儋の建国宣言により、一度滅びた斉は復活を果たした。この時期には旧来の戦国諸侯国である魏や趙も復活を果たしていたが、それらはいずれも陳勝と呉広の息のかかった者らが、その影響力を背景に建国したという経緯を持つ。これに対して斉は、陳勝配下の周市が斉地を制圧しようとした動きに対抗して作られた組織が国と化したものであり、非常に独立性が高い。そして彼らは実際に周市軍を撃退したのだった。
これにより田儋は勢力を拡大し、山東半島一帯を支配する旧来の斉地を回復させるに至った。その地にはすでに秦の支配は及ばない。
ただ秦としては失地回復の努力は常にしているのである。このとき秦の将軍として各地の自立勢力を討伐する任に当たっていた人物の名を、
章邯はもともと軍人ではない。地方の徴税官に過ぎない男であった。その彼が腐敗する宮廷の現状を嘆き、独自に案を示して編成したのが、このときの秦軍である。その案とは始皇帝の墓の建設に充てられていた各地の囚人たちに恩赦を施し、兵とするというものであった。
急造の軍であることは否めないが、もともと秦とは、その圧倒的な軍事力の優越によって覇権を握った国家である。兵の質は高く、鉄製の武器は、他の諸国のそれに比べてどれも強固であった。
章邯は、まず秦の首都である咸陽に迫った陳勝軍を撃退すると、関所の外に討って出る。関外出兵を果たしたわけだが、これは内政に大きな問題を抱えた国が、外征で勢力を挽回しようとした形であった。このためどんなに章邯率いる軍が強くても、内政に不満を持つ国民たちは、叛乱をやめることをしなかった。章邯にとっては、戦っても戦っても終わることがない外征の連続であったことだろう。
しかし章邯は強く、陳勝を死に至らしめた彼は、その勢いをもって魏に侵攻し、その首都である
「いよいよ秦と直接戦うことになる。これに成功すれば我々の魏国への影響力も増すわけだ。ゆくゆくは魏を斉の属国とすることも夢ではない」
次兄である田栄はそのように語った。栄は、兄の儋に比べて野心が多く、斉国の将来に関しても拡張を主張している。儋は、それをたしなめることが多かった。
「秦という相手の実力や魏の国情を理解もせずに、そのようなことを言うべきではない。私にもしものことがあったら、お前は皆を導かねばならぬ立場なのだ。浮ついたことばかり申すな」
このときも儋は、栄に苦言を呈した。傍で見ていた横としては、どちらの言い分に加勢すべきか判断がつきかねたが、儋が未来を見通せる力によってそのように言っているとしたら、正しいのは儋の言うことである、と考えざるを得なかった。
しかし儋が真にそのような力を持っているとすれば、これは甚だ深刻な発言でもある。儋の発言は、臨済の地で彼が命を落とすことになる、そのことを暗に示しているのではなかろうか……横は不安に駆られた。
「……兄上は、この戦いに苦労する、とお考えですか」
横はやっとのことでそう質問した。直接的に「あなたは死ぬことになるのか」などとは到底聞けない。
「斉がこれで終わるということはない。気持ちを強く持って前に進もうとしなければ、何ごとも果たせぬぞ」
儋の答えは非常に意味深である。答えだとも答えではないともいえる返答であった。
二
秦軍は臨済の城壁を取り囲み、これに対して魏軍は籠城することで対抗していた。斉軍は包囲している秦軍をさらに包囲しようとする。それに秦軍が気を取られて対抗する姿勢を見せたとき、内側の魏軍が討って出れば両者による挟撃が可能となる。そう考えた田儋は、視界が悪い夜のうちに秦を討つことに決めた。
「寝静まっているようだ。一度の襲撃で敵の半数を片付けることができれば、状況は我々にとって非常に有利なものとなる。襲撃に成功したと見た時点で、
田儋はそう言い、軍を慎重に前に進めた。用心深く、浮つくところのまったくない軍の指揮ぶりである。横のみならず、栄を始めとする斉軍に属する者は皆、この襲撃が成功するものと思って疑わなかった。
しかし秦の章邯の判断は、儋のそれを上回っていた。
章邯は物音を立てぬよう、兵だけではなく、馬の口にまで
鏑矢は発射されることなく、斉軍は潰えることとなった。思わぬ形で後ろから襲撃を加えられた斉軍は、一瞬のうちに崩壊した。
「横! 横よ! 聞こえていたら心に刻め! 栄を支えて、斉国を保つのだ。定められた未来に抗って、できうる限りの理想を追え! わしの命はここでつきるが、魂は死ぬことはない。わしの魂は生まれ育った斉の地と共に、永久に存在するのだ」
その声は確かに横の耳に届いていた。横は儋のもとに駆け寄って危機を脱したいと望んだが、断続して降り注ぐ弓矢によってそれを遮られた。耳元で風を切る音をならす矢の数々は、目の前で何人もの兵士に突き刺さり、それをなぎ倒していった。横は盾でそれを防御することに精一杯で、儋のもとに辿り着くことができなかった。
形勢がすでに有利となった秦軍は、存在位置を隠すことをやめ、火矢を放ち始めた。これにより臨済の城壁は燃え盛り、付近にいた兵士たちにもその火が燃え移った。
中には直接火矢を受けて全身を燃やし尽くす者もあった。そして田儋もそのひとりとなったのである。
腹に受けた矢の先の火が、飛び散って儋の全身に燃え移っていく。横は盾に身を隠しながら、その様子を見守ることしかできなかった。
――ああ、兄上にはあのとき、この自分の姿が見えたのだ! にもかかわらず自分の未来に横たわる運命を受け入れたのだ! なんという雄々しさよ!
田儋に本当に未来を見通せる力があったとしたら、自分の最期は予想できただろう。しかしわかっていながら、儋はそれを覆そうとした。しかし、結果的にそれは叶わなかったのである。
横はその後、ひたすら逃れ、臨済を脱出した。一方斉を撃破した章邯は一気に城内に突入し、臨済を陥落させることに成功する。
三
「兄は、苦しかったことでしょう。負けることにある運命を知りながら、行動を起こさねばならなかったのですから」
田横は悲壮な話をしながらも、それを残念なことだと後悔するような表情は見せない。彭越にはそれが不思議でたまらなかった。
「本当に未来が見通せて、それに抗いたいと思っていたのなら、魏を救援することなどしなければよかったのではないか。言い方は悪いが、魏咎を見殺しにすれば田儋の命は失われることがなかっただろう。そうではないか?」
彭越にしてみれば、当然の疑問である。しかし、田横はこのとき、若干憤慨した表情をしてみせた。
「兄上はそのようなことをするお方ではなかった。兄上は秦の支配を悪逆なものと考えたからこそ、斉を復活させたのです。その兄がしょせん他国のことだからとして秦の勢力が増すことを放っておくわけがない。魏を秦が滅ぼせば、悪逆な支配が再び勢いを増すだけのこと。兄にとってそれは、苦労して建国した意義を失うことなのです」
要するに田横は、兄の田儋を誇りに思っているのであった。未来が見通せたか、そうでなかったかという問題などより、自分が死ぬかもしれない局面に果敢に立ち向かった、その雄々しさを尊敬しているのである。
「私は、兄のいいつけを守ることができずに、結局斉に滅亡を招いてしまいました。まったく不肖な弟です。ですが、兄に仕え、その行動を共にできたことには誇りを持っているのです」
彭越は頷いた。確かに建国者の苦労は想像するに難くない。このとき秦の支配は終わりを迎え、天下は大きく変動しようとしている。田儋はその変動の一翼を間違いなく担った人物であった。
天下が変動したあと、それが以前より善いものになるとは、現時点ではわかっていない。しかし誰も何も行動を起こさなければ、間違いなくなにも変わらないのだ。田儋は行動を起こしたという一点だけでも、後世にまで名が伝えられるべき人物であった。
「まあ、しかし天下は田儋の……ひいては貴公の望む形に変化はしなかったことになる。わしは……梁の君主として漢に味方するつもりだが、天下は漢か楚のどちらかが治める形となるだろう。残念ながら、斉は舞台から退場させられることになった形だ。韓信にしてやられて……」
彭越はここで田横の心情を探ろうとした。ここまで比較的淡々とした口調で話してきた田横は、国を失った悔恨の情は示していない。彭越はそれを自分に当てはめてみれば、恐ろしくて仕方がなかった。確かめてみたく思ったのである。
「うまくやられたような気がします。当時我々は、
これは謙遜のように聞こえるが、実は自尊心の現れではないか。彭越はそのように感じた。しかしその思いは確信があるわけでもなく、どこがどのようにと説明できるものでもない。しいてあげれば、田横のそのときの表情が、それを物語っていた、とでも言えようか。田横は、そのとき笑っていたのである。
悔恨というより、自嘲を表した笑いであった。
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