斉の残党(『韓信』外伝)

野沢直樹

第1話 敗走


 累々と続くせい王家の末裔として生まれた田横でんおうは、秦によって一度滅ぼされた斉の再建に大きく貢献し、復興後の国内でも権勢を維持していた。しかし彼の現在の立場は一転して、亡国の臣である。


 新興国家の漢によって、山東半島に位置する首都の臨淄りんしを制圧された斉の重臣たちは、四方八方に逃亡して散り散りになった。彼らはそれぞれに軍勢を引き連れてはいるが、その勢力は往時の半分以下でしかない。

 追いすがる漢軍をどうにか振り切り、博陽で休息をとった田横のもとに、使者が凶報をもたらした。

「王が亡くなられたと!」

 これは凶報どころではなく、訃報であった。いま軍は散り散りとなり、戻るべき場所もない状態ではあったが、王さえ存命ならば、態勢を立て直したのちに再びその旗のもとに勢力を集中させることができるのである。だが王が死んでしまったとあっては、それができないばかりか、国を再興する大義さえも失う。

「いったいどういうわけで……」

 田横は言いかけたが、受けた衝撃のあまり言葉を詰まらせた。

 彼らは首都を失って一斉に逃亡したが、ただ逃げたわけではない。逃亡に先立って漢と仇敵関係にあるに斉の窮乏を説明し、救援を仰いでいたのだった。


 そして楚軍は斉王の軍と高密こうみつにおいて合流し、漢を迎え撃った……はずであった。

「王の軍は楚と合流して、数においても相当なものとなっていたはずだが……にもかかわらず、漢はそれを打ち負かしたというのか」

「仰せの通りにございます」

 使者はまるでそれが自分の功であるかのように、はっきりした口調で答えた。田横はそれが気に障る。

「楚はいったい何をしていたのか。たしか楚王の項羽こううは麾下の猛将である竜且りゅうしょを派遣すると言っていたと思うが」

「それが……漢は我が斉軍のみならず、来援した楚軍をも全滅に至らしめた、との由にございます」

 使者の自慢ぶりな口調は、このとき頂点に達した。しかしこのときの田横には、そのことを咎める余裕がなかった。

「なんと、全滅! ……全滅だと!」

 目眩がしそうな報告であった。敵の強大さを改めて実感させられる報告であった。その強大な敵に立ち向かわなければならない立場であった彼は、自身の生まれをこのとき初めて呪った。

「斉・楚の連合軍は漢軍と川を挟んで布陣しましたが、敵の将である韓信は一夜のうちに川を塞き止め、斉・楚両軍を浅瀬におびき出した、とのことです。そのうえで彼は川を氾濫させ、これにより味方の軍は濁流に飲み込まれてほぼ壊滅したと。かろうじて生き残った者も、こののち掃討され……」

――恐るべきは、韓信よ。

 田横は、使者の口上を上の空で聞きながら思う。

 このたびの万を越える軍勢を川に飲み込ませる策略もさることながら、そもそも田横らは韓信の詭計によって臨淄を奪われたのであった。

 先に漢は斉を相手に不戦の誓いを立てるべく、和睦の使者を臨淄に派遣した。田横はこれを是として国境付近の警戒を緩やかにし、使者をもてなすとともに体のいい人質として拘留したが、漢将韓信は使者を捨て駒にして斉地を蹂躙したのである。田横は和睦を結んだことで気を緩め、また使者を人質としたことで状況に安心してしまった。油断が生じたのである。韓信によって、その油断を見事に突かれた。


 味方である使者の命を顧みることのない冷血。

 目的の為には互いの誓いも破るという怜悧さ。


 まさに韓信は、手段を選ばぬ男であった。

 その男にしてやられたせめてもの仕返しに、田横は漢の使者を釜茹でにして煮殺し、その顔に唾を吐いた。しかしそれも自身の器量の小ささを示すような気がしてならない。

「いずれにせよ王が亡き者とされたからには、あらたに王を立てねばならぬ。そうでなければ、真の意味で斉は滅亡してしまう」

 田横はそう述べたが、あらたに立てるべき王家の血筋をもつ人物が自分の他に見当たらないことに気付き、

「他に方策がない。不肖ではあるが、この私自身が王を称すとしよう。異存のある者はいるか」

 と、自らが先頭に立って斉の象徴となることを決めた。



 この時点で田横に従う兵団は二千人を超えない。王を称したといっても治める土地があるわけでもなく、宮殿などももちろんない。また、その支配を受け入れる民衆もおらず、そのため彼らの働きから生じる富もなかった。


 ただ存在するのは、敵対する勢力だけであった。つまるところ田横は、ただ戦争をする為だけに王を称したようなものである。ゆえに彼が率いる一隊は、実のところ王軍などではない。単なる流浪の集団に過ぎなかった。

 名ばかりで実を伴わないそのような集団が乱世を生き延びることは難しい。田横らは、その後すぐに漢の兵団に包囲されてしまった。


 相手の指揮官が誰だとか、それがどのような才能を持つかなどということは、この際たいした問題にはならない。田横率いる斉の軍勢は、このとき相手に比べて極端に少なく、そのため戦いに勝とうという気を持つことなど許されなかった。


 どうやってこの場面を切り抜けるか。

 それだけが重要な課題である。よって彼は前方に迫り来る漢軍の進撃を受け止めつつ、後退した。そしてやがて退路をふさぐ川にまで後退すると、ためらわずに、ひとり残らず部下をその流れに飛び込ませた。

 彼らは泳ぎ、そのほとんどが命をとりとめた。半島に育った彼らにとって泳ぐことはたやすいことである。だが、根拠地を西南の巴蜀はしょくという山奥に持ち、多くの者がそこの出身であった漢兵たちにとってはそうではない。彼らは、泳ぐ斉兵たちに矢を射かけたが、それが届かなくなるると追撃を諦めたのだった。


「所詮は、山男どもよ」

 田横は顔に会心の笑みを浮かべながらそう言ったが、もちろん彼らは戦いに勝ったわけではない。王自ら泳いで川を渡るなどという事態は、負け戦そのものであった。

 彼らが泳いだ川は済水であり、斉国とりょう国を隔てる川であった。ゆえに対岸に泳ぎ着いた彼らが立つ地は、すでに梁の国土である。つまり彼らは漢によって祖国から追放されたのである。

 田横の頭から爪先までずぶ濡れになった姿は、その事実を象徴しているかのようであり、彼自身もそのことを認めざるを得ないようであった。

「各自、軍装を解いて旗指物はたさしものを捨てよ……私はここに、斉軍の解散を宣言する」

 田横の発したひと言に周囲の者は皆、声を失った。

「心配は要らぬ。梁はおおむね漢に味方する行動をとっているが、正式に同盟を結んでいるわけではなく、その立場は中立である。したがって梁国内に逃げ込んだ我々を、漢は無闇に攻撃することができない。軍装を解いても安心だ」

 田横は落ち着いた調子でそのように述べたが、彼につき従う兵たちが危惧するのはそのことではない。彼らは、斉という自分たちの国が消滅してしまうことを恐れているのであった。

「君たちには残してきた家族のことや、個人的な財産のことなど……心配の種は尽きないだろう。だが、もともと斉という国に対して責任を持つ立場にあるのは、私ひとりだけだ。私に付き従うことによって、君たちは……なんと言えばいいのだろう……本来得られるべき利益を失うことになるかもしれない。よって、ここで君たちが帰還することを許可する。帰還の道中で漢兵に捕らえられることはあるかもしれぬが……復讐の心を忘れ、相手を受け入れる態度を根気よく示し続けるのだ。そうすれば、命を奪われることはあるまい」

 田横はそのように言い、自分と行動をともにする危険を訴えた。自分には死の危険が迫っているが、それに臣下を道連れにする意思はない、と述べたのである。


 この時点で彼に従う人員は五百名あまりとなった。ほぼ三分の二が離脱したわけだが、それを責めることのできる人物が、世の中にいるであろうか。



 大梁たいりょうという地は、過去には国の首都であった。魏は秦末の動乱によって一度息を吹き返したが、すでにこの時期には漢によって滅亡させられている。

 大梁の周辺地域一帯は、その名から梁国と呼ばれる。梁は度重なる戦乱によって支配者を何度も替えながら、漢と楚という対立する二国間の中間に位置することで、しぶとく存続していた。それを可能にしたのが、当時一帯を支配していた彭越ほうえつという人物である。彭越は、時には楚に味方し、またある時には漢に味方することで、両国から信頼を得ることなく、しかし無視することのできない存在として立ち回っていたのである。


 その彭越の耳に、不穏な情報が家臣によってもたらされた。

 城外で不審な集団を捕らえた、というのである。

「不審な者とはなんだ。何者だ」

 彭越はその特徴的な粗野な態度で家臣に問い返した。もともと彼は鉅野きょやという済水沿いの都市で漁師として生計を立てていた男なのである。また、不漁の時には追剥ぎなどをして生活の糧を得るという、実に野性的な人物であった。

「それが……捕らえた者のひとりが、話の内容からして斉の田横のようで……」

 家臣はやや遠慮がちな口調で、自らの首領に対して答えた。

「田横だと! あの斉の? 彼が、ここにやってきたというのか。ふざけたことを言うな!」

 理不尽な怒声を浴びせられた家臣は、萎縮しながらも用件を述べた。彭越という男との会話では、このようなことが常なのである。

「その田横と名乗る男は、詭計によって漢に敗れ、ここまで落ち延びてきたとのことです。彼らは武具を失なったうえに、糧食を食いつくして、この地にやってきたとのこと。なんでも助けてもらいたいとのことで……」

 彭越は、その家臣の言に気を良くした。田横を名乗る人物の低姿勢な物言いに、どうやら任侠心を刺激されたようである。

「話を聞こう。懐に匕首あいくちが隠されていないことをしっかり確かめたうえで、ここに通せ」

 彭越は用心深さを忘れていなかった。戦乱期に生きる者の知恵である。彼はただ単純な思考を持つ人物ではなかった。

 

 彭越と対面した田横の姿は、薄汚れていた。黒ずみ、しわまみれになった衣服を身にまとった彼が最初に口にしたことが、そのことに対する謝罪であった。

「貴人に面会するには、斎戒沐浴して衣服も清潔なものに替えねばならぬことは承知のうえですが……なにぶんにもそのような余裕がなく……ご容赦いただきたい」


 深々と頭を下げた田横の姿を前にして、彭越は考え込んだ。

――こいつは、本物なのか。


 薄汚い格好をして人の前に現れて謝罪の弁などを口にしながら、この男はそのことをさほど重大なこととは考えていないようであった。王族として生まれた自信が態度に表れていたようである。


――しかし、もともとそれを恥じる心も持たない卑賤の出身かもしれぬ。


 疑った彭越であったが、不思議なことに目の前の人物の表情には、気品が溢れていた。それはいかにも生まれながらの王族が持つ表情のようにも思えた。

 しかし疑念は晴れない。戦いに敗れ、死地を切り抜けてきた人物が、そのような態度をとり続けられるものか……彭越には、目の前の人物がなんらかの理由で田横の名を騙っているかのように思えた。


 彭越はそのことを質してみた。

「貴公は漢に敗れたというのに、自信に満ちた表情をしている。そのわけが知りたい」

 彭越はなぞかけのように問うた。相手が返答に窮するようなら、偽物であるという判断を下すつもりであった。


「疑っておられるようですな。少し、お話をしましょう……。秦の末期から現在に至るまでの斉国の盛衰について……。お付き合いいただければ、私がまさに田横であることを信じていただけるとともに、なぜ私の中に自信がみなぎっているかをご理解いただけるかと思います」


 彭越にとって、相手が自分に殺意でも抱いていない限り実害はない。というのも、この男が本物の田横であるならば、楚や漢に対しての有効な駒となりうるのである。願わくば、本物であってほしいのであった。


「うむ。付き合おう……話すがいい」


 田横を名乗るその男の口から、斉国の歴史が明かされていく。




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