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 聖堂から帰る頃には夏の陽も陰り始めていた。あたしは木陰の涼しさで身体の熱を誤魔化しながら、家への道を急いだ。

 カンジヨンとの話は長くなった。最初は聖堂で立ち話をしていたのだが、長くなりそうなことを察したのか、信徒館にあたしを迎え入れてくれた。教会には珍しい、畳の部屋だった。部屋のすみには小さな冷蔵庫があり、好きなだけ麦茶を飲むことができた。部屋には信者らしき人々が頻繁に出入りしたため、邪魔にならないよう、あたしたちは端っこのちゃぶ台を占め、座布団のうえに正座し、ときに足を崩して、話したいことを全てさらけ出した。昼過ぎにはパン屋さんが来た。うちの高校に来ているのと同じ、カトリック系のパン屋さんだった。カンジヨンがロゼッタを買ってきてくれて、あたしたちはそれを食べながらすこし世間話をし、食べ終わるとまた本来の話題を長く語り合った。

 ババアが風俗をしていることはカンジヨンも知っているらしい。そのことについてカンジヨンは「やめてほしい」が「仕方ない」という微妙な言い回しをした。この「仕方ない」という言葉はその後も何度か使った。その理由は、ババアが日本に来ることになった所以にも関係しているらしかった。

 ババアとカンジヨンはふたりだけの姉妹で、ほか両親と、四人で暮らしていたという。あたしは韓国の都市はソウルとプサンしか知らないので、彼女たちが住んでいたらしいコンジュという町のことは分からなかったが、田舎にあるちいさな古都で、歴史以外はなにもない町で、慎ましく暮らしていたと教えてくれた。父親は公務員で、母親は小学校の教師。韓国によくある共働きの家庭で、財政状況はよく、そこそこ立派な庭付きの一軒家もあり、これといって不自由のない暮らしだった、とカンジヨンは慣れていない日本語に詰まりながら、しかし言葉数は饒舌に、まるで釈明みたいに語った。それからカンジヨンはしばらく沈黙したのち、麦茶を飲み干して呼吸を整えたあと、「ただ」、と続けた。あまり言いたくなかったのか、言えるほど語彙がなかったのか、分からないが、あまり明確ではなかった彼女の表現から察すると、ババアと父親は、性的にただれた関係にあった、ということだった。

 一応確認したが、血のつながった実の父親だった、ということである。いったいどうしてそんな事態におちいったのか、細かい経緯は分からないけれど、カンジヨンは「チヘはすごく可愛かった。町で一番可愛かったし、韓国でも、アイドルになれたと思う。実は、アイドルのスカウトがあったことも何回かある。ぜんぶ父が断ったけど」と説明してくれて、ある程度はそれで納得をした。それからカンジヨンは、声を潜め、「なによりチヘは、裸がすごくいやらしかった。おとこを惹きつけるみたいな、そんな身体をしてた」と続けた。ババアの若いときの裸を見たことのあるあたしは、そのことも理解した。あれほど美しい裸体をあたしは見たことがないし、それは単に造形として美しさだけではなく、「おとこを惹きつける」類の、魔性のものとして説明したほうが適切なように感じられた。

 父親とババアとの関係は、やがて母親の知るところになったらしい。母親はババアをひどく罵倒し、虐待し、肉体的にも心理的にもババアを追い詰めたという。父親は母親の怒りが逸れたのをいいことに、ババアの味方にはならず、むしろ「娘に誘惑された」と母親の肩を持ち、虐待に参加し、どさくさに紛れて抱くことすら続いたという。

 ユダとコンジュは姉妹都市の関係にあるらしく、カトリック系の学校を中心として、定期的に交換留学が行われているそうだ。カンジヨンの日本留学の話が出たとき、ババアも一緒に日本に行く流れになったのは、自然なことだし安心もした、とカンジヨンは言った。もうこれ以上虐待されることはないのだから、というニュアンスだったのだろう。でもあたしは、カンジヨンの口調からは、ババアに対する嫉妬のようなものも多分に感じ取れたので、その言葉を単なる思いやりとは素直に受け取れなかった。それに、カンジヨンは高校を卒業すれば韓国に帰る手筈が整っていたが、ババアはそのまま日本に残される形となっていたようだ。そのうえ、カンジヨンには十分な仕送りが与えられているが、ババアには一銭も渡されていないらしい。ババアは生きていくため、風俗で稼ぐしかなかったのだ。

 ――風俗なんて一族の恥。なのに教会に来るなんて、罰当たりだから止めてほしい。教会に来てるのは、私からお金をせびるためだと思う。私はチヘにお金を渡すつもりはない――

 カンジヨンはそんな感じのババアに対する文句を、言葉を変えて、表情を変えて、何度か繰り返した。

「……カンチヘが妊娠してるってことは知ってる?」

 あたしはそう尋ねてみた。それを聴けば、何か思うところがあるかもしれないと、まだそう信じていたからだ。

 カンジヨンはそのことは知らなかったのか、はっきりと驚きの表情を表したが、すぐに嬉しそうににっこりと微笑んで、

「仕方がないですね」

 と言った。

「仕方がない。これは私が日本に来て、最初に覚えた言葉です。いろんな韓国人や、外国人が、この言葉をよく使います。すごくいい言葉だと思う。チヘもこの言葉が大好きなんです」

 カンジヨンの笑顔がすっと冷たくなった。

「祖父もね。女性関係は相当乱れてたんですよ。日本に来ることになったのはその罰ですね。その息子の、父も、それを引き継いでいて、チヘにも遺伝してるんだと思います。チヘは祖父とも関係があります。チヘが私の姉なんて、けがらわしくて仕方がない。チヘの子どもも、きっとチヘと同じくおとこ好きに育つでしょうね。せめて女子が産まれなければいいけど」

 それを聴いて、あたしはカンジヨンを殴りたくなるのを必死でこらえた。仕方がないから、じゃなくて、あたしはババアの娘だから、カンジヨンを思い切り殴りつけたかった。でもあたしは「つおいこ」だから、そうしなかった。

「……あなたは神を信じますか?」

 去り際、カンジヨンにそのことを尋ねてみた。カンジヨンは彼女らしい無邪気さで、

「信じます」

 と即答した。

 ババアなら、なんて答えるんだろうか。父親に強姦され、母親に虐待され、妹からは見放され、ひとり日本で、風俗をして、子どもを孕み、生きてきたババアなら、なんて答えるんだろうか。

 ババアがもし神を信じていないなら、ババアは何を信じていたんだろう。どうしてあたしたちを育てようと思ったんだろう。いったいあたしたちに、何を求めていたんだろう。

 少なくとも最後の問いだけは分かった。美貌でも、智謀でも、恵俊彰でもない。

 強さだ。それもおそらく、おんなとしての。

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