最終話 これは俺たちの物語。


「エウ?」

「ニコは、こっち」

「踊るんじゃないのか」

「あとでね」


 感謝祭の喧騒を背に、そっと大食堂を抜け出す。

 廊下に出た途端、先程までの賑やかさと打って変わって、しんとした静寂に包まれた。俺とエウの足音だけが高い天井に反響していく。


 夕方から始まった感謝祭も半分を過ぎ、すでに夜の帳が下りていた。

 外廊下から見上げる夜空には、大きな月がひとつと、それを追う小さな月。神々の夜宴が齎す神殿の灯り、星。

 風が吹き、天海の波が静かに打ち寄せて、夜空には白い波濤が揺れている。


 別にどこが目的というわけでもなかったのか、エウは月と月の見える廊下の真ん中で足を止めた。


「わたし、ニコに言いたいことがあって」

「……えっ」


 な、なに、まさか政宗に続いてエウまで結婚するとか言いだすんじゃなかろうな……というのはさすがに飛躍しすぎか。

 それともあれか真っ当に考えて、魔王に狙われていてニコに迷惑かけたくないので婚約解消とか、そんな今更なことを言いだすのでは。有り得る。エウフェーミアなら有り得るぞ。


「ちょい待てなんか嫌な予感するから聞きたくない、変なふうに考え込んでないよな!?」

「い、勢いに任せないと言えない気がする……!」

「勢いに身を任せるな! アッ、てかおまえ酒飲んだだろ! なんか顔赤けぇと思ったら!」

「酔ってないもん」

「酔っ払いは大体そう言うんだよ……!」


 両手で赤いほっぺを挟むと、エウはぎゅっと眉間に皺を寄せた。

 その眸が、酔い以外の涙でうるうるしていることに気づく。


 え、なんで、俺なんかしたか。ぎょっと身を引くと、エウは目元をごしごし拭った。


「に、ニコはいつも、わたしに、我が儘言っていいって……言ってくれる」

「え? うん、なんだよ急に。なんかあるなら言えよ」


 どうやら本当に酔っ払ってはいないようだ。

 ベルティーナじゃ飲酒に関する年齢制限は特にない。バルバディアではこういうお祭りのときにしか提供されないが、ベックマン邸では食前酒とかよくあったのでエウも自分の適正量は弁えているはず。


 正直勢いとほろ酔いに任せた我が儘というのがすこぶる怖いが、エウが我が儘というのも珍しいので、俺はひとまず傾聴の体勢に入った。


「わ、わたし」

「オウ」



「わたし、婚約解消なんてしてあげないからね」



 ……ん?

 今なんて?


 思わず首を傾げた俺にかまわず、エウは半べそをかきながら続ける。


「ニコが思ってるよりわたし、ずっと嫌な子なんだから。リディアさんと仲良くけんかしてるのも、デイジーと一緒になってリディアさんとバトルしてるのも、本当はすっごくすっごく嫌なんだからね」

「いや待て、仲良くはない……」

「仲良く見えるの!」

「ハイ」


 なぜ突然やきもちを告白されたのかは謎だが、ひとまず、ついに両手で顔を覆ってしまったエウの前に膝を折った。

 下から顔を覗き込むも、駄々をこねるように首を振る。


「そばにいて、他になにもいらないから。もうこれ以外の我が儘、言わないから……」


 それは、出逢ったあの日に赤い花畑で何気なく交わした会話の答えだった。

 嫌なことは嫌と言えよと、いつか互いに好きな相手でもできたら円満に解消しようなと、一方的に俺が取りつけた約束に対する、七年越しの結論。


「ごめんなさい。わたしと一緒にいたら危ないって解ってるのに、ニコが怪我するところなんて見たくないのに。わたし、それでもニコに傍にいてほしいの。こんなのおかしい。ごめんね」


 指の隙間から透明な滴を零しながら、エウは肩を震わせる。


「わたし、きっとニコを不幸にする……」


 復活の儀式を邪魔してエウの生贄フラグをぶった切る。そうすることでこの先、終わりの見えない魔王軍との戦いが始まる。

 自分の背負う魔力が周囲に危険を呼び込むことをエウがひどく気に病むだろうと、俺はよく解っていた。その通りになった。エウが今、自分を責めていることが痛いほど伝わる。


 そのうえでこの子が俺の存在を求めた。

 そんなことが罰当たりにも嬉しい。


 最初に手を握り返してくれたあの瞬間の……バカみてぇな喜びにも似ている。



 ──『これが愛でないのなら』……。



 顔を上げられずにいるエウの薄っぺらい両肩に手を置いて、俺は深い深い溜め息をついた。


「エウフェーミア、おい、こら。こっち見ろワガママお嬢さま」

「うぅっ」


 顔を覆う両手をべりぃっと剥がし、その細い指先をそっと握った。

 改めて地面に片膝をつく。


「エウ、一回しか言わねえからな、よく聞け」

「ううっ、はい、やだ、やっぱり聞きたくない!」

「ヤダじゃねーんだよ聞け」


 下から覗きこんだエウの眸は不安でいっぱいで、さっきあんなにも大層な我が儘を言い放ったようにはとても見えない。


「例え誰にエウの魔力が狙われようと、何度刺客が差し向けられようと。何度だって俺はおまえを救けるし、殺させはしないし、おまえの傍から離れない」


 そして、いつか。

 エウが何の不安もなく笑って幸せになれる未来を勝ち取るために。



 魔王が斃される世界の最適解を、必ずエウとともに見るために、俺が魔王を打ち滅ぼす。

 リディアではない。アデルでも、トラクにも任せない、この手で。

 俺は天海のくじらに『いずれ破壊を齎す』と預言された者。この俺の破壊の相手は、魔王に他ならない。



 ……そんな決意は胸に秘めて、でもなんとなく照れくさくて、俺は大事なときに笑ってしまった。

 真面目な顔したほうが締まったんだろうけどな。



「だから……俺の魂の名を受け取ってくれないか。エウフェーミア」



 もう誰に呼ばれることもないと思っていた、でも捨てることができなかった、日本で生きていた悪ガキの名前。

 ニコラ・ロウとして生まれ直しても俺のままだった。俺として生きて死んだ記憶が今のニコラをつくった。だからもしかしたら両親につけられた真名よりももっと大切で、強力かもしれない、魂の名前。


「親父殿も、兄貴もシリウスも母上も、この世界の誰も知らない、大事な大事な『俺』の名前だ」

「……いいの?」

「言わせんなよ。エウに知っててほしいんだろーが」


 もう二度と傷つけさせるものか。

 魔王にも。ロロフィリカにも。彼女の背負った魔力の枷を狙うこの世のありとあらゆる悪にも、正義にも、何もかも。


 ここは俺たちの生きている、俺たちの世界。

 選択と行動の果てに訪れる未来をいつか運命と呼ぶためにひた走る、俺たちの物語。


「そんなに大事なもの、本当に」

「しつけぇ」

「……ふふ。ごめん」


 エウフェーミアは、透きとおる菫色の双眸いっぱいを潤ませて、そしてほほ笑んだ。

 うなずいた拍子に涙が零れる。

 睫毛を濡らし、薔薇色の頬を伝い、ほっそりとした顎から、ぽたりとスカートに滲みをつくった。

 人の泣き顔を美しいと感じたのは、これで二度目だった。

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